カリント日記

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2006年1月1日(日) 新年のお願い

子どものころからそうだったが、家族同士で新年の挨拶をするのはなんだか、少し気恥ずかしいもので、改まっているつもりでも、口元がしまりなく緩んでしまう。
挨拶もそこそこに夜中の2時ごろ、友人とこれから初詣に出かけるという長男を一人家に残し、まだまだ寝そうにない幼稚園の次女も一緒に4人で近所の神社へ初詣に出かけた。
境内にはいくつものめでたい言葉を書いた赤い幟(のぼり)が立てられ、かがり火もまた赤々と燃えていた。

先日の夜回りの時には人っ子一人いなかった神社なのに、今日は賽銭箱の前に列ができていた。
財布の中身を見ると500円玉と10玉しかなかった。
迷わず10円玉を取り出す。
でも、2枚しかない。
嫁さんは手ぶらできたので長女に20円を用意してもらう。
4人で合計40円。

うーん。
これでたくさんお願いするのもあつかましいなと思った私は、家内安全は嫁さんに任せて商売繁盛を祈願した。

長女は内緒と言って教えてくれなかったが、次女は聞きもしないのに「魔法使いになれますように」とお願いしたのだと教えてくれた。
でもそれは「ドラえもんがほしい」と同じぐらい、叶えることが難しいお願いに違いない。
「そうか。それならお母さんのお手伝いをたくさんしないといけないな。魔女見習いもみんなお手伝いしてたでしょ」と、子どもの願いを逆手に取って、言うことを聞かせたのは言うまでもない。


昼過ぎになって、魔女見習いと一緒に近所の公園へ出かけた。
公園では「中尉になるための特訓をする」といい、自分が魔女見習いであることも忘れて、鉄棒で逆上がりの練習をしたり、滑り台のステップを一段飛ばしで登り始めた。
これまたテレビアニメの影響らしい。
でもそんな特訓で中尉になれるなら、お父さんはとっくに大佐になってる。

帰りに神社の様子を見た。
相変わらず、人手が多い。



神様。
次女の願いを叶えるは大変でしょうが、聞くだけでも笑って聞いてやってください。

2006年1月2日(月) 新年会

今日は新年会だ。

去年の日記を見てもわかると思うが、相当に酔っ払っていて終わってからではまともな日記が書けないので、先に書いてしまう。

年に一度、私の母方の親戚が集まって親戚を行う。
子どもたちにとっては大切なお年玉の収入源だ。
父方とは親父が蒸発してから連絡が取れていないので、どこにどれだけ親戚がいるのか、まったく知らず、集まることもないので、子どもたちにとっても絶対にかかすことのない交流なのだ。

でも、男手が少なく、また酒を飲む人も少ない。
私は少々物足りなさを感じるが、ま、それも仕方あるまい。

今日は次女も着物を着せてもらってご機嫌である。
子どもたちが早く行こうとうるさいのでそろそろ出かけることにする。


新年会の食材

2006年1月3日(火) フィーバー

今日は嫁さんの叔父さんの家に親戚が集まる日。
昼過ぎから車に乗って叔父さんの家に遊びに行った。

いつものように駐車場から車を出し、荷物を運び込み、さあ出発しよう、とメータを見ると、走行距離が「7,777」Kmになっている。
おお。幸先いいな。
しかし、おしいかな、走行距離計の右側にあるトリップ計が「777.2」kmになっている。
あと500m走れば、きれいに「7」が五つ並ぶ。
頭の中で地図を描き、おそらくあの交差点の辺りで「7」がならぶだろう、と見当をつけて出発した。

自宅を出て最初の信号のある交差点。
赤信号で止まると「7,777.6」km。
信号を右折してしばらく走ったところで路肩に止めて、写真を撮った。

走行距離計もトリップ計もすべて「7」。
せっかく撮影したけれど、指が写りこんでしまって番号がよくわからなくなってしまった。



いや、別にこれ自体はどうって事ないのだが、こういうことが妙にうれしい、普通の正月なのがうれしかった。

さ、明日からいつもの日常が戻ってくる。
来年の正月も平穏に笑って過ごせるように今年一年も颯爽と走りたい。

2006年1月4日(水) 新たな気持ちで

今日は仕事始め。
別に家でのんびりしていてもよかったのだけれども、世間一般では仕事始めだし、一応は足並みをそろえることにした。
しかも、今年からは1時間早く活動を開始することに決め、朝も1時間早く起きた。
起きてみてびっくりした。

外がまだ暗い。
天気が悪いことを差し引いても思っていた以上に暗かった。
冬の朝はこんなに暗かったのか。

思えばサラリーマン時代は、この時間に起きていたし、毎日同じ電車で会社に通っていた。
結婚する前は、駅まで始発のバスに揺られながらの出勤だった。
それがいまや、ラッシュもとっくに過ぎた時間帯にノコノコ起きてきて仕事に取り掛かる。
電車で出かけるときもあれば、車で出かけるときもあり、そのまま家にいるときもある。
規則正しい生活ではなくなってしまった。
案外肥満の原因はこんなところにあるのかもしれない。

睡眠時間から考えるとあと3時間は寝ていたいところだったが、結構、すんなり布団から這い出すことができた。
なんだ、やればできるじゃないか。
さっさと身支度を整えていつもより1時間以上も早く家を出た。

家の前のまだ薄暗く日の当たらない小さな通りを抜けて、駅前の通りにでた。
不自然なぐらいに朝日が斜めから差し込んでくる。
怪獣になった気分でふーっと白い息を吐いてみた。

駅のホームの人影は思った以上に少なかった。
まだ休暇中の人が多いようだ。
みな無口なのはやはり寒さのせいだろうか。
静かなホームに電車の到着を告げるアナウンスだけが響き渡る。

滑り込んできた電車には人も少なく、空席も多かった。
いつもなら間違いなく腰掛けるところだが、今日はドア付近に立った。
そして車窓から景色を眺めながら、自分の中の新たな気持ちを確認していた。

2006年1月5日(木) 投機家に必要なもの

今年に入ってからも相変わらず株価は上昇しており、ネット株初心者の私でもその恩恵にあずかることができている。
一昔前まで、「株で楽して儲けるなんてダメ」と思っていたが、誤解していた私はバカものだ。
株で儲けるのは決して楽なことではない。

私も恩恵にあずかっているとはいえ、それなりに勉強もした。
株関連情報のニュースは一通り目を通すようにしているし、実際に株を購入(買い付け)するときは、ニュースやマーケット情報以外にレポートや四季報などにも目を通している。
また、関連する企業の状況も確認し、これなら大丈夫だろう、と思った株をようやく見つけた。
それがたまたま、この景気の波に乗って上昇し始めただけに過ぎない。

でも投機家の皆さんは違う。
どのような状況であれ、それなりに利益を上げる。
あれだけいろいろな情報が飛び交う中、それらを整理し、的確に投資し、そして結実させる能力には感服する。

しかし最近は、その投機家さえも予測できない動きが多いようだ。
普通なら敬遠するような、企業の株であっても、買われることが多い。
逆に成長が予測される株が急に売られたりもする。
どうやら、われわれのような素人が単純なキーワードに釣られ、その本質を見抜くことなく、売買を行っていることが原因のようだ。

投機家よりも主婦たちが利益を得る時代。
投機家には先見の明に加え、主婦のセンスも要求されるということか。

2006年1月6日(金) 共通の年賀状

今年もたくさんの年賀状をいただいた。

毎年のことだが、年賀状の枚数は送るほうも受け取るほうも、嫁さんが私の倍ほど多い。
嫁さんは普段から友達づきあいが多く、いろんなサークルに顔を出しており、その関係で知り合いが増え、一度年賀状を出すと、ずーっと出し続けている。
だから、いまだに20年前のOL時代の先輩や恩師にも年賀状を出している。
これでも枚数は減ったほうで、以前は自分の幼稚園の先生にまで出しており、一時期は200枚近く書いていた。

そこへ行くと私は、会社を辞めたとたん、それまでの「形式上」の上司には出さなくなった。
無論、私が認めていた上司には今でも年賀状をお送りしているし、こちらにもコメントをつけて返事を下さる。
中には、私が送らなくなって数年立つのに、いまだに送ってくれる元上司はいるが、コメントは一言もなく、いつも既成の年賀状であり、おそらく、年賀状ソフトの住所録にそのまま私の名前が残っているので機械的に出しているだけなのだろう。
どうせなら「毎年書いているんだから返事ぐらい書け。無礼者」と一言でも書いてくれるほうが、私のことをちゃんと認識してくれている証拠なのだからありがたい。
また、友達でも返事をくれないやつは出さない。
それに、返事をくれないのは男友達であって、そこはそれ、年賀状なんか出さなくたって、付き合いが変わるわけじゃない。
でも、相手が女性だとちょっと・・・。

そして、おそらく我が家がほかの家庭と違って特徴的なのは、二人の共通の友達からの年賀状が、非常に多いことじゃないだろうか。
いただいた年賀状の三分の一がそうだ。
別にサークルに入っていたわけではないし、職場が一緒だったわけでもない。
いつの間にかそんな風になっていたのだ。

そんな共通の友達から来る年賀状の多くには、子どもの写真が載っている。
年々親に似ていくので思わず声を出して「そっくり!」と笑ってしまう。
その笑いが嫁さんと共有できるのは相手が共通の友達だからこそだと思う。

今年も、嫁さんと笑いを共通できる回数が多ければ、我が家は安泰だ。

2006年1月7日(土) スケート

今日は家族そろってスケートに出かけた。

私の嫁さんと子どもは「おやこ劇場」に参加している。
おやこ劇場では年間を通していくつもの行事が行われるが、冬のアイススケートは私も参加する数少ない行事である。

スケートは我が家から車で10分程度のところにある、市内の大阪府立のドーム型体育館で行われた。
この体育館にはメインのスケートリンクとサブのスケートリンクが並んでおり、そのサブのスケートリンクを貸し切って行われた。
貸し切ったのはサブの小さいリンクだけれども、その隣のメインリンクは各種大会でも利用されるほど立派なもので、先日もトリノオリンピック出場を決めた有名選手たちが、NHK杯を競っていた。



だから、設備もよくリンクも整備されていて滑りやすい。
屋外にあるタイプのリンクは氷が融けてしまい、よく水が溜まったりして滑りにくいのだが、ここはドームの中なのでそんなこともない。
ちなみに、夏場はプールになっていて、これまた国体などで利用される本格派施設だ。

スケートと言えばうちの嫁さんだ。
ほかのお母さん方にもスケートを習っていた人がいたようで、なかなか上手にすべる人もいたが、嫁さんは明らかに滑り方が違う。絵になるのだ。
初心者の滑り方はひざから下の動きがせわしなく、やたらと早足になって、エッジ(スケート靴の刃)が氷からかなり離れている。
そして脚で一所懸命に氷上を蹴飛ばし、コツコツ音を立てて前に進んでいる。
しかし、うまい人、つまり嫁さんは、ひざを曲げもせず、エッジが氷から離れる距離も最小限で、体重移動だけで前に進んで行く。
コツコツなんて音は立てず、文字通り、スイスイと氷を上を滑る。
それでいてスピードは、必死になって氷を蹴飛ばしている中学生男子よりずっと早い。

一方、私は、嫁さんに比べればまだまだ格好も悪いが、今日は脚をクロスさせながらコーナーリングする技術を習得しようと思っていた。
スケート場では陸上のトラック競技と同じように反時計回りに回る。
脚をクロスさせると言うのは、コーナリングのときに、左足よりコーナーの内側に右足を持ってきて、その脚を外側に蹴りだす事によって、より早くより鋭くコーナーを回る滑り方だ。(本当はなんというのかよく知らない)

右足は、左足の前を通過して着氷する。
そして右足が着氷するや否や、左足を上げ、右足で氷を外側に踏み込み、左足を着氷する。
このときの体重移動が難しい。
私も、2回ほど転倒した。
スケートで転倒したのは20年ぶりぐらいだ。
あざができてしまった。

しかし、徐々にコツをつかみ、なんとか自分では満足できる「クロス」を習得できた。
40歳になってスポーツで新しい技術を身につけると言う機会に恵まれることは少ないと思う。
とても充実した気分になった。

2006年1月8日(日) 安売り

仕事用のスーツを買いに近くの大型スーパーへ。
と言っても吊るしの安物だが。
ワイシャツとネクタイも買ってそれだけで帰る予定だった。
好きな酒が無くなってきているが、今日は買うつもりではないので、そのまま帰るつもりだった。
しかし、この日、スーパーは特別割引の日だった。

1Fの食料品売り場を除くと、多くの人がいた。
さすがに割引の日は違う。
そして、よせばいいのに私は、食料品売り場のお酒のコーナーへ行った。
見るだけのつもりだった。
酒も安くなっているのかどうか、ほしい酒はどれぐらいの値段なのか、市場調査のつもりで見に行くだけのつもりだった。

酒の棚を見た。
前からほしかった酒が「広告の品」と書かれて安売りしている。
いつもより2割ほど安い。
しかもポイントつき。

一本を手に取る。
しばしラベルを眺める。
そして棚に戻す。

また手にとってラベルを眺める。
そしてまた棚に戻す。

腕を組んで考える。
沈思黙考。



左からオールドパー、シーバスリーガル、ジャックダニエル、そしてマッカラン。
結局、我が家の棚に並んだ。

2006年1月9日(月) 何会?

今日は自治会役員の新年会が催された。
子ども会会長である私も、もちろん自治会の役員であるので、出席することになった。

会場は近くの仕出屋。
以前から自治会が贔屓にしているらしいのだが、同じ町内ではないことを始めて知った。
同じ町内でなければ贔屓にする理由も無いのだが、会長が酒店を営んでいるのでその利害関係があるのだろう。
自治会という公的立場にあるので、個人的な利害関係は好ましくないのだが、まあ、会長もそれなりに苦労しているのだから、多少は目を瞑ってやってもいいか。
そんなことを考えながら、店に到着し、部屋へ案内されてびっくりした。

白髪、白髪、禿頭。
白髪、白髪、禿頭。
今日は老人会の集まりかと思うほどに、お年寄りばかり。
思えば自治会の会議の時もそうなのだ。
ただ、会議の時は多少なりともお母さん方がいらっしゃる。
そのお母さん方が今日はいない。
でも、それだけで、ものの見事に自治会は老人会に変貌する。

私を除いて一番若い人でさえ、私より一回り以上年上だ。
恐らく平均年齢は60後半から70前半だろう。

あとからもう一人、私より若い人が来てくれたが、平均年齢は微動だにしない。
これだけは私の力でもどうしようもない。

2006年1月10日(火) マイナーチェンジ

私の愛車はホンダのオデッセィだ。
生まれて初めて車を買った。

今まで乗っていた車は嫁さんに買ってもらったり、妹のお下がりだったり、親戚から譲り受けたものだったり、と、自分で購入したものではなかったが、2004年の年頭に思い切って新車のオデッセイを購入した。
最初は予算の関係で別の車にしようとも考えたが、嫁さんが「妥協して買ったら、道ですれ違った時に『あの車にしておけばよかった』って思うで」と言われ、決断した。
とても気に入っており、買ってから二年が経過するが、未だに、「あの車が良かった」と思う車には出逢わない。
どの車とすれ違っても、「うーん。やっぱり俺の車のほうがええな」と思うのである。
ただ、残念なのは、仕事で利用することのほうが多いことだろうか。

発売されてから二年も経つとマイナーチェンジも何度か繰り返され、今度は結構、大きな変更が施されるという。

「現行のオデッセイが良い車だと思うが、顔つきが嫌だ」

そういって買うのを渋っている知人がいる。
今度のマイナーチェンジに期待しているようだが、恐らく顔つきはそれほど変わらない。
なぜなら、オデッセイのいいところは顔つきにもあるのだ。
それまでファミリーユースとされてきたミニバンはファミリー受けするような大きなヘッドライトや、優しさを売り物にしてきたが、オデッセイが目指したのはスポーティミニバン。
そしてイメージしたのは黒ヒョウ。
あのいかつい目つきとフロントマスク、少しやんちゃなイメージを売り物にし、見事、多くの支持を得た。

なのに、ここで「知的」だとか「優しさ」を与えてしまってはそれはもはやマイナーチェンジではない。

実際の変更時期がいつになるのか、ディーラーでさえも正確な情報を知らない。
一番早い時期で4月。遅ければ11月。
一番多い意見は6月だ。
また、気になる変更点だが、フロントグリルは間違いないようだ。
ホンダのマイナーチェンジではほとんど毎回、フロントグリルが変更されている。
それから、ウィンカーミラーが標準装備になるのではないだろうか。
現行のオデッセイにはサイドウィンカーがなく、今後の法改正ではサイドウィンカーの取り付けが義務付けられるとみられているからだ。
後はテールランプの形状が変わるようだ。

もし、オデッセイの顔つきが知的になったり優しくなったりしたら、現行オデッセイの中古車価格が上がることは間違いない。

2006年1月11日(水) トラブル対応?

お得意様のデスクトップパソコンのネットワークがつながらないと言う。
正直、30分もあれば解決すると思っていた。

早速駆けつけて状況を確認する。
まずは、インターネットに接続。
「ページが見つかりません」
ま、よくある話だ。

持参したノートパソコンを起動して無線LAN経由でネットワークに接続してみる。
きっとモデムのリセットをすれば直るような障害だろうから、これがつながらなくてもしょうがない。
しかし、意に反してあっさり無線LANでつながった。

ipconfigでデスクトップのIPアドレスを確認する。
ノートパソコンも同様に。
で、pingで応答を確認する。
ノートから入力すると応答があるがデスクトップからだとからっきし応答がない。

モデムをリセットして、デスクトップでインターネット接続をしてみる。
だめだ。

ほかにもいろいろ試してみるものの、一向に埒が明かない。
とりあえず、パソコンのユーザコードを控えて自宅に戻った。
もう少し頑張りたいところだが、私も、お得意様も飲んでいるし、今日は引き上げることにした。

あー。
酒が冷めると、ネットワークがつながらないで困ると言う現実が待っている。

もうちょっと飲んで忘れてしまおうか。

2006年1月12日(木) サルでも

最近の株式市場はサルでも儲かるらしい。

確かにそう思う。
欲張らなければ確実に利益を得ることができる。
無論、変動する相場なのだから一時的に下がることはある。
でも、そのまま下がり続けることはない。

私もそうだった。
最初に買うときはとても慎重になった。
いろいろなところから情報を集め、これだと決めて買ってみた。
買ったとたんに下がり始めた。
でも、自分で調べて信じて買った株だから、あきらめずにそのまま持っていた。
その間もいろいろな情報を集めた。
その情報から判断しても、自分の持っている株は十分にこれから成長する要素があった。
そうしているうちに、急に上がり始めた。
そして含み利益ではあるものの、プラスを生み出した。
こうしてひとつでもプラスのものがあれば投資に余裕ができる。
多少のマイナスを恐れなくなる。
下がってもあわてて売ることはなく、じっくり構えて上昇を待つことができる。

そもそも、今の相場ではこまめにチェックしていれば値上がりするタイミングもわかるし、欲張らなければ損をすることもない。
とても初心者にとっつきやすい状況と言えよう。

株でもうける利益もうれしいが、何より、経済のことに少しは敏感なったが、私にとって一番の収穫だと思う。
夫婦そろって経済の話をするなんて今までなかったことだから。

2006年1月13日(金) 桶屋が儲かる

株でお金を貯めたいと思うのは単に金欲のためだけではない。

元来、私は勉強好きで自分の知識を使って物事に対処するのが性に合っている。
だから今のコンピュータ技術者としての仕事も自分に向いていると思う。
子どもに宿題の手伝いをさせられて苦労した、と言うようなこともない。
高校生の長男と一緒に大学受験の対策を考えるのも楽しい。

そんな私だから、株をやっても儲けられると言う自信があった。
とはいえ、家族を背負っている身分であり、これ以上に大きなリスクまで背負うわけには行かない。
だから、最もリスクの少ないこの時期を選んだのだ。

そして最近は経済関連のニュースを見るのも楽しい。
株をやれば世界観が変わる、と知人に言われて、とても納得した。
社会とか経済とか企業とか景気とか、そういう非人格的なものが、実はとても人間的な「人間」と、彼らの嗜好である「モノ」との集合体であることを改めて認識した。

その関係を見極めれば、風が吹けば桶屋の株を買って儲けられるようになるのだろう。

2006年1月14日(土) 餅つき大会前日

今日は朝から雨の中、日曜日に行われる、校区子ども会主催の餅つき大会の準備をした。

例年ならこの季節は、西高東低の冬型気圧配置で晴れることが多く、悪くなったとしてもせいぜい雪が降る程度なのに、今日は気温も上がり、あいにくの雨となってしまった。
それも、かなりきつい雨だ。

校区長と二人で借りてきた軽トラックに乗り、各自治会が保有している餅つきの道具をかき集めにまわることになっていた。
校区の子ども会の仕事を手伝うようになって日の浅い私は、まだどこの自治会がどこにどういうものを持っているのか知らない。
だから校区長の運転に身を任せることにした。
校区長の、久しぶりに運転するマニュアル車の扱いにくさと、あいにくの空模様を呪う言葉を聞きながら、一つ目の自治会の物置に到着した。

そこは、私の町内のはずれにある電車の高架下駐車場の一角にあった。
ということは紛れもなく私の自治会の物置小屋である。
にもかかわらず、私は初めてその所在とそれが自治会の物置小屋であることを知った。

同じ自治会の役員さんが既にそこにいてわれわれの車を待っていた。
一通り挨拶をして早速、物置小屋から備品を運び出した。
高架下なので雨は降ってこない。
でも、周辺道路をたたく雨の音がよく響き渡り、3人の会話を邪魔するほどであった。
蒸篭ともち箱と釜を、幌のないむき出しの荷台に乗せた。
ぬれてもかまわないものばかりなので、問題はない。
そして、一通りの挨拶をして、さびしげな駐車場を後にした。

雨の中、再び車を走らせ、次の目的地へ進む。
無論、私はこれからどこへ行くのかを知らない。
しばらくして隣町の自治会の物置へ到着した。
そこで寸胴なべとコンロと大きなバケツを積み込んだ。

後は積み込んだ荷物を明日に備えて、学校に一番近い自治会の大きな物置小屋に運び込めばいい。
その大きな物置小屋にはうすと杵、ガスボンベ、バーベキューセットなど大方の備品が揃っていた。

大きな物置小屋でのわれわれ男性の仕事がそろそろ終わるころ、すぐ隣の集会場に女性たちが集合してきた。
明日に備えてもち米を洗い、野菜を切るのだ。
校区長と私はそこへ行き、今度は女性たちに指示することになった。

米を洗う係りと野菜を切る係りにわけ、洗った米をバケツに入れて、切った野菜をビニール袋に入れた。
米は全部で三斗五升。野菜は大根20本、にんじん50本。
総勢12名。
なんともにぎやかである。

そろそろ終わりに近づいたころ、校区長はコーヒーを買いに行き、私はケーキを買いに行った。
後片付けをしてテーブルの上にケーキとコーヒーを並べる。
みんなで労をねぎらいながらいただいた。

明日が晴れるといいのにな、と誰もがそう願っていたに違いない。

2006年1月15日(日) 餅つき大会当日

今日は小学校校区で行われる餅つき大会だ。
昨日の雨は止んでいたものの、まだすっきりしない天気だった。

8時に小学校に一番近い自治会の大きな物置小屋に出かける。
既に2人の助っ人がスタンバイしている。
しばらくすると校区長が昨日の軽トラに乗ってやってきた。
さらに2名の助っ人も駆けつける。

昨日は校区長と私の二人だけだったので寂しかったが、今日は男性も大勢でにぎやかだ。
きっと餅つきが始まるころにはもっと大勢の男性が助っ人に来るはず。

早速、荷物を積み始める。
杵4本、うす2鉢、ガスボンベ8本、釜4つ。
寸胴なべ2杯、蒸篭10枚、ドラム缶を切って作った薪のコンロ2台、それから昨日用意した米と野菜・・・。
結局トラックは学校と物置小屋を2往復した。

学校の運動場に到着すると早速設営が始まった。
うすを配置し、その近くで蒸篭を蒸すための釜と、その釜の湯を沸かすためのコンロを組み立てる。
1台はガスコンロ、もう1台はドラム缶で薪を燃やす。
他にも、寸胴なべに雑煮用の湯を沸かし、いつでも熱いお湯を補充できるように、お湯を沸かすだけの釜も用意された。
そしてフランクフルトを焼くためのバーベキューコンロも準備できた。

10時を回って子どもたちが集まってきた。
でも、思ったより火力が弱く、もち米が蒸しあがらない。
先にフランクフルトを子どもたちに配って、予定より30分ほど遅れて最初の米が蒸しあがった。

早速、うすにもち米が入れられた。
たまたま、すぐ近くにいた私が光栄にも、一うす目をつくことになった。
みんなが注目する中、餅を搗く。
手返しをするのはベテランの女性。

たちまち子どもたちが集まってくる。
でも、あまり近づくと危ないので、すぐに誰かが「この線よりこっちに来ちゃダメ」と足元に線を引く。
背伸びをして覗き込むように様子を見る。

毎度のことだが、最初のもちは搗きにくい。
うすが慣れていないのか、杵が慣れていないのか、できた餅はムラが多く、伸びもよくない。
搗き手が変わっても2番目は搗きやすくなり、仕上がりもよくなるから不思議だ。
慣れてきたころから子どもたちにも順番につかせてやった。
みんなおっかなびっくりだったが楽しそうだった。

12時になり、校区子ども会の餅つき大会は終了した。
親がお手伝いで来ている子ども以外は、みんな引率されて帰っていった。

それからは大人たちの時間だ。
お酒をのみながら雑煮を食う。
女性たちも餅つきを始める。
私も嫁さんとペアで餅を搗く。
「仲のいい夫婦ねー」と冷やかされながら。

見知らぬ子どもに「おにいちゃんサッカーしよ」と誘われて、子どもたちが少なくなって寂しくなったグラウンドでサッカーもした。
そしてまた酒を飲みながら餅つきをする。
またサッカーに誘われる。
おそらく一番たくさん餅を搗いたのは私で、一番子どもと遊んでいたのも私だし、一番酒を飲んでいたのも間違いなく私だし、お開きになって備品を各自治会の物置に返却する一番最後まで後片付けをしていたのも、私だった。

その後、ご近所のお得意様へ出かけて、ネットワークが接続できなった原因を見つけた。
もう、ヘロヘロである。

2006年1月16日(月) 筋肉痛

腕が筋肉痛なのは日曜日の餅搗きのせいだ。
毎年、年末には5升ほどの餅を搗くが、おそらく昨日はその倍以上の量を搗いたんじゃないだろうか。
右腕の上腕二頭筋(力コブの筋肉)と左腕の上腕三等筋(腕の外側。脂肪がつくと「軽くヤバイ」ところ)が痛い。
左右の腕の違うところがいたいのは餅搗きの動作に関係している。

餅搗きに使う杵は結構重い。
あの重さを利用して餅を搗いているのだから当然だ。
その杵を持つとき、右利きの場合は通常、右腕を上、つまり搗く側に近い部分を持ち、左側は、柄の部分の先に近いほうを持つ。

左右の腕にはそれぞれ別の役割がある。
杵を振り下ろすのは左腕、そして引き上げるのが右腕だ。
もちろん、片手でやるわけではなく、常に両手で杵を持っているのだが、それぞれの動作において力の入り加減が異なるのだ。

まず、上段に構えた杵を振り下ろすとき、顔の前辺りにある左腕を、一気に左の腰付近に引き付けるようにする。
駆け足のときの腕の振りのように自然な動きが大事だ。
そうすることで、杵はきれいな円を描き、最大限の遠心力を生み出して、それほど力を入れずに素直に餅がつける。
右手はあくまで円軌道を保つための補助であって決して強く握りこんではいけない。
時折、右手にも力を入れて杵を上から押さえつけるように餅を搗く人を見かけるが、上体が前後にぶれ、見ていても危なっかしいし、第一、疲れる。

逆に引き上げるときは杵のできるだけ上の方を持って、右手に力を入れて引き上げる。
餅の粘り気で杵が下に引っ張られるため、とても力が要る。
左手は杵が左右にぶれないように補助しておく。

この作業の繰り返しの間、自分がまるで剣術の達人になったような心境で、まっすぐ正しい姿勢を保ち、規則正しいリズムで搗き続けることが大切だ。

来年は町内でもやってみるか。

2006年1月17日(火) 風化させない

やはりすべてのものは人の記憶とともに風化するのだろうか。
私は違うと思っていたのに、今日はいつもの時間に起きることを忘れてしまった。
朝寝坊の私でも、毎年、この日だけは真っ暗な部屋で一人だけ目を覚ましていた。

今はもう、子どもたちと一緒に寝ることもないが、以前一緒に寝ていたころ、早起きをしたこの日は、豆電球のオレンジ色の明かりの下、何も心配事がなさそうに眠っている嫁さんと子どもたちの姿を見るたびに、そのかわいい寝顔を見られるという幸せに感謝した。そして毎年の鎮魂のテレビ番組を見るたびに、今朝もまた私は家族と一緒にいられるという喜びに感謝した。

今の家には、以前のマンションがその体に刻み付けて私たちの記憶にとどめさせた壁の亀裂などあるはずもなく、傾(かし)いで扉の開きが悪くなった箪笥もない。

私の記憶にはあの朝の出来事は鮮明に残っている。
でも、それを思い続けることができず、ついに今日、同じ時間に鎮魂の祈りをささげることができなかった。

ただ、この日記にこうやって綴れることがせめてもの救いに思える。

2006年1月18日(水) 不景気になったら誰のせいか

ライブドアショックは社会に大きい波紋をもたらした。
でも。

ほんの数年前、ほとんど誰もが知らなかったIT企業。
それを一躍スターダムに押し上げたのは球団買収の報道。
それからはみなの知るところとなり、現在に至っている。

そして今回、世間の、いや、世界の注目するところとなり、今や日本の経済を左右するほどの事件となった。
連日、ニュース番組は報道する。

 加熱しすぎた個人投資家とネット株。
 そこに本当の企業価値はあったのか。
 今こそ冷静に考えるべきだ。

ちょっとまて。
「そこに本当の企業価値は」・・・だと?
なんだそれ?

お前らマスメディアは、「本当の企業価値」を考えて今まで報道してきたのか?
違うだろ?
それほどの企業価値も無い会社が、日本の経済を左右するほどの企業であるかのように、皆に知らしめたのは、かく言う、そのマスメディア自身ではないのか?
自分で煽っておいてそして一転、今回は冷静になれという。

マスメディアは真実を報道するのみで、報道したことによる影響に責任は無いのか?
よく「報道することの義務」という言葉は聞くが「報道したことの責任」はないのか?
「報道することの義務」なんて視聴率稼ぎのための大義名分だ。

たまには責任取って謝れよ。
「それほどの企業でもないのに、騒ぎすぎました。今回の騒動はマスコミのせいです」
と。

2006年1月19日(木) スーパーカー

おととしの今頃は初めての新車購入を決定し、納車の日を心待ちにしていたころだ。

スーパーカーブームと言う言葉自体、すでに知らない人が多い時代となったが、今から30年近く前に、性能も値段もスタイルも、今までの車に対する常識を覆すとてつもない車たちがブームとなった。

ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ・ベルリネッタボクサー、デ・トマソ・パンテーラ、マッセラッティ・ボーラ、ランチア・ストラトス、ポルシェ930ターボ。

どれもこれも、中学生だった私の憧れの車だった。
最高時速300km/h、価格1500万。
いつかこんな車を運転してみたい。
当時の子どもたちはみんなそう思ったはずだ。

初めて手に入れた車は、今の嫁さんが付き合っていた当時、学生だった私に買ってくれた赤い軽自動車。
赤い車はスポーツカーの代名詞であり、スーパーカーの色でもあった。

初めて手に入れた軽自動車は走った。
野を越え、山を越え、水を渡り、闇夜を切り裂き。
とてもよく走った。

でも、子どもが生まれ、安全性と快適性を求める欲が出てきた。
そんな時、妹が嫁ぎ、乗っている車を手放すこととなり、その車を譲り受けた。
5人乗りのセダンタイプの自動車だった。

「5速マニュアル」が感動だった。
アクセルを踏めば、ちゃんと坂道を登った。
登坂斜線を走ることなく山道を走ることに喜びを感じた。

3人目の子どもができ、少し手狭に感じたとき、いいタイミングで親戚がミニバンを手放すことになった。
初めての2000CC代。
3列シートで2列目にもエアコンがある。
とても力強い車に感じた。

そして一昨年。

独立して少し収入も増え、車がほしくなった。
始めて自分で買う車だ。
いろんな車を物色していたとき、オデッセイを見つけた。
ほしいと思ったが、資金不足で断念しようと思った。

そんなとき嫁さんが一言、言った。
「始めて自分で買う車なのに、妥協すると絶対に後悔する。町で欲しかった車とすれ違うたびにそれを思い出す」
そういわれて決心した。
私にとってはとてつもなく高い車だった。

しかし、今。
この車に乗って2年が経過するが、この車以上に乗りたいと思った車はない。
町ですれ違う車を見るたびに、私の車はかっこいい、と思う。
子どものころに欲しいと思ったスーパーカーを手に入れた気分だ。

もちろん、色は、赤色だ。

2006年1月20日(金) 日記を書く理由

ここに日記を書いている目的はいくつかある。

一つ目は自分の考えたことや行動したことの記録のために。

過去の日記を読み返すとそのときの出来事がハッキリと思い出せる。
日記を書く前は何月何日は何をしていた、なんてこと、一ヶ月前でも思い出すのが大変だったのに、今は日記を見れば一目瞭然である。

二つ目は私の近況を知らせるために。

久しぶりにこの日記を読む人もいる。
そういう人たちに私や私の家族がどのように生活しているのかを知らせるためだ。
一年に一度の年賀状で写真を家族の写真を見ることがあっても、それ以外の状況を知るすべがない。
でも、この日記を見れば、日常の断片だけでもうかがい知ることができる。

三つ目はただ一人の人間に読ませるために。

私の考えを明確にした日記と言う文章を通して、その信条を理解して欲しい。
そのためには多くの人に反感を買う文章になることもある。
それはそれでいい。
その姿も含めて私は自分を示す必要があるのだ。

最後は、私自身の戒めのために。

自分の都合で日記を書くことをやめることはできる。
でも、こうやって毎日、日記をつけると言う、半ば義務のようなものを自分に課し、自分を律することにしている。

上記以外に思い当たる目的はない。
少なくとも、ただの読者になっている人を楽しませるためのものではないのだから、日記の内容がつまらなかろうが、面白くなかろうが、腹立たしかろうが、そんなことは私の知ったこっちゃない。
大体、そうやって文句言うなら自分でやってみればいい。
私もその日記を読んで文句を言わせてもらうから。

2006年1月21日(土) FLASHに挑戦

トップページにあるFLASH画像はいただき物であって私が作成したものではない。

初めてサイトを公開したときは何の飾り気もないページだった。
でも、日がたつにつれ、欲が出てきて、何かを置きたくなって、今の画像を探し出した。もう、一年ほどになるか。
それからはところどころレイアウトや背景を変えてはいるものの、基本的には変化していない。

今日はFLASHを自分で作成してみようと、ツールを探し回った。
別に今のFLASHに飽きたわけではない。
自分でも挑戦してみたくなったのだ。

早速、ツールを入手して作ってみた。
自分で作成したパラパラ漫画だが、子どもたちには大うけだった。
まさに子供だましのものなので、まだまだ公開できるようなものではないけれど、そのうちちゃんとした作品に仕上げたいと思う。

これでまた休日にやることが増えてしまった。
あ、確定申告の準備しなきゃ。

2006年1月22日(日) 駅伝

ゆっくり寝ていたい休日だったが、先週の餅搗き大会に続いて今日は市子連の駅伝大会の応援。
応援と言っても、わが校区のチームの応援ではなく、いろいろと作業をする役員さんたちの応援、いわばお手伝いである。

市子連は私の住む市にだけあるのではない。
日本中の各市には複数の小学校があり、その小学校単位に校区子ども会があり、市内の校区子ども会の集まりが市子連である。
ちなみに、私が会長を務めているのは、その市子連の一員である校区子ども会の、さらに一員である町内の子ども会である。

でも、今回の駅伝大会には私の町内はおろか、私の校区の子どもは一人も参加しない。
なのに気がつけばいつの間にか私も参加することになっていた。

8:45に現地に集合する。
子どもたちが続々と集まってくる。
やがて役員の招集があり、今日一日の役割を教えられる。
駅伝のコースと、参加している校区の名前を頭に叩き込む。
そうやって役員さんたちと話を進めているうちに段々と自分の使命を認識し始める。
そうなると、気分はいつもの通り、子どもの指導者になり、自分の町内も校区も参加していないけれど、私語をやめない子どもはどこの地区であろうが「静かにしなさい!」と叱るし、自分の大声を生かして子どもたちの招集にあたる。
隣の隣の学校の、名前も顔も知らない子どもを、号令ひとつで並ばせると、子どもたちはみんなこっちを見ている。

「隣の学校の子ども」。
そういう気持ちを持っているのは大人だけであって、子どもにしてみれば、近所のおじさんだろうと隣町のおじさんだろうと、知らない人に変わりはない。
しかし、毅然とした態度で子どもの指導に当たる大人に対しては、素直に言うことを聞き、そして自分の態度を改める、と言うことを知っている。
目の前にいる子どもたちは少なくともこの瞬間、私の言うことを正しいことだと思って聞いており、私には常に正しいことを伝える責任と義務があった。
そう感じる瞬間だった。

社会のルールや大人たちとの接し方はこういうところで学ぶのであり、家庭ではなかなか教えられない。
躾けられた犬が主人以外の命令を聞かないように、親の言うことしか聞かない子どもがいたら、それは子どもをかばいすぎる親の責任であるとともに、身近にいた他人の大人のせいでもある。

競争が始まってどの子どもも一所懸命に走っていた。
私はゴールした子どもにメダルをかける係りだったので、ゴールまで走りぬいた子どもたちのを顔を特等席で見ていた。
「よく頑張ったね。素晴らしかったよ」
とゴールする隣の隣の学校の子ども一人一人に声をかけると、どの子もみんな、とてもすがすがしい顔を見せてくれた。

2006年1月23日(月) 洗車はこまめに

日曜日。
2年目の点検を受けるために、愛車のオデッセイをディーラーに持ち込んだ。

また、私のオデッセイのナビは純正のHDDナビのため、市販のDVDナビのソフトを買ってきても地図データを更新できず、メーカーに更新をお願いしてもらう必要がある。
更新には2週間程度かかるのだが今回はそれも兼ねていた。
わざわざメーカーにデータの更新を依頼しなければならないところは不便だが、それ以外はDVDナビに比べて格段に使い勝手がいい。
パソコンを使っていればわかると思うが、パソコンのCDドライブに格納されているデータとハードディスクに格納されているデータとでは圧倒的に、ハードディスクのデータへのアクセスのほうが速い。

で、その地図情報の更新は、初回である今回は無料なのだ。
まあ、最初の価格にその辺りは含まれているんだろうけど。

午前中、市子連の駅伝大会に参加して家に戻ってくると、嫁さんが家の前で友達と話をしていた。
私が車を降りるなり、嫁さんが「車、どうしたん?」と尋ねた。
うっすらとほこりがまとわりついているのだ。
別に急にそうなったわけではなく、雨が降ろうが雪が降ろうが平気で走った挙句、寒さに負けて4ヶ月以上も洗車していないのだから仕方がない。
普段はじっくり車を見ない嫁さんだが、改めてみてみると汚れていることに気がついたようだった。
嫁さんにそういわれては洗わないわけには行かない。
幸いにして日曜日はとてもいい天気だったので、冷たい水の洗車もそれほど苦ではなかった。

一通り洗い終わって後片付けをしていると、通りすがりの見ず知らずの女性が車を見て「きれいな色やねー」と声をかけてくれた。
うれしくなって「ありがとうございます」と返事をした。
どうだ、嫁さん。
洗えばまだまだきれいなんだぞ。

洗い終わった車を早速ディーラーに持っていくことにした。

「どこか気になる点はありますか?」
そう言われたが特に思い当たるところもなかったし、そのまま車を預けた。
点検完了まで3時間以上かかると言われていたのであらかじめ用意してもらっていた代車のフィットを借りて買い物に出かけた。
シャンパンレッドのかわいらしい車は初めての運転だったがとても使いやすく、セカンドカーをもてる身分ならきっとこれにするだろうと思った。

買い物を済ませてオデッセイを迎えに行った。
フィットをディーラーの倉庫前のスペースに止めた。
日も暮れていたため、その倉庫前は暗かったが、展示場のある隣の敷地は、明るい照明に包まれている。
さあ私のオデッセイはどうかな?
そう思いながら隣の敷地の駐車場を覗いてびっくりした。
まるでスポットライトを浴びた展示車両のように私のオデッセイがそこで輝いていた。
「うわっ。めっちゃきれいやんけ!」
思わず、声を出してしまった。
点検の後にペイントシーラントによるクリーニングをしてくれたのだ。

お礼を言うと「いつもきれいにしてるのでちょっとメンテナンスするだけで元通り、きれいになるんですよ」といわれた。
天気が悪くなりそうなので、ドライブしたい気分を抑えて家路を急いだ。
やっぱりこまめに洗車しよう。

2006年1月24日(火) 手のひらは返しやすい

マスコミや世間が騒ぐほどに悪人だったのだろうか。

「『女は金でどうにでもなる』って言ったんだって!私、一億円積まれても彼とは付き合わない!」
こめかみに青筋が立つほどに興奮した女性タレントがテレビで彼を指差して騒ぐ。
「こいつは選挙に出たときに『大臣なんじゃなく総理も狙っている』と言っていた。頭がおかしいんじゃないだろうか」
コメンテーターがそら見たことかと言わんばかりに鼻息荒く話している。

金でついてくる馬鹿な女がいるのは事実であり、先の女性タレントの意見に賛同する女性をすべて無視しても、それでも相手を探すのに困ることはない。
また、上を目指さず、現状に甘んじて生きている抜け殻に、あるいは事なかれ主義の中に生きている凡人に、彼の向上心や野心は理解できない。

この数年、マスコミも世間も彼の一挙手一投足に注目し、脚光を浴びせていた。
それが事件が発覚するや否やこの騒ぎだ。

彼を愚かだと人は言う。
罪人だと人は嘲笑する。

確かに法に触れる罪を犯した以上、彼はそれを償う必要がある。
でも、それは彼だけではない。
何も考えずに、そしてこれからも何も考えない愚鈍な凡人は彼と同じように、違った形で罰を受ける。
その罰は「不景気」「増税」として具現化され、そして懲りずにまた、今度は政府を相手に不満を言う。
自分がその立場にあることを他人のせいにし、いつまでたっても文句しか言わず、成長しない愚か者の集団。

彼はいずれ、この世界でまた自分の世界を作るだろう。
そのとき愚かな集団は、今、ここで何も学ばなければ、彼の世界の中で、彼の下僕になってしまうことは目に見えている。

2006年1月25日(水) ネットワーク不調

最近、ネットワークの接続が安定せず、いろいろ調べてみたが原因が特定できなかったため、プロバイダに連絡してみた。
無論、何の根拠もなく電話したわけではない。

今までにネットワークが不安定だったとき、電話をするとプロバイダ側でなんだか「調整」と称するよくわからない作業をされ、その後、接続が安定することがあったからだ。
それ以外にも、プロバイダからレンタルしているモデムの電源を切断し、10分後ぐらいに電源を入れなおすと正常に動作したりもした。
要するに、こちらのLAN環境ではなく、モデムから回線側の問題で接続できないことがよくあったわけで、今回もその類だろうと思って電話した。

電話の対応はいつもよい。
マニュアルどおりの対応で、何度も同じことを言わせられるのだが、それは仕方があるまい。
私のようなプロが電話することは稀で、ほとんどの場合は「つながらない」と、つかみどころのない障害状況を伝える素人との会話なのだから。

で、モデムのランプを確認させられるので、現状を伝える。
次にブラウザの設定を確認させられるが、これもよくあることだ。
一通り確認すると、いつものように「調整」してみるという。
まあ、これで直るだろうと思っていた。
でも、依然として不安定だ。
いよいよ、モデムがやられたか。

会話を進めるうちに相手もそのように思ったらしく、「ではモデムをお送りしますのでお手数ですが取替えをお願いします」。
このあたりの対応は早い。

モデムを送ってもらうのはいいが、また設定のしなおしが必要になる。
とりあえず、今の状態と設定を確認しておくか。
そう思ってブロードバンドルータにログインした。

おや?
なんだかステータスが変だ。
ルータの本体を見てみる。
げげ。
赤いランプが点滅している。
こ、これは・・・。
ルータをこねくり回すこと数分。

ネットワークは安定し、それ以来何事もなかったかのように、動作している。
・・・モデム、一応、取り替えておくか。

2006年1月26日(木) ネットワーク障害

先日、業務用ソフトを買ってきたので、デスクトップパソコンにインストールすることにした。
ちょうどいい機会なので長男にやらせてみた。

「これ、インストールしてみろ」
そういってパッケージを渡すと、長男はパソコンの前に座り、パッケージを開封しながらつぶやいた。
「これ2003か・・。うーん。ゲームが動作しなくなるかも」

なに?
お前のゲームはこのソフトと関連しているのか?
ちょくちょくやっているゲームを見るがそんな感じはしなかったぞ。

「俺のやってるゲーム、2003では動作保証してないらしい・・」

おいおい。
お前の言う「2003」はOSのことであって、目の前にあるそれはアプリケーションプログラムだ。
いくらなんでもいきなりお前にOSを渡して、セットアップしろ、などと言うもんか。
私だっていきなり渡されたら、はいわかりました、なんて言えない。

初級シスアド試験を受けようとするものが、そんなことでどうする。
まあ、単純な勘違いだろうが、自分が何をやろうとしているのかをはっきり理解していれば、そんな発言はしないだろうし、第一、製品に対する知識がなさすぎだ。
もうちょっと勉強が必要だな。

とはいえ、最近はご近所のお得意様に出かけるときは長男も同行させ、障害調査の手伝いをさせており、手順書を作成して一つ一つチェックしながら、その内容を説明してやる。
その甲斐あって、先日は私のいない間に別のご近所さんの家でネットワークの接続のチェックをしたらしい。
まあ、解決には至らなかったが、障害の事象を確認し、私に状況を説明できるぐらいにはなっていた。

今度は私もそこへ行くのでまた長男を同行させようと思う。
そういえば、長女も初級シスアドの試験を受けたいといっていたので、こいつも連れて行くか。
ただ、プロバイダに「原因不明です」と言われた障害らしいので、ちょっと手ごわいな。

2006年1月27日(金) 金属探知機

次女が発熱したのでインフルエンザかと覚悟して、嫁さんが病院へ連れていったが、どうやらそうではないらしく、ほっと胸をなでおろしているところである。
インフルエンザは毎年猛威を振るい、体力のない幼児やお年寄りなどに多くの被害者を出しているため、子供を持つ親としてはとても脅威に感じる。

しかし我ながら情けないのは、脅威に感じておりながら、なんら手を打たないことである。
心のどこかで、我が家は大丈夫、などと何の根拠もない自信を持っているようだ。
そういう私自身が一度経験して痛い目を見れば改めるのだろうが、私が感染することはすなわち、家族に危険が及ぶということであり、それは避けなければならない。

でも、一番感染する確率が高いのは毎日電車で外出し、いろいろな人と接触してる私ではないだろうか。
感染した子どもは親がすぐさま家の中に閉じ込めるが、大人の場合は多少無理をしてでも仕事をしようとして外に出て、菌を撒き散らす。
そういう大人と接触する確率が高いのはやはり私だろう。

実際、ユーザと会議をしていても「いやー、ついこの前までインフルエンザで寝てまして。まだちょっとしんどいんですが、がんばって出てきました」などと、馬鹿丸出しのことをいう無責任なやつがいる。
そういう時は会議が終わると、すぐにうがいをする。

月曜日はまた出張で飛行機に乗る。
密室の中、しかも隣の人が咳などしようものなら悲鳴を上げそうになる。
手荷物検査で金属探知機のゲートをくぐるが、同じように「菌」属探知機があればいいのに、と毎回思う。

2006年1月28日(土) 同窓会

嫁さんが同窓会に出席するというので車で集合場所まで送ってやった。

今日集まったメンバーは高校の同窓生で女ばかり4人だが、嫁さんとは高校時代から付き合っている私にとっても同窓生であり、みな顔見知りで、私のことを嫁さんと同様にニックネームで呼ぶ。

この同窓生たちはどういうわけかみな、早い時期に子供ができた。

我が家では、この春高校2年生になる長男が第一子だが、今日集まった同窓生のほとんどは、一番下の子供でさえ、我が家の長男より年上だ。
中には、22歳の社会人を子供に持つものまでいる。
おばあさんと呼ばれる立場になるのも時間の問題だ。

それだけに苦労も多かったはずだが、それでも世間一般よりは少し若く見えるんじゃないだろうか。
一人が「見た目は40でも心は二十歳」などといっていたが、いやいやどうしてどうして。
ちゃんと若く見えるから心配なく。
まあ、二十歳、は無理だけど。

今日は嫁さんを送迎した折に、ほんのちょっと挨拶をしただけなので、彼女たちがどんな話をしていたのかは知らない。
しかし、見掛けはおばさんになっても、学生のころの心に戻って、20年以上前のあの放課後のように、他愛のない話で大いに笑い、大いにわかりあい、大いに楽しんだことだろう。
帰りの車の中で話す、嫁さんの声がすべてを物語っていた。

2006年1月29日(日) 副会長

子ども会の会長を務めてほぼ半年。
一緒に子ども会を運営してきた班長さんたちは一年の任期を終えて、新しい班長さんたちにそれを引き継ぐことになった。

我が家の嫁さんもその対象であるが、私が子ども会の会長を務めているので、たとえば会計や地区長のような、重要ポストにつくことはできない。
夫婦で子ども会の重要ポストを占めてしまうと公平性が保てないためだ。
ただ、これについては明文化されておらず、子ども会から自治会に対して子ども会会則の是正を申し入れるつもりである。

先日、この地区長の抽選会があった。
悲しいことに、地区長は毎年抽選で選出される。
私のように、手を上げて自ら進んで、役員になる人間は珍しいようで、地区長や副地区長、生活指導委員は毎回抽選によって選ばれ、その役に当たった人はみな、がっくりと肩を落とし、ため息をつく。
私にできることは、せめて、任期の一年の間は楽しく子供たちと活動できるよう、フォローしてあげることだ。

と、子ども会の仕事も山積みなのに、何かの弾みでもうひとつ役を引き受けることになった。

最初は嫁さんに白羽の矢が立ったようで、嫁さんにはしきりに「お願い」の電話がかかってきていたようだ。
先日も私がほろ酔い気分で帰宅すると嫁さんが誰かと電話をしており、なんだか困ったような素振りをしていた。
私が理由を聞くと長男が通う高校の副会長になってくれと言われて困っているとのこと。
「俺がやろか?」
そういうと嫁さんが「ほんと?やってくれる?」と喜びの声をあげた。

もしここで、嫁さんが冷静に「無理無理。大変だから」など言ったならば私もすぐさま前言を撤回したかもしれないが、嫁さんの喜びようから考えてそれほどたいした仕事でもなさそうだということはすぐに察知できた。
「ああ。やるよ」
そういうと嫁さんはすぐに、先ほどの電話の主に電話をした。
「いましたいました。副会長に最適な人が。主人です。ええ。自分で手を上げました」
うれしそうに電話していると、向こうからもうれしそうな声が聞こえてきた。

長男が驚く。
「え?お父さん、副会長?」
嫁さんも付け足す。
「絶対、会長の話が来るで。だって、毎年、担当者が直接、父兄の家に出向いて頭を下げてお願いするほどなのに、自分から進んで副会長やるなんて人、いてないもん。」

確かに、珍しいかな。
私は早く会議に出席して発言したくてうずうずしているのだが。

2006年1月30日(月) 脱会騒動

夜の10時過ぎ、校区子ども会の校区長から電話がかかってきた。
こんな時間に電話をしててきたことはなかったので、きっと何か重要な出来事があったのだろうと思った。

小学校の校区は全部で8地区。
でも、全部が校区子ども会に属しているわけではなく、校区子ども会に属しているのはそのうちの5地区。私の地区もそのひとつだ。
その5地区のうちの1地区が、今年度限り、つまりこの3月限りで、校区子ども会を脱会することがその地区の役員会で決定された、というのが校区長からの電話の内容だった。
残りは4地区になるのだが、校区子ども会の活動において、この脱会した1地区の役割はとても大きく、積極的に行事などに参加していただけるお父さん方も、この地区の人が多かった。
それだけに、負担が大きいと感じられたのが脱会の理由かもしれない。

実は影響はそれだけにとどまらない。
脱会を考えている地区はほかにもある。
今回、脱会することになった地区と並んで、校区子ども会の牽引役でもあった地区が脱会を考えているのだ。
他ならぬ、校区長の地区である。
この地区が、今回の脱会に刺激されて、役員会で脱会を正式に議決するのは時間の問題と思われる。
そのことを懸念して校区長が電話をしてきたのだ。
「今一度、他の地区がどのように考えているかを確認しておきたいので、臨時に会議を開催したい」らしい。

この2地区が脱会すると、残り3地区で校区子ども会を運営していかなければならない。もっとも子供の多い地区は私の地区であるので、子供の数は半分以上残るのだが、行事に参加する大人の数が圧倒的に少ない。
これは、子ども会の働きかけが弱ったためでもあり、私の責任でもある。
でも、会長に就任して半年では、基盤を固めるのに精一杯で、それ以上のことまでなかなか手が出るものではない。

各地区ごとにそれぞれの考え方はあるだろうが、地区だけではできないようなことを校区全体で行い、その行事参加することで、子供が育まれ、また大人たちは交流を深めるのだ。
ぜひとも、子供のことを考えた意見を聞きたいものだ。

2006年1月31日(火) アパート

私の家の向かいには2階建てのアパートが建っている。
そこの向かいに住んでいる一人暮らしの60歳ぐらいのおじさんは子供が大好きらしく、我が家の長女や次女もよく世話になっている。

インターホンのチャイムが鳴り、そのおじさんの声が聞こえてくると、次女は「あ!おっちゃんや!」といって慌てて、そしてうれしそうに玄関に走って行く。
今日もそのチャイムが鳴った。
長女もついていった。
しばらくすると、「今からおっちゃんの家に行ってくる。中華料理食べに行こうって」と報告しに来た。
お隣の中華料理屋に行ってくるのだろう。
おじさんも娘たちと食事できることを喜んでいるようなので、甘えさせていただくことにした。

一時間ほどして中華料理屋から帰ってきた次女が「家族全員集合!おっちゃんが来てほしいって」と家の前で叫んでいる。夕食の支度をしていた嫁さんが、「なんやろ?ちょっと行ってくる」と言っておじさんの家に行った。

しばらくすると嫁さんが中華料理と寿司と刺身をもらって帰ってきた。
「おっちゃんとこ、立ち退きの話があるんやて」

向かいには3棟のアパートが並んでおり、そのうちのひとつ、我が家の斜め向かいのアパートはすでに取り壊しが始まった。
その隣、つまり真向かいがそのおじさんの住むアパートであり、先日、立ち退きの相談が来たそうだ。
今、取り壊しているアパートの敷地だけでは一戸建てしか建てられないが、真向かいのアパートも取り壊せればマンションが建てられる。
我が家としても、目の前にマンションが建てば、日当たりも悪くなるので、それは避けたいところだが、何より、子供たち、とりわけ次女がなついているそのおじさんがどこかへ行ってしまうのは寂しい限りである。

「『立ち退きするのは仕方が無いと思ってるけど、最後の一人になるまで立ち退かない』って。知り合いとさっきまでお酒を飲んでたらしいわ。で、うちの子供と話がしたくなって、呼んだみたい。それで私らの分までこんなにたくさん料理を。」
嫁さんがなおも続けた。
「おっちゃん、ここが好きなんやて。便利やし、それに、子供の声が聞こえるからって。もし、ここから離れるのなら、川遊びやつりのできるような田舎のほうにするって。」

私の家も、こういう人たちの悲しみを代償に建てられたのかと思うと、複雑な思いである。

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