カリント日記

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2006年8月1日(火) 正夢

たびたび夢の中に出てくる嫁さんは、とても性格が悪く、私の話を聞かず、忠告を無視し、やりたい放題だ。
タバコは吸うし、酒もがぶがぶ飲む。
その話をすると嫁さんは「あなたにやましいことがあって、私に嫌われて、私がそうなるのを心配してるんじゃない?」などと笑いながら言う。

でも、今日の嫁さんは、私の話を全く聞こうとしない、理解しようとしないと言う点において夢の中と同じように感じた。

25年以上も一緒にいながら肝心なところで気持ちが伝わらないというのは、なんとももどかしい。
普段はあれほどに意思が通じるのに、なんでこんな簡単な話がわからないのかと、驚きと失望とが入り混じった、なんともいえない気持ちに見舞われた。
夢の中で嫁さんに話をしているときとそっくり同じ気持ちだ。

優等生のわが子が万引きをして警察に呼び出された親はこんな気持ちだろうか?
叱りたいと言う気持ちより「なぜ?」と言う気持ちのほうが大きい。



じつはこの日記は途中まで詳細に書いていたが、どう冷静に見ても、嫁さんの落ち度をあげつらっているようにしか見えないので、詳細を割愛することにした。
日記なので、そのときは言葉にできなかった、嫁さんの知らない事実や私の心のうちを、書きとめておきたいところだが、それもみなひっくるめて削除することにした。
何があったのか事実を書くと、嫁さんの弁明をその倍ほど書かなければならないし、それに対する私の言い分をさらにその倍、書かなければならない。
第一、我が家の出来事をそこまでオープンにすることもない。



今日はもう、荒れそうなことがすぐにわかった。

私が何を話しても、最初の一言二言、話しただけで嫁さんはすぐに反論した。
「最後まで聞きなさい」というと目をつぶって私が話し終わるのを待ってはいるが、私の話しを理解しているわけではなく、話が途切れたら反論してやろう、という態度のようだ。
事実、まったく、それこそこっちが「え?今の話、聞いてた?」と驚くほどに話を理解しておらず、言いたいことを言い出した。

これは夫婦の限界、男と女のどうしても理解できない境目なのだとわかった。

申し訳ないが、女性は、冷静に人の話を聞くことが苦手なようだ。
話をしていて感情的になって怒り出すのは決まって女性のほうだ。
男の冷静な態度がさらに女性には気にいらないらしい。
かといって男性が怒ると女性は「怖い」だとか「暴力」だとか、好き勝手に言う。

「女は子宮でものを考える」とはよく言ったもので、何も夫婦の間だけではない。
男だけの自治会と女だけの子ども会が不仲だったというのもそれを裏付ける明確な事実だ。
私が今までに接してきた女性の多くは、やはり言葉を感情で受け取り、言葉の意味を理解しようとしない。
女性にとって大事なのは、相手が発する言葉ではなく、そのときの相手の態度であり、そのときの状況であり、そしてそのときの自分の気持ちなのだ。
ようするに「言い方ひとつ」なのだ。
私にとって言い方を変えるぐらい造作もないことだが、嫁さんにはあえて、あえて、真っ向から話をしてみたのだが、やはりだめだった。

女に冷静に話をすることの限界を感じた。
それでも確かに私には得るものがあったし、成長した。
明日以降の言動に注意しようと反省もした。

嫁さんは何を得たんだろうか。
何も得ずにまた、夢の中で私に冷たい視線を浴びせるのだろうか。

2006年8月2日(水) 瓜田に靴も入れてやる

ノートパソコンは私のトレードマークでもある。

普段仕事で使っている私や、その周りの人にとってはただのアイテムに過ぎない。
無論、私自身、パソコンはアイテムに過ぎず、トレードマークだなんて思っていない。
でも、パソコンがまだまだ特殊なアイテムだと思っている人にとって、私がノートパソコンをメモ代わりに用いていると奇異に思うようだ。

今日は市PTA協議会、つまり各学校のPTA会長会があった。
出席者は全員、市内の学校のPTA会長。
その会議でも私はいつもパソコンで記録をしている。

会議が始まる少し前、いつものように席についてパソコンの電源を入れる。
するとプリント配布をしていた役員の一人が私の席にプリントを置きながら、言った。

「そのー、そのパソコン、あれかな、議事録とってるんかな?」
「え、まあ。記録してますけど」
「んー。人の名前とかは、どうなんやろ」
「はっ?」
「いや、まあ、一応、会議では議事録とってないし」
「はあ」

実に奥歯にものの挟まった話し方である。

「いや、その、『誰が何を言うた』とかは記録してないよね・・」
「はあ? そんなもんしてません。ご心配なく」

本当は、その場でもっと言い返してやろうかと思ったが、得策ではない。

この人は一目置いていただけに、馬鹿な発言に残念な思いがした。
だってそうだろう。
パソコンで記録しているのと、ノートに鉛筆で記録しているのと、どこがどう違うのだ?
なぜ、パソコンだと「人名」を気にするのだ?
ノートだと誰が何を言ったか、書いてもいいのか?
ようするにこの人の頭の中のパソコンは「インターネットによからぬことを書き込むアイテム」という図式があるんだ。
ノートに記録して後でパソコンで入力しているかも知れないじゃないか。

私にとってパソコンはただのメモ帳だ。
実際、ここで記録した内容を後日清書して、学校にメールで転送し、委員会での連絡用の資料として印刷してもらっているのだ。
最初のころは奇異に思っていた学校側でさえ、今はそのメールを送ってくれと催促するほどだ。
それもそのはず、今までは会長が会長会の後の役員会で、自分のメモを見ながら口頭で報告していた文章を、今度は先生が記録し、委員会用に印刷していたのに、私が会長になってからは、私がまとめて印刷できるようにメールで送ってやっており、先生はただ印刷さえすればいい。
その上、私なら先生が今まで書いていたどんな資料より、誤字脱字、慣用句の誤用もない、見やすくきれいな資料を作成することができる。

むやみにパソコンを警戒するのは、無知をさらけ出しているようなものだが、私を知らない人間なら無理もないか。
私は、誤解を受けるのも、嫌いではない。
いくらでも、李下に冠をただしまくってやる。
そいつが私を誤解していた自分を恥じるときがくるまで。

2006年8月3日(木) 説明下手って

会社にいたときからそうだが、複数のメンバーで仕事をやるときは、みんなで成長することが次の仕事につながる。

個人事業とはいえ、グループで仕事をすることが多い私は、単に自分の仕事をこなせばいいというわけではない。
ユーザ先の要望としては、それなりに人材を成長させることも私に期待されている仕事のひとつである。

仕事の技術を教えるのは簡単であるが、簡単ではない仕事のひとつに、ユーザに対する対話と言うのがある。
「プレゼンテーション力」や「折衝力」と言われることもあるが、それは経験をつんでこそ問われる能力であり、基本的には「人に対して自分の意志を明確に伝える能力」が問われる。

ところが、これの備わっていない社会人が多い。
家や車や保健などさまざまな局面で営業マンと接するが、下手くそなことこの上ない。
敬語が使えない、段取りが悪い、情熱が感じられない、汚い、くさい。

今日も、みんなで成長するために、ユーザに説明する機会を未経験者に与えた。
説明者は一所懸命に頑張っていた。
私を相手に、3回も練習したのだ。
ここでユーザに成果を見せなければ。
でも、1分もしないうちに、私は練習が不十分であることを悟った。

しかも、資料が悪い。
私なら、例えその資料を初見であっても、ユーザは首を傾げることなく、縦に振り続けるだけで、まったく問題なく切り抜けるところなのに、しゃべりも悪く、資料も悪いとあっては、ユーザも我慢の限界だ。
説明が終わるや否や、「もう、ええ加減、投げ出しそうなった」とユーザから酷評をいただいた。

私は、自他共に認めるほどに話をするのがうまい。
説明をするにしても、物事を教えるにしても、はっきりいって、うまい。
敬語の使い方、抑揚のつけ方、感情の表し方、態度、目配り、表情、どれをとっても群を抜いている。
しかもそれを使いこなせて当たり前だと思っている。

だから、話の下手な人が、なぜ下手なのかわからないのである。
ともに成長する組織として進めていくべきなのに、話の下手な人に、どうアドバイスしていいかわからない。
できて当たり前のことをできない人に、どう教えればいいのかわからないのだ。
「ありがとう」を言わない人に対して「なぜ言わないのか?」と聞くと「いついえばいいのかわからない」と言われるようなものなのだ。

人の気持ちを理解するのは難しいと思った日が続いた。

2006年8月4日(金) 駐輪場で駐輪禁止

熱中症寸前である。暑い。

高校総体がありPTA役員である私はボランティアとして参加した。
別に長男が出場しているわけではない。
なのに、普段ならまだ寝ているような時刻に会場に着いた。
結構つらい。

会場でTシャツと帽子を渡される。
更衣室で着替えて説明を受ける。

会場には小さな駐輪場があり、主に、地域の方々が利用する。
しかし、地域の方々のものとはいえ、学生などが見学のために団体で押し寄せられると、お年寄りなどの自転車置き場がなくなる。
無論、会場には大きな駐輪場があるのだが、そこが遠いのだ。
そのため、お年寄りにのみ、その駐輪場を使わせ、その他の人たちは遠くの駐輪場をご利用いただきたい。
それを誘導するのが、私の仕事だったのだ。
それにしても「お年寄りだけ利用可能」というのはなんともアバウトな制限ではないか。
お年寄りと言ったってどう判断すればいいのか。
はっきり言って、私の主観である。

そんな不安の中、警備は始まった。
9時から12時までの3時間、交代もなしでただ一人で、駐輪場なのに駐輪禁止と言う、なんとも矛盾した警備を任された。
しかもアスファルトの上の暑い暑い場所である。

しかし、これはとてもいい経験になった。
翌日は市民まつりでお母さん方に違法駐輪の注意をお願いしており、私の経験はまさに予行演習となったのだ。

実際には、禁止箇所に無理矢理止めるような人はおらず、ほとんどの人は「どこに止めればいいのか」を聞いてくる。
そういうことをあらかじめわかっていれば、結構対処しやすいだろう。

と言うわけで、明日の担当者向けに資料を作った。
心構えや、説明のしかた、いざと言うときの連絡先、トイレの場所などを地図を交えて作成したのだ。

それが役に立ったと評価されるか否かは、明日の日記で明らかになる、

2006年8月5日(土) まつりの警備

「完璧ですね」と何度も言われた。

今日は市民まつり。
今年から市民ボランティアによるスタッフが大幅に増やされたため、私が会長を務める小学校のPTA(といってもPだけでTはいないが)からも、警備のボランティアを出さなければならなかった。
集まったボランティアは18名。
忙しい時間の合間を縫って参加していただくのだから私はできる限りのことをしたい。
そう思っていろいろと考えた。

まず、3週間前。盆踊りの準備で忙しいさなかのことだ。
担当区域を下見してきた。
最初に行ったのは仕事帰りの夜のこと。
駅から10分ほどのところにあるそこへ、蒸し暑い夜に出かけていった。
広い道路から住宅街へと通じるT字路の一角が担当地点だ。
広い道路には歩道があり、まつりの当日はたくさんの人がここを通ることが予想された。
そしてT字路を入ったところは、数件のお店があり、いずれもシャッターがしまっていた。さらに道の先にはマンションが立っている。
おそらく、違法駐輪をするのなら、この店先だろう。
ここへ自転車を止めさせないようにするのが主要な警備になる。

街灯があるためそれほど暗さは感じないないし、当日は2名体制でおのおの40分の警備であり、それに3メートルほどのその道の向かいには、別の中学校のPTAがやはり2名配置されるので、不安はそれほど感じない場所だった。

そして翌日。
今度は昼間の状況を見に行った。
各担当者に配布する説明資料を作成するためだ。
早速、現場の写真を撮る。
どこに立つのか、何が警備対象なのか、そういうことを視覚的に説明できるように考えながら。
そして自宅に戻って説明資料を作成する。
警備に対する心構え、注意事項、スタッフ用Tシャツのこと、現場の状況のこと、そして警備地点までの地図と、現地写真。
それらをカラーで印刷し、資料が出来上がった。

ちょうどそのころスタッフ用Tシャツが学校に届いたので、嫁さんがとりに行ってくれた。
このTシャツと説明資料を担当者に配布しなければならない。
通常、父兄に何かを渡すときはその子どもを通じて学校で配布してもらう。
しかし、すでに夏休み。
子どもたちは学校に来ないので、その方法は使えない。
各地区の地区長に渡してもらおうかと思ったが、初めての無理なお願いでもある。
ここは一軒一軒、私自身が回って挨拶をする必要があるだろう。
そう考えて、Tシャツと説明資料を配布して回った。
事前に電話をして、都合がいいといわれればすぐにうかがう。
これから出かけると言われれば日を改める。
電話の通じない家もある。
住所と地図を見ても表札が違うのでわからない家もある。
結局配布し終わるのに2週間かかった。
苦労はしたが、これは効果があった。
当日の警備のときも非常に好意的に対応していただけた。
この資料を見た一人が「完璧ですね」と言ってくれた。

そして、昨日。
私自身の警備の経験から、さらに実用的な説明資料を作った。
一番多いのは「どこに自転車を止めればいいんですか?」と聞かれることだ。
だからそれに対応する例文を作り、そこまでの案内図を作った。
トイレの場所も重要だ。
緊急連絡先として、本部テントに設けられた直通電話も付け加えた。
それをクリアファイルに入れて最初の警備担当者から最後の人まで引き継いでもらうことにした。
ボールペンも一緒につけ、何か気づいたことがあればその資料に追記してもらうことにした。
それからもっと大事なものの作成に取り掛かった。
「駐輪禁止」の看板だ。
私が警備をしたとき、ほとんどの人は「駐輪禁止」の看板を見て、そのそばに警備担当者である私が立っていることに気づき、駐輪禁止だと認識して、「自転車はどこにとめればいいんですか?」と聞くのである。
当日は看板が用意されるかもしれないが、ないかもしれない。
看板もなく、シャッターが閉まり、車も通らないような道なら、自転車を置いてくれと言わんばかりの場所となる。
それでは警備する人が大変だ。
「駐」「輪」「禁」「止」の文字を400ポイントで一文字ずつ、A4の用紙に目いっぱい大きく印刷した。
それを段ボール箱に貼り付け、折りたたんで、地面に立てる看板にした。
それを二組用意した。

当日。
着々と準備の進んでいるであろう会場へ下見に行く。
トイレの位置、駐輪場の位置、案内看板の設置状況、そして、駐輪禁止の看板の有無。
それらを確認しに行った。
やはり「駐輪禁止」の看板はない。

夕方。
手製の看板と昨日作った案内図や例文を載せた資料をもって、集合場所に向かった。
最初の担当者と一緒に警備地点へ移動し、看板を設置した。
その看板を見た担当者が「完璧ですね」と言った。
そして案内図などの資料を渡してこれを引き継いでくださいとお願いした。
それから長い警備の一日が始まった。

担当区域には30分ごとに訪れて、必ず担当者に挨拶をし、状況を確認した。
「あの看板のおかげで誰もとめようとしません」と言っていただいた。
事実、同じような道に、同じように警備担当者がいるにもかかわらず、他の地点では違法駐輪があった。
しかし、私の担当地区では、結局、一台も違法駐輪がなかった。

場内を巡回警備しながら気がついた。
駐輪禁止の警備をしている人は駐輪場を案内することも多いが、この会場には2箇所の駐輪場がある。
ということは、どちらか一方が満車になるともう一方に行かざるを得ない。
にもかかわらず、警備を担当している人は、どちらの駐輪場がどういう状況になっているのかを知らないのである。
そこで私は駐輪場を見て回った。

片方の駐輪場は80%ほどの入りなのに、もう一方は120%といった感じだった。
そこで、双方の駐輪場の担当者に聞いてみた。
「この駐輪場は互いに状況の連絡を取り合ってますか?」
「いいえ。え?あっちは空いてるんですか?こっちはもう、ご覧のとおりいっぱいで・・」
早速、自転車を誘導する人たちに、比較的空いている駐輪場へ案内するよう、指示をした。
そしてそのまま、各地点で違法駐輪を警備している担当者にも、空いている自転車置き場へ案内するように話をし、そのまままつり実行会の本部に戻って、本部に対して改善策を講じるように求めた。

私の嫁さんが警備につく時間になり、それもそろそろ無事に終わるかと思ったときに私の携帯電話が鳴った。
電話の相手は嫁さんで「ここじゃないけれど別の場所で違法駐輪の苦情が出てる」というのだ。
なぜ嫁さんが別の場所の違法駐輪の苦情のことを知っているのか。
警備をしていたら見知らぬおじさんがあっちに違法駐輪があって困る、と嫁さんに話したのだと言う。
いわれた場所に向かうと、そこには警備担当者の姿がなく、駐車場の前に違法駐輪自転車が放置されていた。
このまま台数が増えると、車の出し入れができなくなる。
これまた本部に戻って、なぜ警備担当者がいないのか、どこかの担当者を移動させてはどうか、と状況を訴えた。
やがて要求は受け入れられ、一部の担当者が、そちらへ移動し事なきを得た。
それにしても、その苦情を受けたのが嫁さんでなければ、私の耳には入らなかっただろうし、私でなければ、本部を動かすこともしなかったのではないだろうか。

巡回警備は私の担当ではなく、市PTA協議会長の役目ではあるが、一人で見切れるわけもなく、私のほうがフットワークも軽い。
一周2キロ程度の巡回コースを10週近く回った。
違法駐輪をしようとする中学生たちを見つけると「あーごめんなー。ここ、駐輪禁止やねん。もう少し向こうに行ったら駐輪場があるんよー。すまんけど、そこまで行ってくれるかなあー悪いなー」といってすばやく誘導する。
狭い歩道をふさぐように溜まっている高校生グループに「ちょーっと悪いけど、道、明けてくれるかなあ。ここは人がたくさん通るからなー。ごめんなー」そう注意する。
お母さん方ならちょっと怖いと感じるような風体のやからではあるが、私が注意すると素直に言うことを聞くし、「ごめんさい」と謝ってくれる。
同じように注意をしていた他の男性に対して「じゃまくさいのー!」と捨て台詞を残すやつがいたが、それは男性の注意の仕方が、命令口調で乱暴だったからだ。

場内でタバコを吸っている人は喫煙場所へ移動するように注意し、通路に座り込んでいる若者にも、道を明けるように注意した。
車道を歩いて車の通行の妨げになっているものに注意し、違法駐輪の自転車が少しでも邪魔にならないように、整理した。
もう、何十人に注意したか。

そうして私の担当区域も最後の保護者となり、その警備もそろそろ終わる時間となった。
違法駐輪もなく、無論トラブルもなかった。
お礼を言って引き上げていただいた。
そのあと、もう一周して私も帰り支度をした。

自宅に戻って、まだ仕事があった。
お礼状を書いたのだ。
おかげで無事に作業完了したことに対するお礼状を書いた。
そして、それを担当していただいた各家庭に一枚ずつ配った。
時刻は夜の12時過ぎだったので、ポストに投函することにした。
長女も一緒に行きたいというので自転車で一軒一軒回った。

帰宅したときは1時を回っていた。
最後に嫁さんが「完璧やね」と言った。
もちろん嫁さんと二人で酒を飲みに出かけた。

2006年8月6日(日) プロ顔負けの歌手

土日に開催された市民まつりは、警備をしていたのでその内容について詳細は知らないが、のど自慢大会も盛況だったようだ。
近所に住む私の知り合いの女性にもたいそう歌の上手な人がいて、その人も今回の市民祭りののど自慢大会に出場した。

最近は小さい子供からお年寄りまでカラオケを楽しむようになり、誰でもそこそこ歌がうまくなったし、あちらこちらに「歌のうまい人」はいる。
私の周りにも何人かののど自慢がおり、実際にのど自慢大会に出た人もいる。

以前、よくカラオケに行った仲間が、仕事場近くののど自慢大会に出場しようとして、応募したが、惜しくも予選で敗退してしまった。
その人も歌は上手であり、私はステージに立ってみんなの前で歌うことは間違いないだろうと思っていた。
そのカラオケ大会に出場するためには、並大抵のうまさでは難しいらしい。

ところが、先ほどのご近所さん。
この大会の本線に出場するどころか、優勝してしまったのである。
と、いう話は以前の日記にも書いた。

で、今回、市民まつりに出場したご近所さんの成績はどうだったか。
予選通過者は10名で、彼女は10番目、つまり「トリ」を務めることになった。
これはもう、うまい証拠である。

かくして大会が始まった。
(といってもこれから先は嫁さんの報告である)

予選通過者はさすがにうまい。
まあ、中には、歌ではなくキャラクターで選考された人もいる。
去年のまつりでは幼稚園児を含む小さな女の子だけで結成されたダンスユニットが優勝した。

次々と出場者が自慢ののどを披露し、ついに彼女の番となった。
イントロが流れるが、嫁さんも聞いたことのない歌らしい。
そして、彼女の声が響き渡るや否や、会場の雰囲気が一変したという。
嫁さんいわく、「段違いにうまい。比べ物にならない。はっきりいってプロ」だそうだ。

確かに昨今のプロ歌手は、歌がうまいからプロであるとは限らない。
その歌手の個性や曲のよさに惹かれて歌を聴きたい、と聴衆に感じさせればプロなのである。
そういう意味では、彼女の歌声は、他を圧倒するものであり、まさに「歌が上手い」歌手であり、聴衆を十分に魅了するものであった。
それが証拠に、9番目までの歌手は歌の途中で曲がフェードアウトしたのに比べ、彼女はフルコーラスが流れた。

嫁さんは、その後の班長会議があったので、結果を待たずに会議に出席した。
以上の話は、その会議の席で嫁さんから聞いたものである。
その話を聞くと、優勝は間違いないと思っていた。

会議も半ばに差し掛かったころ、嫁さんの携帯電話にメールが届いた。
嫁さんがそれを見て、何気なく行った。

「あ。やっぱり優勝したって」

優勝なのにそのことを知って嫁さんが驚かないということは、実際の歌声が、優勝以外にありえないほどの魅力を持っていたという何よりの証拠だろう。

今度から、一緒にカラオケにいっても、おいそれとは歌ってくれないかもしれない。

2006年8月7日(月) 恒例の旅行一日目

我が家では恒例となった観のある夏休みの旅行に来ている。
これはホテルの「インターネットコーナー」で書いている。

ここも前回と同様の「穴場」だ。
はっきり言って教えたくない。
場所は南紀白浜。
あの真っ白い砂浜の海岸「白良浜」の近くだ。

なんたって、安い。
でも、宿がぼろいわけではない。
それどころか、宿はこのあたりでも屈指の老舗の旅館である。
6階建てで、400部屋。
大きなガラス張りのロビーに専用プール。
それなのに、一泊二食で1万円以下である。
1万円以下、といっても、9,800円ではない。
ちなみに、9,800円だと、そのホテルの中でも特別に広い部屋に案内される。

で、今回は予約の時期が遅くて安い部屋がなかったので、その特別に広い部屋を利用することにした。

実際、このホテルは、20年前でも一番安い部屋が15,000円以上であった。
白浜に何度となく訪れている私は、多くの宿の料金を調査した経験も二度や三度ではない。
だから、このホテルが、1万円以下というと、信じられないのだ。

案内された部屋を見て驚いた。
これは、25,000円以上の部屋だ。
無論、部屋風呂がある。
大浴場と露天風呂があり、どちらも「源泉かけ流し」なのに、部屋風呂があるのだ。

で、なぜ安いのか。
これはもう、「夕食」の一言に尽きる。
多くの老舗旅館やホテルでは豪華な夕食が用意されている。
しかし、この夕食、大人にとっては贅沢極まりないものであるが、子供はそれほどうれしいものではない。
舟盛りだって最初は興味もあるだろうが、食べていくうちに飽きてくる。
子供は刺身よりもハンバーグが好きなのだ。

ここはバイキングである。
バイキングはとり放題である。
卵焼きの好きな子供は卵焼きばかりを食べるし、桃の缶詰をお皿に山盛りとってきたって誰にも文句言われない。
ジュースだって飲み放題。
いろいろ混ぜて変な味のジュースを飲むのだって楽しい。

子供のいる人にはわかるだろうが、食事のときの子供の楽しそうな顔は、豪華な会席料理よりもうれしいものである。
普段はあまり食べない子供が、楽しそうにたくさん食べてくれるのはとてもうれしい。
安い秘密はここにあるのだが、年老いた夫婦なら話は別だろうが、子供の笑顔が見たい夫婦にはお勧めである。

来年は、4家族で行くことがすでに決まっている。

2006年8月8日(火) 泳ぎ上手たち

旅行へきているときは少しでも早く目が覚めないと、なぜだか損した気分になるのは貧乏性のせいなのだろうか。
旅行二日目の今日も、いつもならまだ布団の中と言う時刻に、すでに風呂にも入ったし、散歩もしたし、おなかもぺこぺこになってしまった。
毎日こうなら健康この上ない生活になるのだろうか、そうはならないのがなんとも意志の弱いところである。

前日の天気予報では台風が上陸するといっていたが、朝から天気もよく、それほど雲が多いようにも思わない。
風も穏やかであり、波だって昨日とどこがどう違うのかわからない。
しかし県内全域に波浪警報が発令されているとのことで、白良浜での海水浴はのんびりしていられそうにない。
まあ、日焼けに弱い私にとってはそのほうが好都合なのだが。

ホテルのフロントで浜の状況を聞くと、「遊泳注意」が発令されているものの、「遊泳禁止」ではないそうだ。
昨日、ここへ来る途中に見た浜は、海好きの長女でさえ、「あんなところでは泳げない」というほどに人が多かった。

午前中のうちであれば気温もそれほど高くないだろうということで、早速身支度をして海へと出かけた。
思ったように人出はそれほど多くなく、少なくとも場所取りに苦労することはなかった。
しかし、スイカ割りをする場所を探すとなるとかなり苦労しそうな程度には混雑していた。
人が少ないと感じた今日でさえこれなのだから、昨日の混雑具合はどれほどだったのか想像するのも怖い。

荷物置き場と日陰を確保するための小さなテントを張って腰をすえると、長女と次女と嫁さんは海へ入っていった。
私と長男はテントで留守番だ。
長男は泳ぎは得意なのだが、海水が嫌いなようだ。
あのべとつく感じが苦手なのだとか。

長女は長男よりも泳ぎがうまい。
無論、学年の差があるので、絶対的な泳力は長男にかなうべくもないが、泳ぎのスタイルや、スマートさは長女に軍配が上がる。
嫁さんが「一度見たらびっくりするで」というのを聞いて、久しぶりに泳ぐ姿を見たが、長い手足がものの見事に水を捕らえ、ひとかき、ひとけりごとにグンと前へ進む感じがする。
残念ながらバタフライで泳ぐ姿は見せてくれなかったが、この前はスイミングスクールの試験に合格したというのだから、一応、バタフライに見える泳ぎをすることは間違いなさそうだ。

しかし、その二人にましてすごいのは次女だ。
前日、ホテルのプールに入ったのだが、次女はまったく普通にはしごを降りて大人用のプールに入っていた。
そして、平気で泳いでいる。
思ったより浅いのかと思って次女を呼び、立たせてみたら、すっぽりと水の中に沈んでしまった。
まったく背の届かないプールを恐れるどころか、楽しんでいる。
いつの間にこんなにうまくなったんだと、びっくりしていると、嫁さんに「今頃何を言うてるの。いま、バタフライの練習もしてるんやで」といわれた。
小学校一年生なのにバタフライですか。
私が一年生のときは、洗面器を学校に持っていって、顔を水につける練習から始めたものだ。
そんな次女にしてみれば、さぞかし、学校でのプールは退屈だろう。

そんな次女も、海で泳ぐときは浮き輪をはずさない。
波に乗って海岸に打ち上げられたりするのが面白いようだ。
一通り遊んで、日差しも強くなってきたので、ホテルに引き返した。
そしてそのまま、荷物運びだけでも疲れてしまった情けない男性陣を尻目に、女性陣は再びプールへと向かった。

そりゃ、泳ぎもうまくなるはずだ。

2006年8月9日(水) 磯じまん

旅行の最終日も晴天に恵まれた。
出発前日に台風上陸の恐れのニュースを耳にし、まあ、これもまた一興と思っていたのだが、それでもやはり子どもたちが雨で遊べないのはかわいそうだと思っていたら、台風は上陸直前に進路を変え、一滴の雨にも遭遇することはなかった。
これもひとえに、日ごろの行いの賜物、と自分自身に感謝している。

子どもと一緒に海や山へ出かけたときに必ず行うこと、それは「生き物」と触れ合うこと。
虫や爬虫類を極端に怖がる子どもがいるが、たいていの場合、そこの親が同じように怖がっている。
ガルルっと低い声でうなる犬を怖がるのは人間の本能であるが、地を這う蛇や、糸を渡るクモを怖がるのは、その親が子どもにそう教えているからだ。
教えようとしていなくても、子どもの前で怖がって見せるから子どもはそれを「学ぶ」のだ。

事実、我が家の子どもはみな、爬虫類も虫を怖がらない。
それどころか興味を持って近づいてみる。
私と嫁さんが怖がらないからだ。
まあ、唯一、ゴキブリだけは家族全員苦手であって、普段はほとんど見かけないだけに、見かけたときは大騒ぎだ。

そんな子どもを連れてだかけたのは帰り道にあるナショナルトラストの磯だった。

車を止めると、日焼け対策に入念な嫁さんを置いて、早速、磯に向かって走り出す。
磯で潮溜まりの中や岩の隙間を探し始める。
子どもたちはすぐにヤドカリやカニを見つけて収穫物を誇らしげに私に見せる。
高校生の長男はそれでは満足できるはずもなく、さらに珍しい生き物を探しに出かけた。
しばらくして「ウニと毛ガニがいてる」と報告をしに戻ってきた。

「毛ガニ?」
ウニを見間違えるわけはないが、毛ガニがこんなところに入るのだろうかと思い、その場所へ行ってみた。

潮溜まりにウニがごろごろいた。
捕まえようとするが体の一部が岩の隙間に入り込んでいて、無理に引っ張ると針が折れてしまう。
せっかくのウニなのに針の折れたものを触らせても意味がない。
一匹だけ体のほとんどが見えている獲物がいたので、そいつを獲ることに決めた。
左手全体でウニを包み込み、左右にひねるつつ、親指を体の下にねじ込む。
何度か繰り返しているとポロリと岩からはがれた。

それを次女に見せる。
「お父さん、針、痛くないの?」
「大丈夫やで。こうやって指を広げてそっと持ってみ」
そういって3本指でつかませる。
いかにも痛そうな針は怖いようだ。
でも、何とか持つことができた。
ゆっくりと動く針が面白いようである。

手のひらの上に乗せようとしたので、「だめ!手のひらに載せると痛いよ」と注意した。
ウニが本当にいたいのは体の下にある口の周りの針だ。
普段はその小さな針を使って、まるで吸盤で吸い付いているのかのように岩に張り付いている。
それを手のひらでやられたら、はがすときにかなりいたい思いをする。
水の中の岩場においてやると、想像以上に速い速度でウニが移動していった。

そして「毛ガニ」。
確かに毛ガニのようなカニはいた。
しかし、毛ガニのように横に広いタイプではなく、洋ナシのような形をしている。
第一、体にあるのは「毛」ではなく「藻屑」だった。
後で調べたところ「イソクズガニ」とわかった。
緩慢な動作で刺激を与えると体を丸める。
そいつを捕まえてやはり次女に渡す。
しばらくの間、手の上でカニを這わせて遊んでいた。

ほかにも、見た目は悪いヒザラガイが実はおいしいこと、フジツボやカメノテでいい出汁が取れること、あわびが巻貝の仲間であることなど、実際にその生物を直接見せながら説明をした。

生き物以外、何もない磯なのに、2時間近く遊んでいた。
興味のない人には退屈極まりない場所だろうが、もっと涼しければ、あと2時間は遊んでいられただろう。

2006年8月10日(木) 50年後も同じ気持ちで

父親のせいで苦労を重ねた母親を見て育ったせいだろうか、男性に対して嫌悪感を抱き、好きにならないのは無論のこと、極力接することさえ避けてきたが、唯一、心を許せる男性と出会った。
高校一年生のときの嫁さんである。
そしてその相手が私だ。

私は女性に対して厳しい目を持っていた。
食事や洗濯などはもちろん、ボタン付けやアイロンがけなどの家事全般はできて当たり前、さらには小さい子どもの面倒見がよく、動物や植物などにも愛情を注ぐことができる。
やさしさと愛情にあふれ、そして悲しみを知っていること、それが私が「女性」だと認める最低限の条件。
この条件を嫁さんが満たしていなければ、たとえ「一生に一人だけの人」と言われても、好きなったりはしなかった。

互いにその厳しい条件をクリアしたもの同士であり、それがこの多感な時期に出会ったのは、我ながらすごい巡り会わせだと思う。
その15歳の秋から一緒に時を過ごしてすでに26年になる。

今までに何度も喧嘩をしたが、それでも別れようと思ったことなどなく、喧嘩のたびに、今度はもっと仲良くできるはず、と思った。

特別な記念日でもない今日は、いつものとおり、仕事に行く私を表に出て通りの角を曲がるまで手を振って見送ってくれたし、私も家に戻ると台所にいた嫁さんを後ろから抱きしめた。
子どもが寝てからはいつものように、その日の出来事を互いに語り合った。
たくさん笑ったし、同じことに腹を立てて鬱憤を晴らしたりもした。
次女が邪魔さえしなければ、いまだに手をつないで歩くし、時間に邪魔されなければ、意味もなく名前を呼んでみたりもする。

付き合って最初のころは相手のために命が絶えてしまってもいいと思っていた。
でも、お互いに同じことを考えるうちに、自分のために相手の命が失われることは、自分の命を失うことよりも何倍も耐えがたい苦痛だとわかった。
それからは、相手のためにこそ、自分の命を大切にしなければならないと考えるようになった。
相手を思えばこそ、相手を犠牲にしてでも自分を大事にしなければならない、そう考えるようになった。
無論、相手を犠牲にすることは何にも耐えがたい苦痛であるが、その耐え難い苦痛を相手に味わわせるぐらいなら、自分が味わうほうがいい、そう考えているのだ。

愛する人のために命を投げ出すのは簡単なのだ。
その命と引き換えに救われた自分の命を大切に、強く生きることのほうがはるかにつらいのだ。

どちらから言い出したわけでもないのに、いつの間にか二人とも同じ考えを持つようになった。
いつの間にそうなったのかわからないのは、それほどまでに二人でよく話をしているからだと思う。

26年前と何も変わらないような気がする。
50年後も何も変わらないような気がする。

日記に書くことが特になかったので、少しのろけてみた。

2006年8月11日(金) 墓参りの意味

お盆と言うこともあって仕事は夕方までに切り上げて戻ってきた。
自宅に戻ると嫁さんが今から墓参りに行くという。

そういえば、以前から、今日は墓参りだと言っていたことを思い出した。
日暮れ近くになったころ義母と駅の近くで待ち合わせしていると言って出かけていった。
嫁さんの先祖の墓は車で30分ほどのところにある。
義父の運転する車に乗って行くらしい。

嫁さんは私よりは普通の考えの持ち主であるから、墓参りと言うのは別に苦でもないらしい。
それどころか、そうするべきだと考えているようでもある。
しかし、私は墓参りにしろ法事にしろ、何かしらそこに虚礼を感じるものがあり、どうしても敬遠がちになる。

嫁さんの家系は毎年、お盆や命日になると、普通の家庭がそうであるように、それ相応の儀式を執り行うが、私の家系は、私がそういうのを極端に嫌っていることを知っているためか、ほとんど連絡がない。
そのためか、私は友達の命日を覚えてはいるが、祖父や義父の命日を覚えていない。

人の命が絶えることは悲しいことかもしれないが、承諾できるかどうかでその悲しみの度合いが異なる。

「まさか孫が家を建てるところを見られるとは思っていなかった」と言っていた祖父は十分長生きしたし、癌と言う病魔に阻まれまだまだ若くして逝ってしまった義父も一般には経験できないような太い人生を経験したと思えば、この二人の命が絶えてしまったことを大きな悲しみとは思わない。
むしろ当たり前のように受け入れることができる。
そういう人の命日は覚えていない。
日曜参観の日をカレンダーに丸をつけて覚えている程度の記憶でしかない。

私は冷たい人間なのだろうか。

私は、命日に故人を思い出すとか、お盆に墓参りに行くとか、それこそ、冷たいことだと思う。
その一年間、故人を偲ぶこともなかったのに、一年に一度の墓参りでその不義理をチャラにしようとしているように思えてならないのだ。
毎日のように思い出していれば、その日その時だけ取り立てて何かをする必要はない。

まあ、そういう私だって、友人の家を訪ねるのは年に一度だけだ。
いつまでたっても変わらない笑顔を見ながら、楽しい酒を飲みに行くときだ。

2006年8月12日(土) 子どもだまし

「お父さんって、賢いん?」
と長女が質問をしてきた。
まあ確かに、家でふざけた格好をしたりしている私を見ていれば、本当に「賢い」のかどうか疑いたくなるのもわかるが。

娘よ、安心してもらいたい。
お父さんは、「めちゃくちゃ賢い」ぞ。

学校の勉強はたいしたことはなかったが、それでも高校生のお兄ちゃんに勉強を教えられるし、お前の中学校のクラブ参観でお父さんの実力に感心していただろ。
クイズ番組を見ていても、お父さんの正解率の高さとその解答の早さにびっくりしているのはいつものことだ。
他にもいろいろなことを知っているし、お前たちの質問に答えられなかったこともなかったろ。

コーカサスカブトやSR-71だって知ってるし、夏の大三角もエクスカリ「パ」ーも知っている。
「費府」がどこで、鍵盤の「ド」がどこにあるかも知っているし、台風の渦巻きがなぜ左巻きなのか、左利きがなぜ「サウスポー」と呼ばれるのかも説明できる。

しかも賢いだけではない。
器用でもあるのだ。

最近はほとんど弾かなくなったがピアノはもちろん、学生のころはギターだって弾いていた。
自転車のパンク修理もできるし、同軸ケーブルをつなぎ合わせることもできる。
たこ焼きも上手に焼けるし、シューティングゲームだって上手い。

スポーツだって、一見するとできなさそうに見えるかもしれないが、そこそこできるのだ。
サッカーのヒールリフトはお手本を見せてやったし、高校生の時には「逆転サヨナラ満塁ホームラン」を打ったこともあるし、バスケットボール部のやつと並んで最多得点を獲得した。
足が速いのは今だってそうだ。

まあ、それぞれの専門家に比べれば、まさに子どもだましだが、お前たち相手なら子どもだましで十分なのだ。
ずーっとだまし続けられるように、これからも頑張るぞ。

2006年8月13日(日) 名簿作成もほぼ完了

嫁さんがこの暑い中、連日のように、人伝だけを頼りに一軒一軒訪ねまわって集めた一年生の名簿もそろそろ最終段階に入った。
結局、自分のクラスだけでなく、隣のクラスの分も含めて9割以上の人の賛同を得ることができた。
まさに汗と努力の結晶だ。

名簿にはメリットも多いがデメリットもある。
だからこそ、学校は名簿の作成と配布を中止したわけだ。
名簿を作成して何か問題があったとき、先生も困るだろう。
まあ、先生は所詮、仕事で子育てをしているので仕方ないだろうが、こっちは命をかけて子育てしてるわけで、名簿配布のリスクで、多少なりとも子どもの安全が確保できるのであれば、安いものである。
しかし、学校の先生が「名簿作成には参加しないようにしましょう」などと反対している中、これだけ多くの人が賛同してくれたと言うことの意味を、学校には考えてもらいたいものだ。

それにしてもよくまあ、頑張ったものだと思う。
60人ほどの一年生の保護者の9割が名簿をほしいと思っていたにもかかわらず、誰一人として具体的行動を起こさなかった中、うちの嫁さんが動いたのだ。
名簿が廃止されたのは今年からではなく少なくとも3〜4年はなかったはずで、延べ人数で言えば、200人以上の保護者の中で誰もやらなかったことをやったのだから、本当にたいしたものだと思う。
無論、嫁さん一人の力ではないが、嫁さんが行動しなければ、これから数年、やはり名簿はないままだったと思う。

私はPTA会長という立場があるので、名簿作りの手伝いはできない。
PTAとしては名簿作りに無関係でなければならないのだ。
だから、一年生の学級委員の連絡先は知っていたが、嫁さんには教えなかった。
私が市民まつりの警備のためのスタッフ用Tシャツを配布しようとして探し回っている警備担当者の家と、嫁さんが名簿作成に賛同してもらおうと探し回っている保護者の家が同じだった、というようなこともあった。

名簿を作成したのは嫁さんだが、名簿を管理することはない。
今後の管理は各個人に任されることになり、嫁さんもそのメンバーのひとりとなる。
この意志をメンバー全員に伝えられたとき、嫁さんの役目は終わるのだ。
嫁さんはリーダーや代表になってはいけない。
嫁さんが特別な保護者であってはいけない。
あくまで、普通の、一保護者として活動したということを、すべての保護者にわかってもらいたい。

こういう活動が特別なことではなく、ごく一般的なものであり、次の活動ではあなたが一番に動くべきなのだから。

2006年8月14日(月) 花火の師匠

毎年恒例の校区子ども会で行う花火大会の花火を買いに、校区長の運転する車に乗り、ほかの役員と三人で出かけた。
場所は大阪の有名な問屋街、松屋町筋。
普段は道の両脇に人形屋が並ぶこの「筋」(大阪市内では南北に走る通りを「筋」、東西を「通り」という)も夏場は「花火」の看板が軒を連ねる。

私が何年も贔屓(ひいき)にしている店もここにあり、この時期はここに来るだけでなんだかワクワクする。
車に乗っているときから、いや、家を出る前から、何をどれだけ買おうか考えていた。

 何ははくとも「夏まつり」。これは絶対はずせないな。うん。
 最近人気のある「飛び魚」。これは赤と緑と青、全部必要だ。
 噴出し系ならなんたって「ぶんぶん蜂」だ。
 それから「天火山」も高さがすごいらしい。
 「銀アトム」の50連発は最高だけど、子どもには見せられないしなあ。
 お金に余裕があるならスターマインの連発型にするか。

「夏まつり」は打ち上げ花火で、天下をすると内筒が25メートルほどに打ちあがる。
あまり高さをいってもぴんとこないかもしれないが、打ち上げ花火の中ではかなり高くまで打ちあがるほうで、初めてやったときは、開花までに時間がかかるため不発かと思ったほどだ。
こいつはコストパフォーマンスも最高で3発ぐらい同時にやるとギャラリーから思わず歓声が上がるほどだ。
打ち上げ前に上の紙を破いて中に爆竹を入れておくと、空中で開花とともに、爆竹が炸裂する。
上空なので、ものすごくでかい音になる。
なので、子どものいる前ではやってはいけない。

「飛び魚」は赤青緑のそれぞれのタイプがあり、まさしく稲妻のような光を出す。
打ち上げ時の音もすさまじく、連続して点火していると結構きつい。
しかし、これも3色同時に打ち上げると、ことのほか美しいため、我慢してがんばる。

「ぶんぶん蜂」は地上におく、「噴出し(ドラゴンが有名)花火」であるが、噴出した火が蜂のように八方に飛び回る。
単純な吹き出しとは違い、その火の舞が美しい。
ただし、火花の飛び方がランダムであるため、連続点火はヤケド覚悟だ。

「天火山」は単純な吹き出しである。
単純といってもその噴出しの高さは3メートルに及ぶ。
ドラゴンの大きいものでも2メートル強なので3メートルがいかに高いか。
これも数個並べていっせいに点火すると、見ごたえ抜群だ。

「銀アトム」は「ピーッ!」となる笛ロケットのひとつで、銀色の噴射がとても美しい。
それを50発いっせいに打ち上げる。
これにはスターマイン系の打ち上げ花火の燃えカスが必要になる。
スターマイン系のものは中央に大きな穴と、その周りにいくつかの小さな穴があり、それぞれにいろんな火薬が仕込んであって、それを連続点火することによってスターマイン独特の美しさを出している。
その燃えカスの小さな穴には5〜10本ずつ「銀アトム」を立て、中央の穴には「ドラゴン」をセットする。
そしてこのドラゴンに点火すれば、その噴射によって、周りに立っているすべてのロケット花火に火がつき、いっせいに打ちあがる。
その激しさは、まるで禁断のパンドラの箱を開けたかのようだ。
ロケット花火の乱舞する姿は狂気と災いがこの世に飛び出していった様を連想させる。
これはとても危険なので子どもに見せられない。
でも、子どものうちにやらないと、大人になって常識をわきまえると抵抗があってちょっとできない。

などといろいろ連想しながら、店についた。
残念ながら私が贔屓にしている店とは違うが、校区子ども会では毎年、ここで買い物をしているらしい。
どうやって買い物をするのかと見ていたら、予算だけを告げて後はお任せだった。
びっくりである。
それでもまあ、ここの店主のセンスを見てみるのもいいだろうと思った。

あきんど風の店主がニコニコ顔で手をこすり合わせながら「はい。承知しました。打ち上げでよろしいですか?」と聞く。
「ええ。」と校区長が返事した。
二度びっくりである。

花火屋なら「これはおすすめ」とか言って「ぶんぶん蜂」を推奨するだろ。
私はとっさに「ぶんぶん蜂も入れてください」と言った。
「天火山」は店においてなかった。

店主がどんどん選んでいく花火の中に「飛び魚」があった。
「よしよし」と内心思ったが、「夏まつり」を入れていない。
おまえ、それでも花火屋か!
と怒鳴りたくなったが、ぐっとこらえて「夏まつりを2ケースください」と言った。

もう、だんだんと気力もなくなったので、今年はこれ以上言わずに我慢することにした。
来年から私の贔屓の店に代えてもらう。

私の贔屓の店は展示してある花火の値札のところに、「これは×。高いだけ」とか、「この20連発より、10連発二つのほうがお得」などと書いてあるのだ。
ここの店主は個性的なキャラクターの女性だが、すべての花火を自分で試し、それに対して「色」「形」「高さ」などの評価をして、その得点表を掲示しているのだ。
だからこちらがなんとなくこれがよさそうだと思って買い物カゴに入れてレジに持っていくと、「これ、(値段が)高いだけで面白ないからこっちにしとき」ともっと安いお勧め商品を出してくれる。
実際、翌年にはその高いだけで面白くない花火は店頭から消えているし、おすすめ商品はみんなに評判がいい。

「おばちゃん!この前の、夏まつり、めっちゃよかったわ」
「せやろー。あれな、爆竹入れるとめっちゃすごいでー。ビューとあがって、ぱーっとなるときにバチバチバチーッやでー」
実は前述の花火のテクニックもここの店主に教わったものだ。

うーん。
日記を書いていると、花火がしたくなってきた。

2006年8月15日(火) ご質問と回答

仕事柄メールを使うことは多い。
単純に件数で言えば、携帯電話で四六時中メールをやり取りしている若い女性には遠く及ばないが、私がメールを送る相手は友達ではなく、お客様だ。
第一、携帯電話などで入力していては仕事が捗らない。

無論、私が送るだけではなく、相手側からも送ってくる。
私が送った分だけ返事があり、相手から送ってきた分だけ返事を書く。
くどくならず、おろそかにせず。
適切なやり取りをするのがビジネスメールのマナーだ。

メールを送るときは推敲するのが当たり前だ。
とはいっても、私だって、タイプミスを見逃してしまうことはあるし、小学生並みの文法誤りに恥ずかしくなることだってある。
しかし、それらは単純な誤りであって、その箇所を見落としさえしなければ、訂正ができる。

でも、送られてくるメールの中には、推敲しても直らないだろうなと思われる文章や表現が多い。

あるユーザから技術的な問題に関する質問のメールが送られてきた。
その文末に気になる文章があった。

  ご質問に対する回答お待ちしております。

本人はとても丁寧に言っているつもりで、別に気にしなければ気にならないのだろうが、私は気になって仕方がない。
「ご質問」と「回答」である。

一般に名詞の前につける「ご」や「お」は、「尊敬」を表し、普通の「それ」よりも一段上にある「それ」を示す。
例えばテレビ番組で使われる「ご意見ご感想お待ちしております」などがわかりやすいだろう。
単純に言えば「意見と感想」なのだが、「ご」をつけることによって、普通の「意見」や「感想」よりも、「尊いもの」になる。
大切な視聴者からいただく、大切で尊い「意見」や「感想」なのだから「ご」ぐらいつけないとバチがあたる。

で、先ほどの「ご質問」と「回答」である。

質問を受けた私が「ご質問に対して、回答申し上げます」と言うのなら正しい。
しかし、自分の「質問」に「ご」をつけて、相手からもらうものに「ご」をつけないのはいただけない。
まるで「私の質問はとても崇高なものである。よって『ご』をつけて呼ぶにふさわしい。これに対して、何か回答があるのなら、聞いてやってもよい。」と言われているように聞こえる。

しかも、この質問の内容が、かなり挑戦的だった。

「○○(私)さんの言うとおり、『××説明書』を読みましたが、知りたい情報が記載されておりません。我々もたいていのことはやってきておりますが、本当にそれが出来るのでしょうか? でしたら、そのやり方を教えてください。私の想像では、不可能なのではないかと思います。ご質問に対する回答お待ちしております。」

自分ではわからないから、私に「ご質問」しているのに、自分で勝手に「想像ではできない」と答えを出している。

おまけに「開封確認通知」つきである。
メールを受け取った人がメールを開封したら、即座に「開封した」ことを示す返事が送られる仕組みだ。
早く回答しろ、と言わんばかりである。

空っぽの頭に鉄槌を食らわしてやりたいところだったが、あいにく私の手元にその「××説明書」があるわけではなく、強くいえなかった。
「確かに書いてあるはずなのだが」と思って「××説明書」を探していたところ、しばらくして同じ相手からメールが来た。

「『××説明書』をよく呼んだら、やり方のっておりました。申し訳御座いません。もう少し調べてみて、何かありましたらまた連絡させていただきます。」

「呼んだら」ってお前は本を「呼ぶ」のか。
なるほど「読んでも」見当たらないはずだな。
すごいなお前は。さすが「ご質問」するだけのことはあるな。
今度は私も「想像では不可能」と思ったときは本を「呼んで」みるか。
なに?
「何かありましたら、また連絡」
ふーん。
今回の件で優先順位は一番下だけどいいかな。

まあ、こんなやつでも客なので、見事な文章で回答を書く毎日である。

2006年8月16日(水) 対イエメン

仕事を切り上げ、急いで帰宅した。
そのまま自転車に乗って、自治会長の家に行く。
校区子ども会の花火大会のお知らせポスターを、自治会の掲示板に掲示させてもらう許可を得るためだ。

盆休みで半分シャッターの下りた店(自治会長は酒屋さんだ)のドアを開け、挨拶をすると、店の奥からラフな格好をした会長が出てきた。
要件を告げると二つ返事で了解を得た。

ついでにビールを4本買う。
今日は代表戦があるのだ。
そのために早く帰ってきた。

袋に入れたビールを、自転車の前かごに入れず、できるだけ揺らさないように片手で持って運転する。
自宅に到着して自転車を止めると、反動をつけて片手でスタンドを立てる。
「よしっ!」一発で決まったので小さくガッツポーズをして家の中に駆け込んだ。

トントントンと階段を上がってまずは台所へ行き、買ってきたビールを、冷蔵庫の中へ、何とか隙間を探して詰め込む。
Tシャツに汗がにじんできてワイシャツも湿っている。

居間へ行き、新聞を広げて試合を放送するチャンネルを確認する。
長男が「上で見て」という。
3階の寝室でテレビを見ろ、ということだ。
無論、承諾できるわけもなく、「なにっ!?」と長男をにらみつけると、さすがに長男、すべてを悟って「お。そうか。今日は代表戦か」とすぐさまチャンネルを変えてくれる。

解説者とアナウンサーが映し出されて、試合の展望などを語っている。
様子から見てキックオフまでにはまだ時間がある。
いや、正確には選手入場までにまだ時間がある。

ズボンをハンガーにかけ、そのまま階段を下りていく。
脱衣所で、全部脱いでシャワーを浴びる。
汗っかきな私は、夏場、朝と晩にシャワーを浴びる。

頭も洗ってすっきりしたところで、パンツだけ穿いて階段を上がる。
そのまま冷蔵庫からビールを取り出し、テレビの前で待機する。
キックオフと同時に飲むのがルールだ。
だが、まだ、選手たちは控え室を出たところだ。
これから入場行進、国歌斉唱、記念撮影、フォーミングアップそしてキックオフと続く。
キックオフまでにまだ10分以上あり、待っていられないと判断した私は、少々フライングではあるが、キックオフのときに2本目を飲んでもいいことにする、などと勝手なルールを決めて、早速缶を開けた。
そして節操なく、ビールをガバガバと流し込む。

入場行進ではエールを送り、胸に手を当て国歌を斉唱する。
家の前を通る人でもその声は聞こえているだろう。
そしてキックオフの時にはしっかり2本目を飲み始めた。

試合開始から10分。
何か忘れている。
「うわあっ。忘れてた!」と私の声に嫁さんも子どももびっくりする。
「これやこれ」といってタンスの中から引っ張り出したのは、代表のメインスポンサーであるビール会社の懸賞に応募して当てた、サムライブルーのTシャツ。
これを着ないと始まらない。

そして、待ちに待った瞬間がやってくる。
ゴールが決まると、長男と一緒に「うおーーーっ!」と雄たけびを上げる。
雄たけびなので、あげるのは男だけなのだ。

こうしてあっという間の2時間が過ぎ、ヘロヘロになった私は、夕食のことも忘れて眠ってしまった。

2006年8月17日(木) サマースクール

自宅近くに大学があり、毎年近隣の小学生を対象にサマースクールが開催される。
子ども会の会長である私のところへ、学校の事務局から案内状が送られてきた。
毎年開催とは言うものの、そういうものがあるとは今まで知らなかった。

早速、子ども会全体に通知しなければならないが、盆踊りやら市民まつりやらでてんてこ舞いだった私は案内を作成する時間も取れなかったので、嫁さんの行動力に頼って口頭で班長さんたちに伝えてもらった。

まあ、サマースクールの開催時期はお盆であり、サマースクールに参加するとなれば、毎日弁当を持たせて送り迎えしなければならず、夏休みの真っ只中に、積極的に参加させようと考えるのは我が家ぐらいだ。

月曜日から参加している次女は、ホットケーキを焼いたり、ゲームをしたりと毎日楽しそうである。
今日は、学生たちと一緒に野外活動センターに出かけており、宿泊してくる。

「うーわ。無茶するなあ。宿泊ってか。○○(次女)と一緒に寝泊りするの? 信じられへんなあ。学生がかわいそうやわ。あっはっはっは」とは、次女をよく知るご近所さんが、悪態をつく。

「マイペース」と言う言葉は、どちらかと言うと、全体の流れよりもゆっくりと事を運ぶ人に対して使われることが多いが、次女の場合は、本当の意味でのマイペースだ。
一定のリズムならまだしも、時には早く、時には遅く、ひとつ飛ばして前へ行ったかと思うと、いつの間にか3歩ほど逆戻りしている。
かといって、長男が小学校一年生だったころの「傍若無人」とはどこか違う。
長男はことあるごとに叱られていたが、次女は好き勝手をやっているにもかかわらず、叱られることはない。
長女の「要領のよさ」を受け継いでいるのだろう。

きっとホットケーキを焼いているときも自分は他人の世話を焼き、生意気なことを言って学生たちを困らせていたに違いない。
ゲームをしているときも、都合のいいルールを付け足して、言葉巧みに相手を丸め込んでいただろう。

その「うるさい」次女がいない今夜は、とても静かだ。
ちょっと寂しい気もするが、たまにはいいだろう。
でも、明日帰ってきたら、また機関銃のように話をするに違いない。

2006年8月18日(金) 処理速度低下の原因

仕事が多すぎると、ひとつの仕事を片付けるスピードが遅くなる。
もちろん人によって異なるとは思うが、私の場合、ある一定の量を超えると体の中に異変が起こり、処理能力が低下する。

例えば1件の仕事を片付けるの1時間かかるとする。
朝、仕事を開始するときに、2件の仕事がメールで依頼されてい場合、おそらく2時間後にこの仕事がなくなる。
予定通り、何も仕事が来なければ2時間後帰宅の準備をし、家につくなりビールを飲むことができる。
まだ日も高いうちからビールが飲めるのは、時間に縛られる仕事ではないことの特権だ。

しかし、大抵の場合、その2時間のうちに次の仕事がやってくる。
そして、ほとんど毎日、次の日にやるべき1件の仕事を残し、夜に帰宅することになる。
まあ、これぐらいなら、1件当たり1時間以下で作業を終えられる。
むしろ、朝に3件の仕事があったなら、何とか早い時間に帰って子どもと話をしようと、1件あたりははもっと短い時間で終えることもある。

ところが、朝から10件の仕事があったとする。
もう、この時点で10時間は仕事をしないといけない。
当然、その間にも数件の仕事が舞い込んでくる。
朝、仕事を開始して、いきなり、「今日は午前様になる」ということを宣告されているようなものだ。

こうなるともう、頭と言うか、体と言うか、指先もそうだが、足だって、仕事を拒否し始める。
パソコンに向かって考えをまとめて指先でそれを作成していくことをそれぞれの部位が拒否し始めるのだ。
これが私の中に生じる異変だ。

今の仕事を頭が必死にまとめていても、指先がその入力をやめ、体がコーヒーを飲みたがると、足が勝手に自販機に向かって歩き出す。
コーヒーを飲んで休憩をすると、指は勝手に、今の仕事を中断し、別の仕事を始める。
頭は、さっきの仕事が片付かないでそのまま残っていることを気にしているが、指先が開いた新しい仕事を進めるので、一向に考えをまとめることができず、結局、元の仕事に無理やり戻ることにする。
無理やり戻された指先はストレスがたまっているので、入力速度も遅く、パンチミスも多い。
そうこうしていると、やっぱり体がコーヒーを飲みに行きたがるし、足もじっとしていない。
それでも仕事が気になる頭は、足を無理やり押さえ込む。
ほっとしたのもつかの間、今度はどこからか「この件について至急会議をしたい」などと、とんでもない依頼が来る。
喜んでいるのは足と指先と体だけで、頭はもう、どうしていいかわからなくなっている。

左後頭部の下のほうには、明日の会議の資料作成のことが残り、右の側頭葉ではデータベースの設計資料作成が出口を見つけられずにぐるぐる回っているし、前頭部は今から始まる会議室で必要な資料をフォルダの中から探すのに一所懸命だ。

こんな状態では仕事が進まない。
結局、会議の間中、頭は指先と体と足をなだめて、会議完了後に一致団結して作業を進めるよう話をしていた。

あ。肝心の会議では全く話を聞いていなかった。
耳の野郎が、頭と指先の会話を盗み聞きするのに一所懸命になっていたからだ。

2006年8月19日(土) 花火大会

今日は、校区子ども会の「花火大会と宿泊学習」の一日目。
信じられないぐらいに忙しい一日だった。
そのため、この日記は月曜日に書いている。

朝10時にいつもの場所に集合する。
校区子ども会の世話役の男性ばかり8人ほど。
今日は長男もいる。

テント(運動会の本部席にある、白い屋根のあれ)3張り、カキ氷機、フランクフルトや焼きそばを焼くための大きな鉄板とコンロ2基、バーベキュー用のコンロ8基、その他にもアンプやらを小型トラックに詰め込み、学校へ向かう。
早速テントを設営する。
手馴れたもので、3張りのテントはあっという間に出来上がった。

今度は学校のPTA会議室から、長机といすを運び出す。
普段は会議のときに使用している長机だが、調理をしたり、鉄板を乗せたり、何かと使われることが多く、むしろこちらが本来の目的なんじゃないかと思うほど、使い込まれた机もいくつかある。
校舎の2階と3階から備品を運び出すのは結構な労力だ。

設営関係で午前中は終わり、午後からはお母さん方や6年生立ちも参加して、食事の用意や花火の準備に取り掛かる。
花火の設営については長男にノウハウを教えてあった。
そこで、「お前が中心になって小学生とお母さん方に指示しなさい。もし、校区長が何かを言っても、自分が正しいと思ったことは『これこれだからこうしたほうがいいんじゃないですか?』とはっきり言いなさい。校区長ははっきりものを言う人にはきっちりと仕事を任せてくれるから」と、長男に言い聞かせ、指揮を任せることにした。

私は他の役員と一緒に食材の買出しに奔走した。
食材によって店が異なるため、学校と近隣のいくつもの店を何度も往復した。
それでもあれがない、これがない、と言われて自転車に乗って近くのスーパーやコンビにも飛んでいった。

合間を縫って花火の状況を確認したが、問題なさそうだった。
手持ちの花火は一切なく、打ち上げと噴出しだけだ。
それらの花火は細長い板に並べられる。
花火はすべて指示したとおりに並べられていた。

花火は種類によってその固定方法が異なるが、テープでの止め方も指示したとおりだった。
ほとんどの花火の導火線は購入時にはテープで本体に貼り付けてあるが、丁寧にテープが剥がされていた。
もちろん、火がつけやすいように導火線の向きはすべて統一されていた。
連続して火をつけられるように、花火は20センチ間隔できれいに並べられていた。
そして、長男でなければできないことのひとつ、「打ち上げ」と「噴出し」は区別されて、それぞれ別の板に並べられていた。
打ち上げ花火は安全性と見易さを配慮して、観客からは30メートル以上離れているが、噴出し花火は10メートルぐらいの至近距離で見るほうが迫力があるからだ。

食材準備のお母さん方もしっかりと仕事をしてくれていた。
お母さん方は準備ができているとどんどん仕事を片付けてくれるが、こちらの準備が悪いと、誰よりも大きな声で問題を指摘する。
例えば、「キャベツの千切り」なんていうものは、びっくりするほどあっという間にこなしてくれるが、肝心のキャベツがなかったりすると、「なんでまだキャベツがないの!」と、手厳しい意見を言われる。
実は、ほとんどの作業項目が校区長の頭の中にあり、それが当日にならないと、口をついて出てこないのだ。
私が前から、「それではいけない。事前にきっちり話をしましょう」といっているのだが、なかなか改善されない。
今まで何とかやってこられたのは、現場のお母さん方が、その段取りの悪さに憤慨しながらも、子どものため、と思って協力してくれたおかげだ。

まあ、そんな揉め事を繰り返しながらも、子どもたちが集まるころには準備も整った。

肉を焼き始めると、手に皿と箸を持った子どもたちが、自分たちのバーベキューコンロの周りに群がる。
小さい子どもたちには段ボール箱を裏返して即席のテーブルを作ってやると、その上に紙の皿を並べて、きちんと座って、焼肉ができるのを待っている。
なんともほほえましい光景だ。
そして出来上がった焼肉をおいしそうに食べる子どもを見る瞬間は苦労が報われるときだ。

日も暮れて、マジックショーが始まるころ、近隣の住民もぞろぞろと集まり始めた。
模擬店で買い物をする人、マジックショーに夢中になる人。
その合間を利用して、暗闇の校庭に花火を並べる。
数百発の花火はなかなかの圧巻だ。

8人の火をつける係りがいて、それぞれの配置を私が指示する。
長男も位置につく。
あとは合図を待つだけだ。

「それではただいまより花火大会を開催します」と校区長がマイクで話をする。
それを言い終わると私は、合図の爆竹を鳴らした。
けたたましい音が鳴り終わると、一斉に花火は点火された。
8人の担当者が、次々に火をつけていく。
それぞれが一度に2本、3本と火をつけるので、常に10発以上の花火が空に花を咲かせている。

火の粉なんて気にしていない。
ヤケドはもちろん、Tシャツにも穴が開く。
耳をつんざく破裂音の連続で、耳だっていたい。
何より、次から次へと火をつけるので、打ちあがった花火を見ている暇なんて1秒もない。
毎年のことだが、花火大会で私が見ているのは、導火線と打ちあがる瞬間の筒だけだ。
それでも、爆音の合間を縫って「うわーー。きれい!!」とあっちこっちで歓声が上がるのを聞いて、その日、一番の喜びを感じることができた。

数百発の花火を15分ほどで終えた。
最後に爆竹を鳴らして終了の合図をすると、拍手が沸きあがった。
長男も満足そうな顔をしていた。

そして、無事、花火大会を終えると、一般の観客が帰り始め、宿泊する子どもたちを対象にキャンプファイヤーが始まる。

それは私の長い夜の始まりだった。
(日記なのに続く)

2006年8月20日(日) きもだめしと長い夜

土曜日の夜のキャンプファイヤーでは大人ばかりが盛り上がり、子どもたちは少々覚めていたが、それは何も時刻が遅いのが原因ではないように思った。
子どもは気分屋であり盛り上がるときは大いに盛り上がるが、そうでないときは恐ろしいほどに冷め切っている。
うちの次女は要領がよくて傍若無人だが、楽しむ術を知っているので、そんな雰囲気の中でも楽しんでいたようだし、長男も次女も大人に混じって楽しんでいたことが、まだ救いであった。

そして私がきれる事態が起きた。

最初に参加者を募集したチラシのスケジュールには「キャンプファイヤー」に続いて「きもだめし」と書いてある。
これまた「きもだめし」の言いだしっぺは、校区長である。
私も賛同した。

校区長は「よし。役員みんな集めていろいろ作ろう。『お墓』とか、『人形』とか。BGMも仕掛けて。そうそう、窓から外の明かりが差し込まぬように暗幕を張って」とすごい意気込みであった。
私はその意気込みが命取りになることを、校区長の過去の振る舞いから学習している。
「そんなに凝らなくていいんですよ。子どもたちにとっては夜の学校と言うだけで十分怖いんですから」
「うん。そうやねんけど・・。『お墓』は作ろう。人形もどこか・・」
「だからそんなものはいりませんって。そんなこというて誰がそれ作るんですか」
「・・・僕が作る!」
校区長はまた言ってしまった。
人に頼めないとなると「僕が探す」「僕がやる」「僕が用意する」だ。
半分はできないことだ。
「『お墓』も何もいりません。歩くだけで十分です。だから子どもたちの安全確保のため、下見だけはしておきましょう」
と言うと、「そ、そう?じゃあ、下見だけしよか・・」としぶしぶ承諾したようだった。
そして、花火大会直前の会議で、校区長がびっくりするようなことを言った。
「きもだめしは中止にします」
「な、何でですか?」
「だって『お墓』とか準備する時間がないし・・」
「校区長!なにいうてるんですか!『きもだめし』はやりますよ!子どもが楽しみにしているんですから」と私が言うと、他の地区の女性の会長も同じように「そうですよ!この前、やるって決めたじゃないですか!」と唱えた。
「でもなんの準備も・・」と馬鹿な校区長は返事する。
「だ・か・ら!! 準備はしなくていいといってるのがわからないんですか!」
結局、きもだめしをすることになった。

校区長は、下見をするといっていたのでいつ下見をするのかメールで相談したが、いつまでたっても返事がなかったので、キャンプファイヤーの合間を縫って、長女と一緒に夜間の学校を下見して回り、安全性を確認して順路を決定した。
それを終えて戻ってきたころ、キャンプファイヤーも終盤だった。
輪に加わると、小さな女の子が私に尋ねる。
「なあなあ。今日、きもだめし、せーへんの?」
「え?するで。」
「だって、さっきせーへんて言われた」
何かの勘違いだろうと思っていた。
でも、しばらくして高学年の男の子が私に、同じことを言った。
「きもだめしせーへんって言うてたで」
「大丈夫。するから」
きもだめしをするとわかると、子どもたちは安心した。

そしてキャンプファイヤーが終わり、子どもたちはいったん部屋へ引き上げた。
その後の校区長の発言に、ひっくり返りそうになった。
「きもだめしは中止にします」
「はあ?」
「だって準備ができないし・・・。それにやりたくないって子どもも・・」
普段は温厚の私だが、周囲の誰もがびっくりするぐらいに声を荒げた。

「そんなもん、準備なんかいらんゆーてるやろ!
 何回言わすんや!
 全員参加でなくても、やりたい子どもがやったらええねん!
 これを楽しみにしてる子どもにウソつく気か!」

そういい残して、子どもたちの待つ部屋に戻った。
部屋に戻ると、校区長が後からついてきた。
もう、校区長なんか私の視野にない。
私には賛同してくれる嫁さんやお母さん方がいる。
なにより、待っている子どもがいる。

手をたたいて子どもたちを静かにさせた。
「はーい。じゃあ、今からきもだめしをします。もちろん、参加したくない人はここでお母さん方と待っていてください。」
そういってコースの説明をした。
「では、今から一分後に、スタートしてください。おっちゃんは怖いので逃げます」
そういい残して部屋を出た。

無論、私が向かったのはコースから少し外れたところにある音楽室前の廊下。
コースから外れているので懐中電灯で照らしても私の姿は見えない。
そこにあるピアノが目的だ。
そのピアノに向かって曲を演奏し始めた。
ピアノの鍵盤をただ無秩序にたたくのではなく、少し寂しい曲を演奏する。
得意の曲がぴったりだった。
まさか、こういうときに「ピアノが弾ける」という特技が役立つとは思わなかった。

廊下に響き渡るピアノの音。
時々演奏をやめて子どもたちの話し声と、懐中電灯の明かりを確認する。
声が近づいてきたときに、1フレーズ演奏して静かにする。
「うわ!今、ピアノの音聞こえた!」
「うそ? 聞こえへんかったで」
一番効果的だ。
また少しだけ弾く。
「ほ、ほら!きこえたやん!」
「え?ほんま?」
「きこえたって!!もう!」
そうして一陣が過ぎてゆくと、別の一陣がやってくる。
後から来るメンバーはピアノの音が聞こえることを前のメンバーから聞いているに違いない。
あえて、静かにする。
そして、過ぎ去るのを確認してから、少し大きな音で弾く。
悲鳴と走り去る音が聞こえる。

子どもの悲鳴を聞くのが楽しいと思うのはきっとこのときしかない。

長男が、「全員終わったよ」と知らせに来てくれるまで、私は真っ暗なところで、月明かりを頼りに曲を演奏していた。
そのまま部屋に戻ってしまうと、ピアノ演奏をしていたのが私だとばれるので、いったん外に出た。

校区長が言う。
「終わった?じゃあ、ちょっと今から、役員だけで・・・」
「はあ?まだ起きてる子どもをほったらかしにできるわけないでしょ!」
「じゃ、じゃあ、ごめんやけど、見張りしてくれるかな。適当なところで交代するから」
そういわれて私は部屋に戻った。

夜は長かった。
眠りにつかない子どもを夜の三時まで見張っていた。
交代で見張りをしようと言ったのは校区長なのに、私と交代してくれたのは嫁さんと、隣の地区の子ども会会長だけだった。
校区長は役員だけで何かしていたようだ。

長男も長女も手伝ってくれた。
それどころか、徹夜で、グランドのごみ拾いや、子どもの世話をしてくれていた。
涙が出そうなほどうれしかった。
私の家族がいなければ、私はとっくに家に帰って酒を飲み、「今年限りで校区子ども会は脱退する!」と悪酔いしていたに違いない。
日曜日の昼に解散するまで、長女と長男はずっと世話をしてくれていた。
みんなに感謝の言葉をもらって少し誇らしげだった。

校区長には愛想が尽きたが、わが子の成長を実感できたので、今回の花火大会は大成功だった。

2006年8月21日(月) レベル1

土日の大イベントと徹夜を終えて、日曜日の昼過ぎに帰宅した私はヘロヘロだったのに、長男は友達の家に遊びに行ったし、長女も友達を呼んで遊んでいたし、嫁さんなんぞはフリーマーケットに出かけた。
底なしかお前らは。

と思っていたが、夜の8時ごろにはさすがに疲れたらしく、全員が居間でごろごろしていた。
もう、食事の用意するどころか、「食事の用意をして」と言う言葉さえ出てこない。

たまらず誰かが、「ラ、ラーメンでも注文する?」と言うと、それに便乗したみんなが寝転がって天井を見たまま、「私、雑炊」「おれ、ラーメン」と言い出した。

今、襲われたらひとたまりもないだろう。
守備力も攻撃力もゼロ。
レベル1どころではない。
ゴキブリが飛んできてもかわせる自信がない。
日ごろ、我が家に恨みを持っている連中がいるとしたら、襲うにはまたとないチャンスだったに違いない。

そんな状態でいつの間にかラーメンを平らげ、そしてまた、気がつけば、みな一緒に居間で寝込んでしまった。

そして今朝を迎えた。

長男と長女は自力で部屋に戻ったようだが、精根尽き果てて、落ち武者のようになった嫁さんは次女と一緒に私の傍らで眠っていた。
畳の上にじかに寝たので、体が痛い。
おまけに昨夜から筋肉痛で、歩くのもつらい。
後片付けのために、机やいすを抱えて校舎の階段を何度も往復したからだ。

レベル3ぐらいに回復していたものの、体を起こすことができたのは9時を回ってからだった。
何とか身支度を整えて家を出た。
午前中は何をやるわけでもなく、だらだらと過ごした。

午後になって調子が戻り、仕事をこなした。
仕事を終えたころにはすっかり筋肉痛も治っていた。

徹夜明けのへばり具合に年齢を感じたが、筋肉痛の現れる時間とその回復にまだまだ余裕を感じる。

さあ、来週はPTA会長の研修だ。

2006年8月22日(火) スパム対策

最近、掲示板にやたらとスパムの書き込みが多かったので、ちょっと工夫をしてみた。

「掲示板へ行けなくなってしまった!」と言う人はその工夫のせいだ。
TOPページでF5を押して、画面を更新してもらうと正しいリンクに更新される。
掲示板へいけなくなったのは、URLを変更したからだ。
前のURLはスパム攻撃の対象になっているので、これからも攻撃にあう。
だから、少しだけ変更した。

単にURLを変更しただけなら、またいずれ、スパムの被害にあう。
そこでちょっと工夫。

掲示板をスパム攻撃するといっても、掲示板がどこにあるかわからなければ攻撃のしようがない。
攻撃するにはまずどこに掲示板があるのかを知る必要がある。
掲示板のURLを直接見つけることができればよいが、そうそうURLが転がっているわけではない。
通常、どのサイトでも掲示板はTOPページからリンクが張られているだろう。

TOPページは比較的見つけやすい。
ドメイン名さえわかればすぐに見つけられる。
今度はTOPページから掲示板のリンクを探す。
人間が操作すれば、簡単に掲示板へ移動することができる。
画面を見れば「掲示板」と書いてあり、それをクリックするだけだ。
しかし、スパム攻撃をいちいち人間がやるなんて地味なことはしない。
全部、ソフトウエア任せである。
だから、ソフトウエアが掲示板へのリンクを見つけ出さなければならない。

ソフトウエアも人間と同じようにTOPページを見るのだ。
ソフトウエアが画面を見るといっても、ディスプレイに映し出された文字を読んでいるわけではなく、TOPページを構成しているHTMLソースを読んでいるのだ。

掲示板は普通のHTMLではなく、CGIとして作成されていることが多いため、掲示板のURLの最後は「.cgi」となっていることが多い。
つまり、TOPページのHTMLソースの中から、リンクされているページのURLを見つけ出し、その末尾が「.cgi」で終わっていれば、そのURLが掲示板のURLと予想できる。

そこで今回は、「.cgi」で終わる掲示板のURLの記述に工夫をしてみた。
URLを次のように適当に3分割して並び替えたのだ。(一部省略)

「"intojp.com","掲示板","ttp://kar","/bbs/bbb.cgi"」

といっても、私自身の思いつきでもないし、ましてその仕掛けを作りこめるほどの技術もない。

これでしばらくはスパムの被害にもあわないだろう。
今度攻撃されたならまた別の方法を試してみようと思う。

2006年8月23日(水) 今日勧誘されたわけじゃないけど

宗教に勧誘されることがある。
勧誘する側は半ば義務感を感じてやっていることであって、本来の目的を忘れてしまっているんではないかと思う。
宗教の本来の目的は何だろうか。

そもそも宗教がなぜこれほどに広まっているのか。
宗教とは結局のところ、誰かの「教え」である。
「教祖」と呼ばれるその人の「行い」や「考え」あるいは「話」に心を惹かれた人がその人の言うがままに何かを信じ、「信者」と呼ばれる人々が集まるところから始まる。

教祖と信者は同じ「行い」や「考え」を持っている。
いわば同志である。
しかし、この両者に絶対に埋めることのできない大きな違いがある。

それは「教えるもの」と「教えられるもの」。
「与えるもの」と「与えられるもの」といってもいい。

「教祖」が「私はただの神の使い」と言ったとしても、その人の前に「信者」はまるでご主人に仕える召使のように最大限の敬意を払い、ひざまづく。
信者とは精神的に何らかのよりどころを求める人の集まりだ。
その精神的な主柱が教祖だ。

宗教が広まるのはそれだけ、心のよりどころを必要とする人が多いからだ。
その原因はさまざまだ。
争い、餓え、貧困、略奪、そして永遠の眠り。
それに対して恐怖し、戦く人々の心の支えとなるのが宗教だ。

言い換えれば、心の支えを必要としないものに宗教は必要ない。
今のこの日本では、本当の意味で宗教を必要としている人は少ない。
でも、宗教勧誘は減っているわけではない。

いまや、宗教への勧誘は単に、自分たちの仲間を増やすことが目的であり、精神の救済を目的としているわけではない。
だから、何も必要としていない私のような人間のところにまで勧誘に来るのだ。

私は、私以外に、どこにも、そして誰にも心のよりどころを求めない。
私は教祖になりこそすれ、決して信者にはならないのだ。

2006年8月24日(木) 貯金箱

去年から家で酒を飲むたびに小銭を貯金していた。
いっぱいになったら何を買おうかと楽しみにしていたが、盆踊りのときのフランクフルトの販売で、おつりを用意することをすっかり忘れていたため、急遽、缶を開けて小銭を提供した。
そのときに嫁さんに預けたので、きっと今頃は家計の役に立ってみんなの胃袋の中だ。

昨日、嫁さんが新しい貯金箱を買ってきてくれた。
去年のものより二まわり以上大きい。
よし、いっぱい飲むごとに貯金するぞ。
そしていっぱいになったら、何を買おうか・・。
頑張って貯めれば、旅行の資金ぐらいになりそうだ。

は!
そういうことか。

道理でこれを渡すときの嫁さんがうれしそうな顔をしていたわけだ。

仕方ない。
嫁さんを喜ばすためだ。
もう一杯、飲むか。

2006年8月25日(金) 悲しみと誓いと

小学校の生徒の父親が他界した。

PTA会長なので通夜のご挨拶にうかがった。
仕事の都合でご焼香をしたのはみながすでに引き上げた後だった。

事務的なことだと思っていた。
事務的に済ませば何も感じないと思っていた。

斎場から50メートルほど離れた少し暗い駐車場に真っ赤で派手な愛車を止める。
最もその場にふさわしくないような車だ。

 せめてもの抵抗

いつものように、黒いネクタイもせず、上着も着ていない。
白いワイシャツに黒いズボンだけ。

 事務的に

PTA会長だからと自分に言い聞かせながら車の中でネクタイを締め、上着を着る。
車を降りて面倒くさそうにため息をつきながらドアを閉める。

車を降りて斎場へ向かう。
50メートルを歩く間、ネクタイのゆがみや、上着の襟を気にする。
そちらに気をとられることを望むかのように。

受付の場所を確認し、エレベータに乗る。
線香の香り。

 悲しいにおい

ドアが開くとデパートのマネキンのように喪服姿の人が並ぶ。
願わくばここが、コスプレの同好会かデパートの礼服売り場であればいいのにと願う。
出迎えてくれた喪主は笑顔であったがその目は赤い。

記帳して焼香に向かう。
昨日から嫁さんと話をしていた。

 子どもの姿を見なければ大丈夫

しかし、母親が気を利かせてか、子どもを呼んだ。
内心、「やめてくれ」と思った。
でも、呼ばないでほしいと言うわけにもいかない。
子どもが走ってくるのを黙って見ている。

むしろ、泣いていてくれれば楽だったかもしれない。
でも、母親と同じように屈託のない笑顔である。

子どもの頭をなでて、言葉を出そうとしたが、何も言えなかった。
ただ心の中でつぶやいた。

 こんな子どもを残して、悔しかったでしょう。

そして遺影に向かって合掌し、約束した。

 あなたの子どもが、この小学校はよかった、と言える学校にします。

2006年8月26日(土) 宮崎でタイ

PTAの研修に参加したのだが、その話は置いておいて、今日は生まれて初めてマッサージをしてもらった。
いや、無論、嫁さんにしてもらうときもあるがそれは所詮、素人のマッサージ。
今日はお金を払って「プロ」にマッサージをしてもらった。

その名も「タイ式古式足裏つぼマッサージ」である。
芸能人がテレビで悲鳴を上げるあの足の裏である。
しかも、つぼ、でタイ式。
さらに謎めく「古式」である。

現代医学でも解明できないような東洋医学の神秘のひとつである「つぼ」なのに、何千年の歴史があるのか知らないが、「古式」である。
しかも神秘の塊であるような、「タイ」である。
首都の名前は「クルンテープ・マハーナコーン・ポーウォーン・ラタナコーシン・マヒンタラーユタヤー・マハーディロクポップ・ノッパラッタナ・ラーチャターニー・プリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカティッティヤ・ウィサヌカム・プラシット」である。
途中でパンチミスをしても誰も指摘できないであろう、とても長い名前の首都をもつ国である。

そんな国の古式なのだら、さぞかしすごいのである。
だから15分間で2千円はとても安く、年数で割ると十分安く、日数で割ったならコンピュータの誤差も出てしまうほどに安いのである。
これはもう、マッサージしたおしてもらうしかない。
足が棒になってしまおうとも、したおしてもらうしかない。

かくしてマッサージが始まった。

普通である。
家で子どもに足のうらを踏んでもらうのと変わりない。
椅子のクッションがいいので、うっとりとはするが、それはクッションのせいであって、なにも、絶品のマッサージと言うわけではない。

時間にして15分。
普通のマッサージを受けながら、我が家の達人を思い浮かべる。

気持ちよくて話し相手になってくれて、何より暖かい。

この研修から帰ったら足の裏を踏んでもらおう。

写真は宿泊先のホテル。

2006年8月27日(日) 大人気ないこと

彼の行いを「大人気ない」と批判するならば、「大人」は追い詰められた子どもの心を救えない。
彼にそれができるのは「大人気ない」からだ。

毎年、全国の小中学校のPTA代表者を対象とした研究大会が開催される。
それが今年は宮崎県で開催された。
そして今回の目玉が「夜回り先生」として有名な元高校教諭 水谷 修 氏による記念講演だった。
全国大会には、最初からほとんど学ぶべきものは期待できないと思っていた私が、参加を決めたのは氏の講演があるからに他ならなかった。

そして今日、会場へ向かった。
会場に到着するとあっちこっちから会場スタッフのアナウンスが聞こえてくる。
「4階の中央会場は満席ですので3階の各フロアにご入場くださーい」

 どういうことだ?
 4階の会場で行う講演を3階でも見られる建物の構造になっているのか?

おかしいなと思い案内された3階会場に入ってみた。
前方に「全国PTA×× みやざき大会」と大きな横断幕がある。
そしてその下には味気ないスクリーンがあった。

私は驚き、そして憤慨した。
私は、わざわざ宮崎までテレビを見に来たわけではない。
かの夜回り先生の講演を直接に聴かずして、何の意義がある。
講演を見られるというから来たのに、これでは騙されたようなものだ。

私は一人、ほかのメンバーを残してすぐにその会場を後にし、例え満席で立錐の余地がなかろうとも、同じ空間で直接、氏の話を聞かねばならない、と4階の中央会場へ向かった。
中に入ると、座るところもまだまだあった。
ただ、団体行動が好きな人たちが固まって座席を確保することはできないようだ。

座席に座り、お偉いさん方の退屈な挨拶を聞かされる。
そしていよいよ記念講演が始まろうと言うとき、実行委員長が壇上へ上がってきた。
いやな予感がした。

「私は今から事実だけを報告します」
謝罪ではない。
「本日は、水谷先生の講演をお聞きいただくことができなくなりました」
会場がどよめき、そして何事があったのかと、緊張が走る。
「昨日、突然、『約束が違う』と言われ、講演をキャンセルされました」

実は私が憤慨した3階のモニター会場のことを水谷氏も同様に憤慨されていたのだ。
水谷氏の講演を生で聞くことができると言うのが今回の大会の目玉である。
事実、私はそのために宮崎まで来た。
しかし、当日、会場へ移動してみるといきなりスクリーンの前に案内された。
それを事前に申し渡されていたのであれば、私も多少は納得しよう。
でもこれでは、約束が違う。

水谷氏も全く同じ気持ちだったのだ。
実行委員長の話が終わるや否や、舞台の前から突然人影が壇上へ上がった。
大きな拍手と完成が湧き上がる。
水谷氏が登壇したのだ。

「私の講演をライブでお聞きいただくことができると言うので、こうしてここへやってきました。しかし、実際にはそうでなく、いくつもの会場に別れており、モニターで中継されています。そして事前にそのことを皆さんにお知らせしているわけではない。これでは約束が違う。水谷はウソが嫌いです。私は子どもに対して決してウソをつかない。『な。俺はウソをつかないだろ』そういって今まで子どもとの約束を守ってきました。『はい。わかりました』といってここで講演するのは簡単なことです。でもそれではウソを認めたことになる。それはできません。『水谷、ウソついたじゃねーかよ』と子どもに言われます。それはできません」

大人としての体面よりも子どもとの約束。

「みなさん。申し訳ありません。でも、この体が動く限り、どこへでも飛んで行きます。だから、本日は申し訳ありませんが、これで失礼します」

そういい残して舞台の正面から降壇し、中央の通路を通って外へ出て行った。
私のすぐ横を通る。
大きな拍手で送る。
同じように何人かが、大きな拍手で見送った。

氏の話を聞くことはできなかったが、大切なことを学んだ。
大人だけの社会にいると大人の都合で話を進めることが多い。

大人気ないから、と融通を利かせ、大人気ないから、と相手に合わせる。
大人気ないから、と怒りを抑え、大人気ないから、適当に済ませる。

どれも子どもにはできないこと。
それを忘れて大人になるから、子どもの心が理解できなくなるのだ。

氏に文句を言うやつ。
お前ら、一人でもいいから、ドラッグにおぼれている子どもの命、助けてみろよ。

2006年8月28日(月) まるで観光バス

昨日、宮崎から戻ったばかりなのに、また今日は仕事で東京へ出かけた。

東京大阪間で利用されている旅客機はボーイング社の777が多い。
これは左右に3席、中央に4席、合計10席で一列を形成しており、通路も左右、2列ある。
一方、宮崎と大阪を往復している旅客機は大きなものでもエアバス社のA320と言うタイプで、左右に3席ずつしかなく、通路は中央に1列しかない。
胴の長さも3分の2以下だ。
今回、PTAの全国大会に参加するために宮崎まで搭乗したのはこのA320である。

飛行機に乗り座席を探す。
番号から考えると中央より前のほうだと思っていた。
しかし、この飛行機は思った以上に小さく、最後尾から4、5列目の座席だった。
座席の大きさも少し小さく、窮屈な感じがする。

時間が来て飛行機は滑走路へと進みはじめ、アナウンスが流れる。

「みなさま。おはようございます」

こう言われていつものように元気よく返事しそうになり、あわてて口を押さえた会長も何人かいる。
会長さんたちはみな、日ごろから、大きな声で挨拶をする機会が多く、挨拶の声を聞くと、反射的に返事をしてしまうのだ。

通常ならもうしばらくすると、注意事項や緊急時の対処方法などがモニターで案内されるのだが、そのモニターが見当たらない。
これはもしかして。
そう思った矢先、キャビンアテンダント(普段は私も「スチュワーデス」と呼んでいる)が中央の通路に等間隔にならんだ。

機内に流れるアナウンスにあわせて彼女たちの実演が始まった。

「緊急時の脱出口は前方と後方の左右」
それにあわせて、シンクロナイズドスイミングのように、3人のキャビンアテンダントが手をまっすぐに振って出口を指し示す。

「酸素が必要なときは」のアナウンスで畳んだ酸素マスクを天井にくっつけ
「自動的に降りてまいります」
の声にあわせて、マスクを広げる。

「救命胴衣は座席の下にあります」
で、道具を取り出し、
「頭を通して、ベルトで固定します」
で、頭からかぶり、ベルトで固定する。

そして印象に残るシーン
「救命胴衣のふくらみが足らないときは、パイプから息を吹き込みます」
そういわれて、パイプの端をふー。

隣の座席の人と「これこれ。テレビでやってた」と話も弾む。

一通りの説明が終わると拍手する人までいる。
いつもの羽田行きならそんなことはない。
乗客のほとんどが各地のPTAご一行というせいもあろう。

小さな飛行機だと気圧の影響を受けやすく、降下を始めると同時に私は額に激痛が走る。
鼻をつまんで耳抜きをしてようやく楽になる。
だから、小さな飛行機は嫌いだ。

でも、あの実演は乗客と乗員の距離を縮める。
ローカルな路線ならではのメリットのひとつだろう。

2006年8月29日(火) スペア

今ほしいものはなんだろうかと考えた。

「虐待を受けて育った子どもが大きくなってわが子を虐待してしまうように、親の愛情がなく不幸な家庭で育った子どもは、幸せな家庭を築けない」
と、この前のPTA全国大会でお偉い先生がご登壇あそばされて熱弁をふるっておられた。
何も考えない多くのかぼちゃ頭が頷いていた。

まあ、確かに親の育て方は重要だ。
親に馬鹿な教育を受けると馬鹿になる。
しかし、馬鹿な教育を受けるくらいなら、何も与えてもらわないほうがまだ救いようがある。

どちらかと言えば私は後者だ。

母親を追い出し、暴力・借金・女と三拍子揃った父親、生徒は言うことを聞くものと思い込んでいる利己的な教師、「うちの子が悪くなったらあなたのせい」とわが子のことは棚に上げる友人の親など、馬鹿な大人に囲まれていたが、そのみんなを私のほうから見捨て、「こいつらか学ぶものはない」と見切りをつけたときから私は成長した。

親がいないからと悪いやつになるんだ、などと言わさない。
女(今の嫁さん)と遊んでいるから成績が悪いんだ、などと言わさない。
「だから付き合うのはよしなさいって言ったのよ」、などと言わさない。
そういう気持ちが私を成長させた。

そしてすべては私の思い通りになってきた。
もし、ひとつでもかなわず、失ったものがあったとすれば、それをほしいと思うことはあるだろう。
正義を愛する心、生涯を捧げることのできる伴侶、いつまでも変わらず信頼できる友人。
それらのすべてを私は持っている。
そしてそのおかげで、普通の人がほしいと持っているものを手に入れていった。

今ほしいものはなんだろうか。
確かにお金はいくらあっても困らないだろうし、幸せを大きくしてくれる事もある。
でも、貧窮しているわけでもないから、これ以上望んで代わりに失うものがあるのなら
お金は要らない。
健康だし、幸せだし、家族にも恵まれている。
私の心が変わらなければ、すべてはうまくいく。

今ほしいもの。
いつ失っても取り戻せるように、私の心のスペアだろうか。

2006年8月30日(水) メールマナーのない人

夏休みも残すところ後二日。
にわかにあわただしくなってきた。
世間では子どもが宿題に追われているころだろうが我が家ではそうでもなさそうだ。
子どもたちにとっては口うるさい母親かもしれないが、とにかくその嫁さんのおかげで子どもたちはこの時期に冷や汗をかかなくてすむ。

学校の先生から9月の委員会の案内状草案が送られてきた。
新学期早々、委員に配布するとの事だ。
「30日までにご返信ください」
と書いてあるが、今日がその30日であって、しかも送られてきたのは昼過ぎ。
私が昼から外出だったらどうするんだ、などと文句を言いつつも、添付されている草案に目を通す。

日付が目に入る。
「2005年9月1日」
おいおい。いきなり間違ってるぞ。
去年の草案、丸写しだろ。
次に会長の名前を見る。
「○○ ○子」
あっちゃー。これはいただけない。
内容を見る。
「○○式典について」
って、去年終わったじゃないか。

これはもう、丸写しと言うより、去年の資料だ。
早速返信する。
「添付資料に誤りがあるようです。ご確認ください。
 メールの返信には数時間の猶予をください。
 また、文書の確認については1日以上の余裕を見てください」
ま、こんなことを書いても、3日で忘れる人たちだが。

学校の先生たちがメールを送ってくるときはいつもせわしない。
「いついつまでになになにしてください」という「いついつ」は大抵、数日後であり、「今朝のメールをご覧いただいたでしょうか?」と昼過ぎにメールが届くが、私からのメールには返事すらよこさない。

でも、この前の返事は早かった。

嫁さんが小学校でバレーの練習をしていたときだ。
警備員さん困った顔でみんなのところへやってきた。
「パソコンのわかる人いますか?」
そう聞かれて部員みんなが嫁さんを指差す。
話を聞くと、どうやら先生がパソコンの処理途中で、警備員さんに預けて帰ってしまったらしい。
先生は帰り間際に「今やっている処理が終わると、そのまま電源を切ってください」と言い残したのだそうだが、処理が終わった画面で「保存しますか?」と表示されているので、そのまま電源を切っていいのかどうかわからないと言うのだ。
早速嫁さんがパソコンに向かうと、運動会の動画を編集していたようだ。
問い合わせの画面に「はい」と答えて、デスクトップ上にそれらしい名前でファイルを保存した。

そのことを嫁さんが私に話したので、そのことを私から学校にメールしたのだ。

「大変ご迷惑をおかけしました。確かにデスクトップに保存されておりました。ありがとうございます」
うん。まともなメールが返信されてきた。

って、普段からこれぐらいできて当たり前だと思うのだが。
なあ、先生。

2006年8月31日(木) 来てほしくない

ほとんどの大人にとっては普通の木曜日なのだろうが、小学生たちにとっては最も来てほしくない日、それが今日、8月31日だろう。

私も例外ではなく、子どものときは8月31日の来るのがいやでいやで、涙が出そうなほどに悲しかった。
でも、その時期にあまり宿題に追われたと言う経験はない。
というか、もともと宿題をきっちりやらないほうだったし、親もやかましくは言わなかった。
それに、どちらかと言うと学校が好きではなく、正確には、勉強を「させられる」のが嫌いだったから、明日からまた勉強をさせられるのだと思うと、悲しくなるのであって、宿題がつらいわけではなかった。
やりもしないのだからつらいわけがない。

その代わり夏休み以外の宿題はきっちりやった。
夏休みの宿題はやらないが、「神童」と呼ばれるほどに頭もよかった。
無論、その当時、神童と呼ばれる生徒はクラスに何人もいた。
礼儀も正しかった。
先生に対しては小学校一年生のときから常に敬語で話していた。
職員室はとても神聖な場所で近寄りがたく、職員室への入出時は深々と一礼した。

だから自分で決めていた気もする。
「ぼくはいつもまじめにしてるから、夏休みは宿題をやらなくてもええねん。それにぼくは体が弱いから勉強するよりも遊んでいるほうがええねん。おかあちゃんもそうゆうてるし」。
朝早くから夕方暗くなるまで外で遊んで、田舎に帰ったわけでもなく、海に行ったわけでもないのに、真っ黒に日焼けしていた。

今は昔に比べて、子どもが勉強している時間が長い。
ゆとり教育だとか何とかいっても、結局は塾に通う子どもが増え、全体的な勉強時間は増えている。
反面、先生と生徒の距離も近くなったし、職員室どころか校長室でも気軽に出入りできるところは、変なゆとりの表れなのか。

子どもを育てられない親は昔からいたし、どうしようもない先生だっていなかったわけじゃない。
時代とともに、子どもたちを取り巻く環境が変わり、それに応じて教育の方法も変化する。
今後もまた変化が必要ななるだろうし、それを求められることもある。

ただ、8月31日が子どもたちにとって、最も来てほしくない日であることに変化はなさそうだ。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

info@karintojp.com
Akiary v.0.51