カリント日記

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2005年4月1日(金) ウソも方便??

エイプリルフールはウソをついてもいい日とされているが、ウソには二種類ある。
ひとつは相手のためのウソ。
そしてもうひとつは保身のためのウソ。

以前、友人と隠し事についてメールで話をしたことがある。
「夫婦の間で隠し事はいけない」と、私が言うと、その友人は「黙っていられるのなら黙っていればいい。わざわざ言う必要のない事は言わなくていい。臨機応変にするべきだ。ウソも方便という言葉を知らないのか」と言った。

そしてさらに、「私は大病をした。生死にかかわる大病で、これを子どもに言うと不安に思うかもしれないので、隠せるものなら隠しておきたい。それでさえもあなたは、『隠し事はいけない』などといえるか?」と、付け加えた。

何かがおかしい。

ウソも方便というのは、相手のためを思ってつくウソであるべきで、自分を守るためにつくものではないと思う。
他人のためのウソ。
例えば、「頑張ればキミにも出来る」などという励ましの言葉もその一つだろう。
本当に「頑張れば出来る」という結果よりも、「頑張ることが大切」ということを教える時などに、よく使われる「ウソ」だと思う。
また、ドラマの中では死に行く人を安心させるために、涙ながらにウソをつくシーンもある。
子どもを心配させまいと思う「大病」の件も同じだ。
いずれも相手を思いやってつくウソである。

でも、夫婦間での隠し事=ウソ、は方便とは言わない。
自分に不利なこと、相手が怒るかもしれないこと、そういうことは黙っている方がいいと、後ろめたいことをした人はそういう。それが相手のためだ、そう言って自分を守る。
これは保身のウソだ。

保身のためにつくウソは、たとえエイプリルフールでもついてはならない。

2005年4月2日(土) ご近所さん

親の留守中に5人の子どもが被害にあうという痛ましい事故がおきた。
親は長女夫婦と一緒にパチンコをしていたらしい。

私も嫁さんと二人でよく飲みに出かけるので、「子どもを置いて出かけるな」とは言わない。
むしろ、子どもだけに留守番させられない環境というのは、それはそれで問題でもある。
例えば、今回のような火事。
火の元は居間のファンヒーターという話もある。
物ごとの分別のつかない乳児がいるのに、ファンヒーターを使っている環境が既に問題だ。
我が家のガスファンヒーターは昔のものと違って、炎の部分に外から直接触れることができず、子どもが異物を詰め込んだとしても、引火しないようになっている。無論、振動を与えたり、設定以上の温度になったりすると自動的に消化される。なにより、異物を詰め込むような分別のつかない幼児はいない。
また、我が家は誰もタバコも吸わないので、マッチやライターがある環境ではない。
害虫もいないので、冬場は殺虫剤などの可燃性のスプレー缶が転がっている環境ではない。
要するに、大人でさえ、台所のガスコンロ以外、火のつけようが無い環境なのだ。
もちろん、放火にも備えて、燃えやすい物は家の周りに無い。
さらに、私は家を買う時にもそれらのことを考え、駅に近くて適度に人通りがあり、自動車は通らず、周囲に家が多い、この場所を選んだ。

そして、一番大事なのは近所づきあいだ。
子どもと大人が互いに気安く会話できる環境。
何かの時はすぐに互いに声を掛け合うような環境。

今回の火事も子どもが助けを呼べなかったのには、そういう環境ではなかったからではないかという気がしてならない。
また、近所の人が互いに注意しあう意識も薄く、早く気がつくことができなかったのではないか、という気もしてならない。
私は今回の事故が単に大人が子どもおいて出かけたところに問題があるのではなくて、その環境に問題があったように思うのだ。

子どもに襲い掛かる不幸は火事だけではない。
それ以外にもたくさんの事件や事故が襲い掛かる。
それを防ぐためには、ご近所同士のコミュニケーションネットワークが大切だ。

近所の子どもを意外なところで見つけると、「どこどこでだれだれが遊んでた」という連絡をすぐに親同士がケータイで連絡を取り合う。学校の先生だってメル友だ。
大人は子どもを見かけると挨拶をする。子どもは大人を見かけると挨拶をする。
「どこへいくんだ?」「家にお母さんはいてるか?」など、そういう会話をする。
コンビニのおねーさんや、飲食店のおにーちゃん、診療所の看護婦さんにアパートの大屋さん。近所の人ほとんどが私の子どものことを知っている。
私も近所の子どものことは知っている。

私たち夫婦が安心して子どもを置いて外出できるのも、大きな家の「離れ」に住む老夫婦よりも近い存在のご近所さんがいるからなのだ。

2005年4月3日(日) 

夕方から雨が降り出した。
日暮れと雨雲のせいで暗くなってきた道を、車で走っていると、突然、目の前が光った。
何の前触れも無くフラッシュがたかれたかのように、その一瞬は何が起こったのかわからず、それが稲妻であることは、まぶたに焼きついた残像でわかった。

「稲」の「妻」と書いて「稲妻」。
諸説はいろいろあるものの、「稲妻」と言えば、秋の季語だ。
しかし、天から地面に向かってジグザグに進む、閃光は「かみなり」というより「いなずま(いなづま)」と言ったほうが、しっくりくる。

コンピュータにとって雷は天敵だ。
雷によって停電することもあれば、電圧が異状となることもある。
どちらも、コンピュータが停止してしまう要因である。
だから、コンピュータに携わる仕事をしている私にとっても雷は怖い存在だ。

しかし、仕事を抜きにして考えれば、私は光り輝く稲妻が好きだ。
その絶対的な力強さに畏敬の念を感じる。

暗雲を貫いて大地に届く青い閃光。
よどんだ大気を激しく震わせ轟く雷鳴。
巌(いわお)を貫き、朽木を裂く。
炎を呼び起こし、そして命をも奪う。

まるで、神が人を罰しているかのような「かみなり」は、古の頃より人々が恐れてきた、抗うことのできない自然の驚異だ。
まさに、「神鳴り」。

もし、コンピュータが止まって私の余計な手間が増えたのなら、それは私が罰を受けているのかもしれない。

2005年4月4日(月) 鼻水

鼻水が止まらない。
花粉症ではないと思う。

昼間は外を歩いていたがなんともなく、14時を回った頃から急にタラタラと止めどなくたれてきた。
よく鼻炎になるが、いつもなら数時間で自然に治まる。
お酒を飲んだ翌朝とか、何故か夕方とか。
大体、鼻炎の予感がして、鼻炎になって、ああそろそろ治まるな、と思っていたらいつの間にか鼻はスッキリしている。

でも今日は違う。
気を抜けば、ぽたりとたれてしまうような水っ洟が、止まる気配もなく、流れ続ける。

仕方がないので薬局に行って、眠くならない鼻炎用の薬を買って早速飲んだ。
でも、数時間経過しても、いっこうに止まる気配はない。
そうしているうちに、もう一度薬を飲む時間になったので、半信半疑ながら薬を飲んだ。しかしやっぱり効いてくる気配がない。
依然として鼻水は流れ落ちる。

鼻を真赤にしながら自宅に戻り、今度は眠くなってもかまわないからと、少しきつい薬を飲んだ。
ところが、これまたいっこうに治まる気配がない。
ティッシュも山積みとなり、鼻も真赤になって酷く痛む。

明日になっても止まらないようなら、今話題の鼻炎用高級ティッシュを買おう。

2005年4月5日(火) 地球人

「あなたは何じんですか?」との問いかけに、学生時代にまじめな顔をして「地球人です」と答えたら、一笑に付された記憶がある。

私は日本語を読み書きするし、サッカーの試合前には一緒に「君が代」を歌うし、何より日本国籍なのだから、「日本人」なのであろうが、出来ることなら「地球人」でありたいと思っている。

しかし、多くの人は自分をどこかの国のひとつの国籍の民族としたがっている。
なかにはそれに固執するあまり他の民族に対して野蛮な行為をする人までいる。

昨今、近隣のアジア諸国で日本に対する抗議行動が、よくメディアで取り上げられる。
日本の国の行いが正しいとは限らない。
彼らが抗議するのも一理あるだろう。

でも、その行為は果たして正義だろうか。
日本の政治家の写真を車で轢き、日本人を模倣した人形を引き裂き、そして日本の国旗に火をつける。
その行いは称えられるものだろうか。

ガスコンロ以外で火をつけることさえためらいを感じ、石ころ以外を車で轢くことなど出来ない私からすれば、彼らの行いは「蛮行」以外の何ものでもない。
せっかくの抗議が私の心には抗議として響かない。

民族間の憎しみの連鎖を断ち切り、「地球人」として仲良く出来る日は来るのだろうか。

2005年4月6日(水) 定時制

子どもの頃、よく出かけた商店街へ向かう道の途中に、高校があった。
夕方にその前を通ると、トランペットの音が聞こえたり、ランニングする人の掛け声が聞こえたり、活気があった。
そしてたまに、親のお供をして夜に買い物にでかけると、夜なのに教室の所々には明かりがともり、何人かの人が教室にいるのをうかがい知ることが出来た。

「今頃勉強してるの?」そう問いかける私に親は、「そうや。ここは、昼間働いて夜、勉強する人のための定時制高校や」と教えてくれた。
昼間働きながら夜に勉強すると言うことの意味を理解できない私はただ「ふーん」と納得するだけだった。

その大変さを知ったのはアルバイトを始めた高校になってからだった。
アルバイトと言っても夏休みや春休みにする程度のもので、それも自分の小遣い稼ぎに過ぎず、決して学費を稼ぐものではなかった。
それでも仕事をすることの大変さを知り、ましてそれを自分が学ぶために稼ぐものだとしたら、と想像した時、初めて働きながら学ぶ人の偉大さを知った。

私とて、大学に行く金を全て親に出してもらうような恥ずかしいことはしていないが、それでも、ようやく半分程度を稼ぐのがやっとだったので、学費を稼ぎながら学んだ人には到底及ばない。
今日、大学に合格した知人が、昼間の私立大学よりも夜間の公立大学を選んだと聞いて、感心した。
その人もまた、働きながら学ぶのだろうかと思うと、頭の下がる思いだ。

学費のことも心配せずに「勉強さえすればいい」と思っている「幸せ者」が多い中、自らその道を切り開く若者に惜しみないエールを送りたい。

2005年4月7日(木) 中学生!!

今日は長女の入学式だった。
といっても私は参列しなかったが。
我が家では、小学校までの間は、父親も授業参観をしたり、運動会を観戦したりするが中学生になると、入学式や卒業式までも参列しないようになる。
ほんの数週間前、我が家の歴史に残るような感動的な長女の卒業式だったが、その長女の入学式でさえ、中学生なので私は参列しない。

まあ、長女は長男と違って私が参列しても文句は言わないだろうが、長男などは「おやじ、卒業式にはくるなよ」と釘をさしやがった。

その長女の制服はブレザーにプリーツスカートだが、本人は気に入らない。
セーラー服がいいとか、デザインが気に入らないとか、そういうわけではない。
いや、セーラー服じゃないのがせめてもの救いだろうか。

何がイヤかというとスカートがイヤなのだ。
スカートに限らず、「ピンク」とか「フリル」とか「ひらひら」とか、そういう「女の子らしい」ものが嫌いなのだ。
小学校低学年の間は「女の子らしい」女の子だったが、3年生ごろからはもう、スカートをはかなくなってしまった。
だからクラスのみんなはスカート姿の長女を見たことがなく、長女のスカート姿はちょっとした話題になっているようだ。
私立の中学校に進学するため離れ離れになる友人は、長女のスカート姿を見たいがために、わざわざ我が家までやってきたほどだ。

持っているものは男の子が持っていてもおかしくないようなものばかり。
遊び道具も遊ぶ内容も。無論、遊び相手も男の子のほうが気が合うようだ。

父親としては、それだけ長く、一緒に出かけることもできるだろうし、会話も弾むだろうからうれしい事なのだが、それはそれでちょっと心配だったりする。
でも、泣き虫なところを見ると「やっぱり女の子だな」と安心したりもする。

そんな親の気持ちをよそに、中学生になった娘は、今日の出来事をうれしそうに話していた。

2005年4月8日(金) 極端な話し

「なんで、そんなことをしたんだ!」
「だって、○○君もやってたから・・・」
「じゃあ、○○君が人を殺したら、お前も人を殺すのか!」

大人が子どもを叱る時に良く聞かれるセリフだ。

そう叱られた子どもは『そんな極端な』と思うだろうし、また、こういうふうに怒鳴っている大人を見て、回りの大人も『そんな極端な』と思う人が多いだろう。
そして、どちらかと言えばこのような言い方は指示されないのではないだろうか。

しかし、私はこの叱り方を納得できる。
私もどちらかと言えばこんな叱り方をするからだ。
無論、私を含め言った本人もまさかまともに「人殺しまで真似をする」なんて思っているわけではない。
にもかかわらず、「そんな極端な」と反感を買ってしまう。

何故だろう。

今まで余り深く考えたことがなかったが、理由は単純明快だった。
こちらの意図していることが相手に伝わっていなかったのだ。

「じゃあ、○○君が人を殺したら、お前も人を殺すのか!」と叱った大人は何を子供に伝えたかったのか、子どもも含め、その周りの大人たちはそれを理解しているだろうか。
「自分の心の甘さゆえに犯した過ちを、人のせいにするんじゃない」、そういうことを言っていると、理解できているだろうか。

周りの人に尋ねると、意外と理解されていないのがわかる。
そういう人たちには単に「そんな極端な話し」としか、伝わらないのだ。

2005年4月9日(土) 今度こそ機種変更

私の使っているケータイは2年前に無料で手に入れたもので、カメラつきではあるもののその画素数は、「31万画素」。
当時は平均かそれ以上だったように思うが、時代は変わり、もっと高画質なものが普及している。
そしてなにより、「カメラ」機能が壊れてしまい、撮影が出来ないのだ。

そこで今回、ケータイの「機種変」をしようといくつか候補を挙げたが、車に接続できないなどの理由により、限られた機種しか選択できず、入手可能なものは予算オーバーだったのであきらめたことは、この前の日記にも書いた。

しかし、その予算オーバーとなる最新機種と「テレビが見られるか否か」ぐらいの違いしかないひとつ前の機種があり、機種変更の相場も半額以下になっていたので、それを探していた。
わざわざ「探していた」のにはわけがある。
販売していないのだ。
非常に人気のある機種らしく、街角のケータイ電話の販売店はおろか、ネット販売でもすべて「完売」となっており、もはや最も入手の難しい機種として、あちらこちらの掲示板でもそれを求めている声が聞かれる。

ところが、なんと今回は新品でしかも街角の販売店で販売されていたのを発見したのだ。
しかも、ネットオークションでは白ロムが14,000円前後で取引されているにもかかわらず、販売店では7,000円程度で機種変更できたのだ。

でも、その販売店はすぐに見つけたわけではない。
大阪府下にあって車で30分程度でいけると思われるところ、全部で20箇所近くの販売店に電話で在庫を確認したが、「もう、品切れで入荷の予定もありません」といわれることが多く、中には「そのタイプへの機種変更は扱っていません」とまで言われることも多かった。
その中で「入荷日は未定ですが、4月になれば入荷するかどうかの見当はつくと思います」と返事をもらっていたところがあった。
偶然にも、我が家から最も近い販売店だった。

4月の最初の土曜日にそこへ出かけて店員に話を聞くと、「入ってくる可能性があるので来週、もう一度電話をくれ」と言われ、そして今日、電話をすると、「白と黒があります」と言う返事が。
すぐに取り置きしてもらうようにお願いし、30分もしないうちに私はその販売店で手続きをした。

さあ、充実のモバイル生活が始まるか。

2005年4月10日(日) シンバル

こどもも三人目となると、入園式や卒園式でもない限り、何かイベントがあるからといって、そうそう幼稚園に出かけて、その姿をカメラに納めることもない。
ただ今回は少し違った。

次女は三人の子どもの中でも一番の怖がりで、特に音に対しての怖がり様は、滑稽さを感じるほどである。

テレビアニメのヒーローがピンチになり、敵の怪物が「ドシンドシン」と大きな音を立てて近づいてくると、耳を塞ぎ、目を細め、私の背中に回って見ている。
ゴム風船を膨らませるのが好きで自分でもよく膨らましているが、あのゴム風船を擦った時に鳴る特有の「キュッキュッ」という音を怖がり、自分が風船を膨らます間、私に耳を塞いでいてくれと言う。

そんな娘が入園式のお祝いで合奏する合奏隊で「シンバル」を担当するのだと言う。
先生の大袈裟な指揮に合わせて両手を叩き合わせるだけなので、「木琴」や「ピアニカ」に比べれば、さほど技術は必要としない。同じ打楽器の「小太鼓」と比べてもそれほどのリズム感は必要ない。

普通の子どもなら、恐らくは最も簡単な楽器ではないだろうか。
しかし次女にとっては、「ピアノ」よりも難しい楽器ではないだろうか。
何しろ、自分の上半身と同じぐらいの大きな金属の板を、自分の目の前で、「バシーーン」と叩きあわさなければならないのだ。

前日に感想を聞いてみると「別に怖くないで」と言っていたが、その「勇姿」をひと目見たいと思い、電車で二駅の幼稚園まで出かけた。

幼稚園に近づくと、楽器演奏の音が聞こえる。
小走りで門をくぐり、中庭に出ると、おそろいの制服に派手な帽子をかぶった合奏隊がいた。
その隊列の端の方にシンバルを叩く子どもが二人いた。
一人の男の子は堂々と、何か面白げに叩いている。
そしてその左側に面白い格好でシンバルを叩く娘がいた。

叩く準備の時は、右足を少し前に出して構え、シンバルは両脇付近に待機している。
そしていざ叩く時になると、まるで平泳ぎをするように、わきの下から斜め上、丁度顔の前辺りに目一杯腕を突き出し、そのまま上に向かって開き、腕を回してまたもとの位置に戻る。
その、顔の前に丁度来るタイミングで、横を向いてやはり目を細めている。
なんだか少し辛そうだが、それでも一所懸命の娘の姿はほほえましかった。

演奏が終わる直前、私に気がつき、最後の人たたきをした後、にっこりと私に微笑みかけたので、私も微笑み返した。
するとすぐに「あっかんべぇ」をしてきた。

それを見て安心した。
「あかんべぇ」は娘が上機嫌であることのしるしなのだ。

2005年4月11日(月) 分別しましょう

よく利用する電車の駅構内に設置してあるゴミ箱は、当然のようにゴミを分別するタイプだ。

大きな駅では「もえるゴミ専用」と「ビン・カン専用」のゴミ箱が分けて設置してあるのに対して、小さな駅では両方がひとつになっている「もえるゴミ/ビン・カン」のゴミ箱が設置してある。

私の家の最寄り駅にあるのは「もえるゴミ/ビン・カン」のゴミ箱。


これは中で二つに分かれていて、「もえるゴミ」と「ビン・カン」に分かれている。

で、もう一方の大きな駅に設置してある「ビン・カン専用」のゴミ箱、入口は二つあるが、中はひとつの箱となっている。


私の住む街ではゴミの分別収集には先進的で、ビンとカンはもちろん、ペットボトル、燃えるゴミ、ビニール、プラスチック、大型ゴミなどなど、細かく分類されており、我が家でも分別は徹底されている。
幼稚園の次女でさえ、お菓子の箱の外側のビニール袋と箱の中の紙包みは分別して捨てる。
だから、「ビン・カン」という括りも少々抵抗がある。
ま、しかし、全く分別しないよりはマシか。
少々の抵抗を感じながらも、分別してゴミを捨てる日々を過ごしていた。

だが、事実を知って驚いた。

それは昨日の日曜日の出来事。
電車を待っていると、清掃員がやってきてゴミ箱のゴミを回収し始めた。
最初に、「もえるゴミ」のほうの箱を取り出して、大きなビニール袋にゴミを詰め込み、手際よく元の場所に戻す。
そして次に、「ビン・カン」のゴミ箱を取り出して・・。
あれま。
今と同じビニール袋に入れてしまった。

よく見ると、そのビニール袋には既に回収してきたと思われる、チラシなどの紙くずと空き缶が一緒になって放り込まれている。
せっかくの分別を、なんてことするんだ。

嫁さんに話をしてなおもビックリした。
「この街のゴミと隣町のゴミは、同じ清掃局で処理されるんだけど、隣町は全くゴミの分別をしなくてもいいのよ」
なんてことだ。
この街でキレイに分別されたゴミは隣町の分別されていないゴミと一緒に処理されるなんて。

そんな事実がわかってから分別が馬鹿らしくなってきたが、いつものように分別してゴミを捨てている次女を見て、やはり曲げるべきではないと思った。

2005年4月12日(火) ワイパーの音

トタン屋根をバタバタと激しく打つ雨や、地面に落ちて水しぶきを上げるような篠突く雨であれば私も好きだ。
それに、外で汗だくになって遊んでいる時ならば、雨でずぶぬれになるのもまた楽しい。
しかし、音もなくガラス窓を伝う雨は寂しい気分になる。
とりわけ、車のフロントガラスの雨をワイパーが拭い去り、そして脇に追いやられた雨が静かに伝い落ちるさまを見ると、哀しい気分になる。

それを聞いた知人が「それは運転しているから」で、「助手席に座って静かに流れる雨を眺めていると心安らいで眠くなってくる」という。
私は今の車になってからは、汚れるのが嫌なので避けてはいるが、雨の中を水しぶきを挙げて車を運転するのは嫌いじゃない。

私が哀しい気分になるのはその知人が心安らぐと言う、助手席に乗っているときだ。

いつも小さい時に見たある情景が思い浮かぶ。

不仲な両親が口論している軽自動車の中。
私は助手席に座り、口論がやむのを待つ。
走っている時は街の景色を見て気を紛らわすこともできるが、信号待ちで止まっている時はそうもいかない。
車のフロントガラスの雨をワイパーが拭い去り、そして脇に追いやられた雨が静かに伝い落ちるのを私はただ眺めてる。
口論の合間に沈黙の時が来ると、ワイパーがガラスを擦る、小動物の泣き声にも似た哀しげな音だけが車内に響く。
相変わらず、雨は音も立てず、静かに窓を伝い落ちる。

「私の大好きな両親はどうして仲良く出来ないのだろう」
そんなことを考えているとフロントガラスが涙でにじむ。
車が走り出すと、涙を悟られないように、また窓の外の流れ行く景色を見ている。

2005年4月13日(水) 少年院

春になって新学期が始まったり、新しい生活が始まると、時々メディアに登場するのが「不良少年の奉仕活動」。

不良少年たちが悔い改めて、今まで迷惑をかけた社会に対して、謝罪の意味を込めて奉仕活動を行っているという記事。

私はこれが理解できない。

彼らが更生したことを訴えたいのだろうが、更生するまでもなく過ちを犯したことのないものにとっては、極当たり前の姿であって、メディアで取り上げるまでもない。

彼らが早朝に公園掃除をして、タバコの吸殻を集めているようだが、今までに彼らは、平気で禁煙の駅のホームでタバコをふかし、吸殻を線路にポイ捨てしていた。
彼らの掃除しているところに電車は来ないし、竹箒で掃くだけで簡単に吸殻は取れる。しかも、いかにも「掃除してます。社会の役に立ってます。お詫びしてます」というのをアピールしやすい、通勤で人通りの多い朝の公園。
線路の上を掃除するのとは全く異なる。
って、そもそもタバコを吸うことが禁じられている未成年じゃないか。

今日も少年院で生活する少年と、それをバックアップするシステムがクローズアップされ、ものの見事に更生していく少年の姿がテレビで放映された。

バカじゃなかろうか。

そんな放送をすると「少年院へ行ってもみんなが自分のために面倒みてくれるし、出所してからも理解ある社会が受け入れてくれる」などと誤解する輩が増えるじゃないか。

メディアが伝えるべきは「ここはこんなに辛いところ。決して来るべきではないところ」と言うことだろ。

不良が更生することを美化するな。
常に当たり前にバカ正直にきちんと毎日を過ごす、目立たない地味な人々を賞賛すべきだ。

2005年4月14日(木) たしかに台形

朝から嫁さんの声が大きいのは、中学生の時と変わらずだらだらと身支度をする、長男に発破をかけるためだ。それでも長男は、蛙の面に小便だ。
もう、走って駅に向かわねば、目的の電車に間に合わないだろうと言うその時刻に、玄関でまだ靴を履いている。
毎日毎日この繰り返しで、嫁さんも「あの子は本当にもう、いつになったら」と嘆きの言葉を漏らす。

こんな長男だから、昔から同級生の母親たちは「大変ねえ」と、ねぎらいの言葉をかけていたし、嫁さんも、長男の話をするときは謙遜を交えて、世話の焼ける子どもであることを、毎度のように話していた。

最近、嫁さんはよく街角で、長男の小学生時代の同級生や母親に会うらしい。
そうすると決まって、長男のことを心配するかのように「今どうしてる?」と聞かれるそうだ。
そして「○○高校に行ってるよ」と答えると、決まって相手は「ええっ!? あの子、頭よかったんやー。知らんかったー」と驚かれるそうで、悪い気はしないものの、『そんなに驚くことないでしょ。うちの子供もだってバカじゃないのよ』と、少し複雑な気がするそうだ。

昨日、酒に酔って帰って来た私に、嫁さんは一枚のプリントを持ってきた。
数学のテスト結果である。みるとなかなかの高得点。
その中に答えを書いていない問題があり、それを見たとき、嫁さんが横から「これ、『問題が間違ってるから解かなかった』って」といった。
見てみる「正方形の一辺を3センチ、もう一辺を5センチ伸ばして長方形にした時・・」と書いてある。
「それ、『長方形にならない。台形だ』って」。
確かにそうだ。
正方形の「一辺」をそれぞれ3センチ、5センチ伸ばしただけなら台形だ。
長方形にしたいなら「対辺」も同様に伸ばさなければ。

私は「あいつらしい」と笑って答えた。
「もう。テストなんだからその程度の融通はつけて解いて欲しい」と、嫁さんは呆れていた。しかし呆れながらも、なんだか嬉しそうだった。

まあ、いい高校やいい大学に行ったからといって、学校の名前じゃ飯は食えない。
(勘違いしてるやつが多いので、助かるが)
成績がいいからって浮かれるのも程ほどにしないと。

2005年4月15日(金) パブロフの犬

私は電車に乗って空いている席があると、例え優先座席でも座る。
優先座席だろうとそうでない席だろうと関係ない。
何処の席に座ろうと、譲るべき人が来たときはすぐに譲る。
むしろ、席を譲らない若者が優先座席を占有してしまうぐらいなら、いつでも譲ることの出来る私が座っていることは、席を取り置きしているようなもので、いわば予約席だ。
まあ、この「予約席」論は私の友人の受け売りだが。

でも、優先座席では他の座席と違うルールがある。
そう、「携帯電話の電源を切る」だ。

この前は優先座席に座っていると、横の馬鹿者がケータイでテレビを見始めた。
そこですぐに注意しようと思ったが、それでは面白くない。
向かいの席に座って、必死でメールを打っているバカ者たちも一網打尽にしなければ。

私はいつものように大袈裟な行動に出る。
まず、隣のヤツをいかにも怪訝そうな目つきで睨みつける。
そして、背筋を伸ばし、首を傾け、横目で画面を覗き込む。
このとき、口をポカーンと開けるのが効果的。
その一連の動作を繰り返し、向かいに座っている馬鹿者たちが、私の行動に気がついたタイミングを見計らってすかさず、横の馬鹿者の肩を叩き、「うるさいで。ここ、優先座席や。向こうでやれ」と注意する。
この一言で、横の馬鹿者は「すみません」と謝り、向かいの馬鹿者たちは、ものの見事に一斉に携帯電話をカバンにしまう。
しかも、彼らが降りていく時は、私に一礼すらする。

今日も電源を切って優先座席に座っていた。
前には家族連れ四人と、一番端に初老の女性が座っている。
誰もケータイを手にしていない。
ところが、家族連れが降りた途端、私はビックリする光景を見た。
その空いた席に女性が四人、座った。
全く各自が知り合いではないことはその格好や年代から見て明らかであるが、取った行動はまるで示し合わせたかのように同じだった。
座る→ひざの上にカバンを置く→カバンの中に手を入れる→ケータイを取り出す。→パカッと開く→画面に集中

あまりのことに思わず吹き出してしまった。
すると、私の横に座っていた女性がこっちを見た。
彼女も今、座ってすぐに、パカッとしたのだった。

まるでパブロフの犬だ。

2005年4月16日(土) 伝心

心地よい暖かい日差しがふりそそぐ、なだらかな芝生の丘。
車座になった面々はみな古くからの友達。

久しぶりに顔をあわせたみんなは、朗らかな笑みをたたえ、談笑している。
そこへ一人の男が後れて現れた。
「よう。お待たせ」
そういって、ゆっくりと輪に加わって座り込む。
遅れてきた男は中学校の頃からの友達だった。
みんなの顔を見る。スローモーションのように時が過ぎる。

子どもの頃は日が暮れるまでボールを追い掛け回し、大人になると日が暮れてから遊びに出かけた。
いろいろな友達といろいろなところへ出かけたが、彼とは最もいろいろなところへ出かけたように思う。

特にキャンプへ行くときは彼抜きなんて考えられなかった。
冬でも平気でキャンプに出かけるつわものの彼がいれば、不安に感じることなど何もなかった。
あるとき、大勢で行くことになったキャンプでは、予約も出来ず、お盆の真っ最中と言うこともあって陣取りは必須となった。
その陣取りのための先発隊として皆より先に現地へ行ったのは彼と私の二人。
真夏とはいえ、山間のキャンプ場の夜は思った以上に冷え込んだ。
そんな夜はアルコールに限るが、翌日買出しに行くことになっていたし、既に店もしまっている時間だった。
薄いタオルケットに包まってどうしようかと考えていた。

「こういうときは必需品やで」そう言うと彼は大きなカバンの中から小さなウィスキーのボトルを取り出した。
銅色のカップにウィスキーをいれ、焚き火の側で温める。
少しススのついたカップを持つと、それだけで全身に暖かさが伝わってくる。
まるで彼の心を感じるようだった。

またいつか、キャンプに行きたい。
そう思っていた。

車座の面々に遅れてきた彼は我々よりも若かった。
「お前は、もう歳をとらないから、何時までも若いままだな」
そう声をかけた私は、微笑ながら夢から目が覚めた。

今日は彼の命日。

この広い空の何処からか、私を見ているのだろうかと思い、空を見上げた。
頭の真上にポカンと浮かんだ月がこっちを見ていた。

「おい。そっちはどうだ。俺もいつかそっちへ行くから、そのときはお花見でもしよう。お花見の陣取りは先発隊のお前に任せたからな」


2005年4月17日(日) 平和の風景

年に二回行われる情報処理の試験は私が自分に与えたひとつの試練のようなもので、毎回必ずチャレンジするようにしている。
しかし、今日はそれをサボった。
今までにも受験しなかったこととは何度かあった。
その理由で一番多いのは仕事と重なったことだったが、サボったのは数回しかない。
今回は例年になく勉強をしておらず、幾分逃げ腰であったことは確かだが、とりわけ天気の良かったことが今回サボった大きな理由だ。

この試験は毎年、4月と10月の第三日曜日に実施される。
丁度その時期は春と秋の「行楽日和」であり、良い天気の中、家族を家に残して、コンクリートに囲まれた試験会場で、朝から夕方まで答案用紙に向かっているのは、非常に心苦しいものがある。
それに今回は次女の「コマなし自転車」の練習をしている最中でもあったので、前日から一日中、子供達と遊ぶことに決めていた。

午前中、家の前で練習をしていたが、すぐに飽きてしまった次女は違う遊びを始めた。
しかし、車は通らないものの、広々と遊べる場所でもないため、近くの河川敷まで車で出かけることにした。
車に遊び道具を積み込み、長女と一緒に三人で車で20分ほどのところにある河川敷へ出かけた。

河川敷に到着して驚いた。予想を遥かにしのぐ人の数。
駐車場は満杯どころか、そこへ行くまでの道も車で埋め尽くされ、なかには奥の車が出られないような停め方をしているものまであった。
私は一度その場所を離れ、学生時代にその付近に住んでいた土地勘を生かし、公園から少し離れた場所に駐車スペースを見つけることができたので、そこに車を停めて公園まで歩いた。


緑の芝生が広がる公園では、あちこちにタープが設営され、雲ひとつない青空の下、バーベキューを楽しんでいるグループが多くいた。
犬と走り回る人、よちよち歩きの赤ん坊、お父さんの投げたボールを一所懸命バットに当てようとする男の子、花を摘む女の子。
平和を実感する風景だ。

私たちもしばし、その平和の風景に溶け込む親子となった。

2005年4月18日(月) ラーメン以外は?

仕事柄、深夜の作業も多く、ユーザ先で作業があるときは大抵、車で出かける。
でも今日は、都合により夕方から電車で行くことになった。

夕方から作業を開始し、一区切りついたところで夕食を摂ることにした。
今日作業をしたユーザ先は駅のすぐ側にあり、周辺にはいくつかの店が立ち並んでいる。昼飯を摂る時も今日は何処にしようかと迷うほどだ。
しかし、21時も回ると勝手が違った。

昼間食事を摂るところは居酒屋であったり喫茶店であったりするのだが、その時間帯は何処もかしこもお酒を飲む場所に変わっていて、夕食を摂るには不向きだった。
というか、そんなところでシラフのまま食事をするのは左党の私にとっては拷問に近い。
少し店を探すと、何処にでもありそうな名前の中華料理屋があった。

お世辞にも繁盛しているとは言いがたい感じの店構えが少し不安になり、暖簾(のれん)の隙間から店内を伺うと、背広姿のビジネスマンや家族連れの姿が眼に入った。
酔っ払いばっかりだったりすると入りづらいが、そうではなかったことに安心して、この店に決めた。

昼時ならば間違いなくカウンターに案内されるだろうと思うほどに、カウンター席の数に比べて、テーブル席の数が少ない。
でも、時間も時間なので4人がけのテーブル席に着いた。
赤い化粧板のテーブルは所々はげ、一体どれぐらいの間、気が付かなかったんだと思うほどに長いタバコのこげ後がある。
くたびれたエプロンをしたおばさんが、すりガラスで出来ているのかと見間違うほどに傷だらけのコップに生ぬるい水を汲んで持ってきたので、すぐに「ラーメンセット」を注文した。

ラーメンと白いご飯だけの、まるで学生相手のようなシンプルなセットだ。
しかし、ここは駅の近くだからだろうか、それなりの金額である。
我が家の近くにある中華料理屋はめっぽう美味く、同じ金額を出せば、一押しの天津飯が食べられる。
かといって、ラーメンセット以外のメニューもそこそこの値段なので、これでまずかったりしたら怒りの矛先がユーザに向かうかもしれないと思い、例え、ハズレでも許せるラーメンセットにしたのだ。

しばらくするとお皿に無造作に盛り付けられた明らかに冷えて表面の固まったものを再度レンジで温めなおしたようなご飯と、え?これであの値段?と思うようなネギとメンマだけのラーメンが出てきた。
怒りの矛先がかなりユーザの方を向いた。

ところが、見かけで判断していた私は自分を恥じることになった。
美味いのである。そのラーメンが。
鶏ガラスープの素朴な味だが、絶妙の塩加減で、それが細麺に絡み合い、麺をすするたびに、香りと味が口の中一杯に広がるのである。
時折、白いご飯を口に運んで、味覚をリセットし、再度ラーメンの味を堪能した。
最後の一滴までスープを飲み干し、しばし呆然としてしまった。

しかし、やはりあの店で次のメニューを試すのは思案のしどころだ。

2005年4月21日(木) 人間ドック

一昨日はすきっ腹だったのがいけなかったのか、少量の焼酎でかなり酔ってしまい、日記がかけなかった。
昨日は、人間ドック前日とあって8時ごろに夕食を追え、それ以後は水も口に出来なかったたし、嫁さんが内職でパソコンを占有していたので、私は早々に布団にもぐり込み、やはり日記がかけなかった。
で、今日は人間ドック。

前回の検診から2年以上経過しており、早く受診しろと嫁さんにも再三言われていた。
インターネットで見つけた病院は「検査費用5万円」と、個人事業主であるため全額個人負担の私にとってはかなりの負担だが、妙にその病院が気に入り、前回同様、同じところに決めた。

採血、眼底検査、検尿、心電図測定、超音波検診などなど順調にこなしていく。
身体測定も行った。

身長:176cm (少し縮んだかも)
体重:64kg  (増えた。おなかの周りの肉に間違いない)
体脂肪率:17% (これもまたおなかの周りの肉が原因)
視力:右 1.0 左 1.2 (ちょっと調子が悪かった)
握力:右 46kg 左 41kg (激減。ショック)

その他の測定結果は画像とともに後日、CD-ROMに納められて郵送されてくる。

最後に行った検査が内視鏡。いわゆる胃カメラ。
この病院を選んだ理由のひとつが、この胃カメラが無痛であるということ。

ドック担当の係員の後について内視鏡検査の待合室へ案内されると、ソファーに座ってしばらく待つように言われた。
すぐに、別の担当者が現れて最初に胃の動きを抑制するための薬だと言って紙コップに入った、喉越しの不快な飲み物を飲まされる。
奥の内視鏡検査の部屋から車椅子に乗せられた女性が運ばれてきた。

『あーそういえば、前回もそうだった』と、検査後に、私も車椅子で運ばれたことを思い出した。

10分ほど待たされていよいよ内視鏡検査室へ。
ベッドに横になると今度は鎮静剤だといって注射をされる。
無論、これらのことはドック開始前に書面と口頭で説明され、承諾のサインをしているのでなんの抵抗もない。
最後に、上を向いて口を開けさせられると、喉の奥に麻酔のスプレーを吹き付けられる。そしてそれを飲み込めといわれる。一気に喉の奥から感覚がなくなるのがわかる。
その後は気管に入るからツバを飲んではいけないと注意されて横を向かされる。
マウスピースのようなものを咥えさせられると黒いチューブがゆっくりと口の中へ差し込まれた。
確かに痛くない。
ガチガチの硬いマウスピースを咥えている歯に、重いチューブが送り込まれる振動の伝わるのが痛いと感じる程度だ。
途中、ポリープがあるというので細胞を一部採りますといわれた。
まあ、ポリープは前回も見つかっているし、時々胃痛もあるので想定の範囲内であったので慌てることもなかった。
10分ほどで検査は終わり、胃の粘膜を保護するという緑色の、さっきよりもっと喉越しの悪い液体を飲まされた。

そして車椅子に乗せられた。
きれいな女性に車椅子で運ばれるというのは、気恥ずかしいような申し訳ないような、とても複雑な心境で、ドック専用の待合室に到着するまで、両手は、先生に説教されている小学生のようにひざの上に並べておいていた。

昼食の松花堂弁当を、飾りの桜の花以外、一粒残さずあっという間に平らげて病院を出た後、昼下がりの青空の下、山へ向かって車を走らせた。

2005年4月22日(金) 救急車

夕方、まだ仕事をしている時に個人用のケータイが鳴った。
着信音で自宅からの電話だとわかった。
でも、この時間に自宅からかかってくる電話は、あまりよくない知らせであることが多い。私は次々に湧き上がる不安を全て否定しながら電話に出た。
しかし、電話の主である嫁さんの声を聞いた時、それが良くない知らせであることを確信せざるを得なかった。

か弱い声で嫁さんが話し始めた。
「もしもし・・・。仕事中にごめん。さっき急に、わき腹から腰にかけて痛くなって・・・。今も物凄く痛い」
私は近くの内科の病院へ行くようにと告げると、力なく「うん」と返事した。
そして最後に「今日は早く帰ってきて」と付け加えた。

嫁さんはめったなことでは仕事中の私に電話することもないし、まして「早く帰ってきて欲しい」などとは、数年前、病気で寝込んでいた時に一度言っただけで、それ以外聞いたこともなかった。
だから今の電話はそれだけ症状が重いことを示していた。

すぐさま私は仕事の後片付けを始め、30分後には帰路に着いた。
帰りの電車を待つ駅のホームから自宅に電話すると、さっきより痛みが増したと言う嫁さんの声は苦しそうだった。
子どもたちは全員家に居るというので、救急車を呼んで病院へ行くように指示した。
嫁さんも既にそのつもりだったらしく、以前私が憩室炎で緊急入院した同じ病院へ行くつもりで救急車を呼んだという。

私自身が救急車を呼べといったのに、本当に救急車を呼ばなければならない事態であることを再認識させられて、不安は一層掻き立てられた。
電車を待つ5分が長い。
ようやく来た電車に飛び乗り、走り出した電車の中からでも電話をしたい衝動に駆られる。
乗換駅で2分ほど待つ時間があったので、もう一度自宅に電話すると長男が出た。
「お母さんは?」という問いかけに「さっき救急車が来た」と答える。
流石の長男も少し心配そうだった。

自宅につくとすぐに子どもたちを集めて、今からお父さんは病院へ行ってくる、お母さんは入院するかもしれないし、バタバタするので、今日を含めて土日は外出禁止、友達との約束も全てキャンセルしなさい、今夜の帰りは遅くなるかもしれないから食事は適当に摂りなさい、それから電話には3回コールで出ること、○○さんに連絡しておきなさい、と手短に伝えた。
長男長女は「外出禁止」が少し不服だったのだろうが、仕方なくうなづいていた。
次女は「お父さん、病院から帰って来たらお母さんのことお話してね」と言った。
母親の身に何がおきたのかよくわからなかったのだろう。
その言葉に幼稚園児の心の不安を深く感じた。

車で10分ほどのところにその病院はある。
おそらく同じ道を救急車もサイレンを鳴らしながら通ったであろう。
運ばれている嫁さんの姿を想像すると胸が痛くなった。
病院の駐車場に車を止めると、駆け足で正面玄関を目指した。
途中に大きな搬送口があり、地面には「救急車」の文字が大きくペイントされていた。
嫁さんもここから搬送されたのか、などと考え、そこを回り込んだところにある正面玄関の自動ドアを開いた。

病院特有の臭いがし、待ち合わせロビーには陰鬱な雰囲気が漂っていた。
私は何処に行けばよいのか判断できないまま、とりあえず受け付け窓口を目指した。
なんと聞けば一番早く嫁さんの現状が聞きだせるだろうか、救急車で運ばれた患者であることと氏名以外にも症状も伝えたほうがいいのだろうか、などいろいろなことを考えながら、そしてロビーに座っている、陰気な顔の人々を見ながら受付に近づいた。

受付のすぐ側まで来た時、左前方に見慣れた髪形を見つけた。
嫁さんの髪型にそっくりな女性がロビーの椅子に座っている。
でも、私の嫁さんはあまりの激痛に耐え切れず、救急車で搬送されてきたほどなのだから、今頃はどこかのベッドの上で診察中のはずであり、その場所に座っているはずがなかった。
しかし、それは紛れもなく嫁さんだった。

「救急車に乗った直後から、急にウソみたいに痛みが消えて。もう、途中で、『大丈夫なのでおろしてください』といいそうになったわ。レントゲン撮影して、今は検査結果待ち」と彼女は笑いながら言った。

結局、尿路結石ではないかとの診断だった。
痛みが再発した時のための痛み止めをもらって病院を出た。
長男に電話をした。
「あ、お母さんは、大丈夫だから。今から帰る。救急車に乗っている間に痛みが消えたらしい」
そういうと長男は「なーんじゃそら」と一言だけ言った。

半分笑いながら言ったその言葉は、家族全員の安堵の気持ちを代表していた。

2005年4月23日(土) アリ地獄

今日も天気が良いので、娘たちと河川敷の公園まで出かけた。

よく行く河川敷公園は芝生以外には大した遊具もなく、ボール遊びなどが上手にできない小さな子どもにとっては少し退屈かもしれない。
その公園にある、唯一ともいえる遊具が通称「アリ地獄」と呼ばれるものだ。

アリ地獄はその名の示す通り、直径10メートルほどのコンクリートで出来たすり鉢状の遊具で、表面はツルツルの石がコーティングしてある。
感触としては丁度、餅つきに使う石臼のような感じだ。
すり鉢の中は底から半分ぐらいのところまで砂で埋められており、砂遊びが堪能できる。
それでも、深さは1.5メートルほどあり、小さな子どもが中に入ると、全く外は見えず、大人の女性でも頭ひとつが外から見える程度である。
斜面は滑り台よりなだらかであるが、滑りやすい石の斜面でつかまるところがなければ、小さな子どもや体力のない大人は、外に出ることが出来ない。
まさにアリ地獄である。

今でこそ、「コの字」型の手すりがはしご上に打ち込まれているので、それを伝って容易に上り下りできるが、これが出来た当時は何も手すりがなく、砂の量ももっと少なかったので、当時170センチほどあった私でさえ、中に入ると周りは見えなかった。

外へ出るにはコツがあり、真っ直ぐ上ると、砂で滑って上手く上がれない。
すり鉢状の斜面をぐるぐる走り、遠心力を利用して徐々に上へ上がって外に出るのだ。
底から外へ出るためにはほぼ斜面を一周しないと出ることが出来なかった。
アリ地獄はもともとそうやって遊ぶ遊具だった。
そのため、中で遊んでいた子どもが外に出られなくなり、一緒に来ていた老人も救い出すことが出来ず、私が底におりて、中から子どもを押し上げて助け出したことがある。
それでもしばらくの間、手すりも何もなかったため、子どもが寄り付かない遊具となっていた。

しかし、それが高校生だった私たちにとっては好都合だった。
自転車でそのアリ地獄を走り回ることができたからだ。
アリ地獄の縁に自転車で立ち、一呼吸おいて、斜面を斜めに走り降りる。
勢いをつけて回り始めると、まるでバンクを走っているような感じになる。
外に出るときはそのまま勢いよく走り、もとの縁に戻ればいい。

でも流石に、そのままでは危険な遊具だと考えたのだろう。
何時しか手すりが取り付けられ、さらに砂が中に入れられて底上げされた。

今ではアリ地獄を正しくアリ地獄として遊ぶ人はいないが、アリ地獄の底は泥遊びも出来る、小さな子どもたちの「砂場天国」となっている。

2005年4月25日(月) 上限回数

物には耐用年数というか、使用回数制限とか、そういう寿命のようなものがある。
哺乳類の寿命も例外ではなく、心臓の鼓動回数、つまり心拍数に限界があってそれが寿命を決めているのだという話を聞いたことがある。
その数、およそ15億回。

寿命が数年のネズミも、30年〜40年程度の類人猿も、100年近く生きるゾウも、鼓動の回数は同じく15億回前後だというのだ。
計算してみると、ネズミは1分間に950回、類人猿は70回、ゾウは30回程度である。

人間は1分間で60〜70回だが、寿命は類人猿の倍ほどある。
これは人間が幼い頃から栄養をふんだんに与えられて成長するため、平均的な使用回数を越えて心臓が長持ちするのだそうだ。
そういわれれば、まだ他の動物と変わらない生活をしていた頃の人間の寿命は類人猿と大差なかったというのも納得できる。

ということは、健康のために運動をすると心拍数が上がり、返って寿命を縮めることになってしまうのだろうか。

日記を書くときも、スラスラと書きたいことが浮かぶ日もあれば、画面に向かうのすら、億劫になる日もある。
これは、画面を見ていた時間とか、読んだ文字の数とか、マウスをクリックした回数とか、そういう時間や回数にも一日の上限値があり、それに達しているかどうかが、すなわち日記をつける意欲が残っているかどうかを決めているのではないか、と思う。

2005年4月26日(火) 2両目

夜、私の友人が嫁さんを尋ねてやってきた。
香典袋の表書きを書いて欲しいというのだ。

話を聞くと、彼女の同僚が先日の列車事故の犠牲になったらしい。

初めてその惨状の写真を見たとき、それが列車である事をすぐには理解できないほどに変形した列車は、生存者の存在の可能性を絶望させるに十分すぎるものだった。
巨大な力によって折り曲げられ、もはや建物の一部と化していた。

その朝、いつもならとっくにきているはずの同僚が来ない。
無断欠席する事も考えられない。
そう思っていたところへ、別の同僚から電話があった。
電車が事故で止まっているのでそちらにいけない、というのだ。
しばらくしてテレビなどで臨時ニュースが始まった。
そして映像が映し出された。
その原形をとどめていない車両が「2両目」であることがわかったとき、その場にいたものはみな凍りついた。
来るはずだった同僚は以前から「毎日2両目に乗っている」とみなに話していたからだ。
その事実を必死に否定しようと仕事に戻る彼女たち。
しかし、今そこにいるはずの同僚がいないという、否定し得ない事実を考えると、まだ生死がハッキリしたわけでもないのに、仕事をしながらみな、こらえきれずに涙をポロポロ流していたそうだ。

そして夜になって、悲しい知らせがあったらしい。

いつもなら男らしいさっぱりとした性格で、涙の似合わない元気な彼女なのだが、それだけに同僚を失って落ち込んでいる彼女の姿は痛々しかった。

2005年4月27日(水) 馴染みの店

昨日は午前様だったが酩酊もせず、記憶もしっかりしていた。
とはいえ、体は酒を欲するはずもなく、早めに仕事を切り上げて真っ直ぐ帰宅した。

帰宅した私の顔を見るなり嫁さんが、開口一番「今日は外でご飯食べてもいい?」と尋ねる。
外食があまり好きでない嫁さんが、そう言い出すのは、晩御飯の材料がまったくないか、疲れているかのどっちかだった。
聞いてみると、内職で疲れてしまったという。
疲れるほど内職をして家事が出来なくなるのはあんまり感心しないが、お金が欲しいというより、任された仕事に対する責任感で本人も頑張ったのだろうから、よしとした。
なにより、前日のことがある私はそれを言える立場にはなかったし。

外食といっても、遠くに出かけるわけでなし、隣近所で済ませることが多い。
でも、それで十分なほど、美味しい店が多い。
中でも、我が家のお隣さんがそこの従業員たちのアパートになっている中華料理屋さんは私が知っている中華料理屋の中でも屈指の美味しさである。
特に天津飯は今まで食べた中でも一番の美味しさだと思う。

駅前という立地条件のせいなのか、それとも味のせいなのか、値段はチェーン店の中華料理屋よりも1割から2割ほど高い。
その店から徒歩1分未満のところに有名なチェーン店の中華料理屋があるが、そこへは一度行ったことがあるだけで、今後も行くことはないと思う。

我が家を購入するに当たって、この店の味もその選定理由のひとつになったことを、家族に話したとき、みな納得していたほどなのだ。

2005年4月28日(木) 防犯意識

子ども受難といわれるこの時代に、一所懸命に子育てする人たちが私の周りには多く、少し幸せな気分になる。
ところで、子どもを育てるのは親だけの役目だろうか、というのが嫁さんとの話題になった。最近の事件のせいで他人が信じられず、自分たちだけで子どもを育てなければ、という責任の重圧に、苦しんでいる知人がいるらしい。

一所懸命育てるのは親の役目だが、親だけで出来ることには限界がある。
以前にも日記に書いたが、私の近所は共同で子育てを行っているという意識が強い。
これには母子家庭が多いという家庭の事情も影響している。
母子家庭では母親が仕事から帰ってくるまでの間、当然、子どもだけで留守番をしなければならず、それが夜遅くになることだってある。
だから、近所ぐるみでの防犯防災の意識が強く、みんなで子どもを守ろうという意識も強くなる。

母子家庭でなくても、近所同士の相互連携にって子どもを育てるという意識は必要だ。
自分の子どもと同様に他人の子どもも面倒を見る、あるいはその手助けをするという心がけが必要だ。

例えば、互いの親は携帯電話の電話番号を知っているし、メールアドレスも知っていて、常日頃からコミュニケーションをとっている。また、不審者や犯罪の情報などをリアルタイムでメール配信する市のシステムを利用し、互いにその情報交換を行っている。

親たちがそうやって子どもを守ろうとする一方、子どもに自立することを教えるのも親の役目であって、防犯防災の意識を高めることも大事だ。
火の取り扱いや施錠の意識、いざというときの連絡手段や防犯ブザー(近所では子どもが携帯するのは当たり前)の使用方法など、自分の身は自分で守るように、日頃から言い聞かせている。
さらに、長男や長女には自分だけでなく、次女の面倒もしっかり見られるように、週に一回程度は子どもたちだけで留守番をさせる。
今では長男も高校生になって、頼もしい限りだ。

ご近所さんのバックアップと、子どもたちの自立心。
親が子育てをする上で、最も頼りになる心の支えだと思う。

2005年4月29日(金) GW初日

ゴールデンウィークの初日。
前日はお酒を飲んだので寝るのも早く、ぐっすりと眠ることが出来た。
お陰で6時30分に起床。

外はいい天気だ。
すぐにテレビをつけ天気予報を見ると、明日もこの調子らしい。
これはじっとしていられない。

長女は、私が朝食を食べ終わって一息ついた頃に起きてきて、そのままUSJに出かけていったので、残った家族と会議をして、明日は河川敷の公園でバーベキューをすることに決めた。
で、せっかくだから、ご近所さんも誘うことにした。
とはいえ、急な話だから、車を用意してもらうことも出来ないと思い、我が家の車だけで移動できるように、と誘うのは1家族だけにした。

早速お誘いのメールを送る。
いつもならすぐに返事が来るのに、30分経っても返事がない。
仕方がないのでケータイに電話をする。
が、電話に出ない。

とりあえず買い物に出かけた。
2口のバーナーコンロがあったが、友人に貸したままだったし、家にあるバーベキューコンロは家族用だったので、グループ用のバーベキューコンロを買うことにした。

買い物をしている途中でメールがあった。
「で、遊園地にはいつ来るんですか」。
唐突な内容のメールの送信相手は遊園地に勤める別の友人だった。
ゴールデンウィーク中に遊びに行くことを返信した。

食材も買い込んで家につき、夕方になって長女がUSJから帰ってきた頃、ようやく、ご近所さんから連絡があった。

「今USJにいてるから帰ってから連絡する」

ゴールデンウィークを感じさせる会話の多い一日だった。

2005年4月30日(土) バーベキュー

前日に引き続き、6時過ぎに起床。
今日は河川敷公園でバーベキューをする。
仕事をする日でも8時近くまで寝ているのだから、まるで遠足に出かける子どもと同じだ。

近くの河川敷公園まで車で15分。
河川敷の何もない芝生の公園とはいえ、新緑の季節、週末はかなり混み合い、早めに行って場所取りをしなければ、いい場所は確保できない。
また、河川敷公園には30台ほどの駐車場があり、そこへ繋がる道の入口にある門は9時になると開く。
だから私は9時ちょうどにそこへ着くように準備を始めた。

タープやバーベキューコンロ、テーブルと椅子、食器と食材。
総勢9名だが、それなりに荷物が多い。
それらを荷物に詰め込み、そして、9名を一度に運ぶことは出来ないので、長女とその友達二人を先に現地に運び、そこで設営の準備をすることにした。

8時40分に家を出た。
道は少し込んでいたが、現地に着いたのは9時ちょうど。
駐車場への入り口の門は既に開いており、急いで中に入ると既に車が二台。
でも、タープやテントの設営をしている人はまだいない。
一番良い場所を陣取ってタープを設営する。
テーブルを配置し、椅子を並べる。コンロを組み立て炭を並べる。
程よい時間になったので、子どもに留守を任せて一旦家に引き返す。

家に着くと、残りの荷物と待ち合わせていたメンバーを積み込み、再び現地を目指す。
11時過ぎに現地に着くと既に駐車場は満車で、通路付近に車を停めている人も多い中、私が最初に来たときに車を停めていた場所は空いていた。
しっかり子どもが駐車場所を確保していてくれたのだ。

炭火で焼き始めた肉は、育ち盛りの子どもには少し足らなかったかもしれない。
焼きあがった肉を皿に盛り付けると、四方八方から手が伸びてきて、あっという間になくなっていく。それの繰り返しだった。

大人も子どもも満腹になり、腹ごなしのスポーツをした。
タープの影で椅子に座って休憩していると、河川敷を渡る風に、心を洗われる思いがした。



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