カリント日記

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2007年4月1日(日) 次女の外出

私の母親は近所に住んでいる。
子どもの通学路に当たるところなので、一年生の次女でも、一人で行くことができる。
といっても、そこが私の実家と言うわけではない。
一人暮らしだった母に、私の家の近くへ引っ越してもらっただけだ。

その母の家に、私の妹の娘、つまり姪っ子が遊びに来ているらしい。
小学校3年生だったか4年生だったか、とにかく一人っ子なので、妹が用事をするときなど、しばしば母の元へ預けられる。
そして、春休みのように長期の休暇になると、そのまま数日間、泊まっていくようだ。

その姪っ子が遊びにきていると聞いて、我が家のおしゃまな次女も、「遊びに行く!」と言い出した。
母が二人の孫の面倒を見るのは大変かもしれないが、二人ともしっかりしているので、それほど手を焼くこともない。
きっと、小学校のころの長男を一人預かるほうが、よぽっど大変だろう。
それに、孫が一人だと、遊び相手は必然的に母になり、我が家の次女がちょうどいい遊び相手になるので、かえって母も楽かもしれない。
そう思って、遊びに行かせることにした。

次女に電話をさせた。
「もしもし。・・・。うん。今日、遊びに行ってもいい?・・・うん。やったぁ!じゃあ、着替えたら遊びに行く。・・・うん。大丈夫、時々友達とそこの公園で遊んでるから、一人で行ける。・・・うん。じゃあねー」
どうやら、遊びに来てもいい、と返事をもらったようだ。

パジャマ姿でテレビを見ていた次女はすぐに服を着替えた。
嫁さんは朝から用事で出かけていたが、次女の身支度のことは心配ない。
次女は服を着替えると、鏡に向かってポーズをとりながら今日の服装について私に説明し始めた。
「今日はちょっと同じような青色で揃えてみた」
そういってスカートのすそを持ち上げて体を左右にひねる。
今度は着ているジャケットのすそを少し開きながら
「このシャツにこのジャケットがいい感じやろ?」
と言う。
日に日に腕を上げている。
そのうち私のネクタイの色を決め始めるかもしれない。

そしてピンク色のポーチにお気に入りのアイテムをぎっしり詰め込んで、出かけていった。

夜、仕事帰りに自宅に電話して、嫁さんに次女が帰ってきているかどうかを聞いた。
「ううん。今日は泊まるってさっき電話あった」
「やっぱり」
従姉妹が泊まりにきているのだから、そりゃ遊びたいだろう。

「『お母さん、今日泊まるから、ちょっときて』って電話があって、見に行ったらメモ用紙を渡されて」
「何の?」
「泊まりの準備を書いたメモ用紙。『おかあさんにもってきてもらうもの』ってリストを作ってあって。『きいろい花がらのパジャマ』とか、『水いろのくつした』とか。全部、ご指定やで。もう、参るわ」

我が家一番の段取り屋さんは次女に間違いない。

2007年4月2日(月) 煙る街

「一度入ったら生きては戻れない場所」と呼ばれているところが、中央アジアにある。
その大きさは日本とほぼ同じ大きさ。
ウィグル語でそれは「タクラマカン」と言う。
同じくモンゴル語で「短い草が疎らに生えている土地」を意味する「ゴビ」。

「黄土高原」と呼ばれるそれらの地域は、あわせると日本の面積の5倍にも匹敵する、広大な砂漠である。

その黄土高原の土地はもろく、風化しやすい。
何もさえぎるものがない広い広い大地を、削り取るように風が吹き渡る。
そしてその風は、目に見えないほど小さな小さな砂粒を、数億トンという単位で、はるか上空まで巻き上げる。
そして偏西風に乗り、海を渡って、やがて日本に数百万トンという単位で降り注ぐ。
これが「黄砂」だ。

今日の黄砂はすごかった。



いつもの風景と比べるとよくわかる。



日本では春の風物詩のようなものであるが、年々、砂漠は広がっており、深刻な問題になっているという。
地球が人間の存在を嫌がっているのかもしれない。

2007年4月3日(火) 受験するぞ

久しぶりに試験を受けようと思う。
で、何の試験を受けようかと考えた。

この季節は新しい事を始めるのにいい時期であり、本屋に行っても試験の本がたくさん積み重ねられている。
「マンション管理士」「ケアマネージャ」などなど。
もちろん、情報処理試験を目前に控え、情報処理技術者の問題集もたくさん並べられている。
しかし、情報処理試験は半年前から勉強しなければ合格しそうにないし、第一、今は春の試験を目前に控え、受験者の募集はしていない。

で、再び考えた。
いや、考えるまでもなく、今の状況から考えて受験できそうなものは決まっていた。
漢字検定試験だ。

今までにも受験したことはあるが、残念ながら合格していない。
しかし、いつも惜しい点数を取っているので、もう少し真剣に勉強すれば合格するだろう。

合格できないのはどこかに甘えがあるからに他ならない。
実際、合格しないからといってペナルティはないし、合格してもなにも利益はない。

ただ、今年は我が家に二人の受験生がおり、子どもに示しをつけるためにも、私、自らが進んで受験し、そして合格をものにしなければならない。
また、みんなに受験することを明言して、必ず合格するという誓いを立てることにした。

PTAの役員のお母さん方にもメールした。
これで合格できなきゃ、格好がつかない。

2007年4月4日(水) 組織図はおかしい

新しい役員さん向けに資料を作ってみた。

以前から作成しようと思っていたのだけれど、なかなか時間がとれず、昨日、ようやく目次を決めただけだ。

まず、組織図を作る。
そんなたいしたものではないけれど、どこからどんな指示があって、何をどこへ伝えるのか、各地区のさまざまな組織とのかかわりはどうなのか、そういったものを把握しておかないと、あとあと困るからだ。
大体、学校で用意してある組織図は現実的ではない。

一番上にあるのが「PTA総会」である。

こんな、独立した意識を持たないものが一番上にあって、ここからの指揮命令を待っていては、百年経っても何も変わらない。
PTA総会の下にあるのは「各種実行委員会」である。

役員会はどこにあるかと言うと、補佐である。
総会と、実行委員会の間の橋渡し。

つまり、総会で決まったことを実行委員に伝え、実行委員会から出てきた内容を総会の議題としてあげる役目。
自らの意思決定はないことになる。

理念としては正しい。
会長には何も決定権がなく、ただひとつ、総会を開催することができるだけだ。
しかし、これではPTAが回るわけがない。

だから私はわかりやすく、三角形を描いた。
ピラミッド構造の組織図のほうがわかりやすいからだ。
ピラミッドの頂点は「会長会」つまり「市PTA協議会」。
その下にあるのが役員会、そして底辺が実行委員会。
さらにその下にPTA会員である保護者がいるのだが、それは書かなくてもわかる。

会長が決めたことを役員が了承し、実行委員会で賛同が得られれば、保護者に伝わる。
実際のところ、保護者たちはそう思っている。
自分たちが会員で、自分たちが総会に参加して、自分たちで決めるんだ、なんて意識はほとんどないのだ。

組織図を描いたあと、役員の仕事を書いた。
季節ごとの行事をするにあたり、どういうことをしなければいけないか、たらたらと書いた。
パワーポイントで14ページ。
なかなかの快作。

結局、2時までかかってしまった。

2007年4月5日(木) 春の花と酒と

夜桜を見物したのは何年ぶりか。
会社員だったころ、何度か行ったことがある。

新人研修時代、東京の有名な公園で、同期社員ばかりで羽目をはずして馬鹿騒ぎをし、よった勢いで、まったく見知らぬグループに紛れ込んで、余ったビールを根こそぎいただき、そこでもさらに飲み続けた。
それでも元気で、電車に乗ってしっかり寮に帰った。

会社を辞職する間際の春、酒飲みの先輩たちと夜の花見をしたが、寒くて寒くて、周りの先輩たちもガタガタ震えながら、新聞紙を体に巻きつけていた。
思わず「誰か楽しい人いますか?」と聞いて、返事がなかったので先に帰ってきた。

怖いもの知らずの若さがあれば、寒い夜桜もそこそこ楽しめるのだが、馬鹿騒ぎが怖くなった今では、ただひたすらに寒い。

しかし、今日は違った。

話をしていて楽しい人がいると、寒さを感じなくなるものだ。

冷たいビールだったし、風も冷たく、何よりコートを着ていなかったので、いくら寒さに強い私と言えども、指先は冷たくなり、足も冷えてきた。
それでも、私の話を聞いて、笑顔になる人がいれば、寒さが気にならなくなる。
だからこちらも、いっそう、楽しい話をしたくなる。
寒さが功を奏したのかもしれない。

夜桜見物とはいいながら、実際には、ほとんど桜を見ることはできなかったが、それでもあの気分は、いつもの居酒屋では感じることができない。
もし、最初から居酒屋に行っていたとしたら、楽しい会話ができなかったかもしれない。
そんなことを考えながら、川岸の桜を見上げた。



夜桜見物の後向かった居酒屋で飲んだ「呉春」は、まさしく、春の香りがした。

2007年4月6日(金) かっこいい先生

中学校の入学式に参列した。

朝、9時30分。
まだ、開会まで30分ほどあったが、中学校に到着すると、近隣の地区の自治会長さんたちがすでに何名かいらっしゃった。
残念ながら、いつものように、私の地区の自治会長はきていない。
うちの自治会長は学校へはほとんど顔を出さないようだ。

定刻になり、式場である体育館へ案内される。
来賓は、校長先生を筆頭に一列に並んで、歩いていく。
廊下のところには新入生が待機していた。

ときどき、私を見つけた子どもが「あ!」と声を上げる。
ついこの前まで、小学生だったから私のことを知っている子どもも多い。
私服で遊んでいるときの「おっちゃん」と少し違う私を見て驚いているようだ。

体育館に入ると、一番手前に在校生、その前に保護者が腰掛けている。
一番舞台に近い側に新入生がいて、舞台に背を向け、保護者と向かい合っていた。

演台は、生徒に背を向けられた舞台の上ではなく、舞台に向かって右側の端、ちょうど新入生と保護者の間に位置していた。
つまり、演台から見ると左手に保護者、右手に新入生が位置している。

そして来賓席は演台の左側に設けられており、そこへ案内された。
小学校では、目の前にちょうど生徒が来るのだが、ここでは保護者が目の前に座っている。
保護者は舞台のほうを向いているので、横顔を眺めているような感じだ。
さぞかし、来賓席側の保護者は居心地悪いだろう。

式が進行し、担任の紹介が始まった。
一人ずつ、先生が紹介されていく中、一人若くて、かっこいい男性教諭が紹介された。
「二組を担当する○○先生です」と紹介のアナウンスが流れると、在校生の女子たちから「いいなあー」の声が漏れてくる。
かっこいい先生が担任だと、うらやましがる当たり、小学生とはちょっと違う。
ちょっとませた感じもするその声に、思わず会場内も笑いが起きた。

やがて、生徒会が主催する歓迎会が行われ、そのなかで在校生によるインタビューが行われた。

まずは新入生にマイクを向ける。

「学校では何に力を入れたいですか?」
「えっとーー。クラブ活動です」

「何が楽しみですか?」
「うーん。修学旅行です」

そして次に保護者にマイクが向けられた。

「お子さんのお名前を教えてください」
「××です」

呼ばれた名前を聞いてお驚いた。
呼ばれた子どもは、私の地区の子ども会をこの前卒業した子ども。
それにインタビューされた母親は、私の真正面だったし、向こうのほうなので気がつかなかったが、私の地区の副地区長だった。

「お子さんの姿を見てどう思いますか」
「うーん。なんか、ちょっとおっさんくさい・・」

場内も笑う。
嫁さんの友達でもあり、人を笑わせるのが好きな彼女のことだ、きっと心の中でガッツポーズをしているに違いない。

とても和やかで、和気あいあいとした空気が流れ、暖かい春の日を思わせる、入学式だった。

2007年4月7日(土) 最後の反省会

中学校の懇親会に始まった、前年度のPTA実行委員以上の、反省会という名の飲み会も、今日の高校役員反省会で終わりだ。
なんだかんだと、5回以上は反省している。
年末に、何度年を忘れるつもりかというほどに行われる、忘年会と同様、そんなに反省して成果はあったのかと、心配してしまうほどに、行われた反省会だった。

今日の飲み会は少し高めの料亭。
もちろん、自腹。
反省会は酒が出るので、酒が出れば当然自腹なのだ。

高校の役員の中では一番下っ端の私が、一番入り口に近い席に座る。
考えてみれば、役員会どころか、保護者全体の中でも私は下っ端のほうだ。
24歳の時の子どもが高校生なのだから、周りの保護者は私より年齢が高いのは当然だ。

教頭やお世話になった先生と一緒に、この高校の現在と過去、そして未来について話をする。
小学校、中学校、そして高校と役員を務めているが、その中でも一番活発なのはこの高校だ。
役員の入れ替わりも、必要最小限。
一人は卒業生で学校を離れるが、それ以外の役員はみな残る。
あえて、会長だけが、後任を育てるという理由で一線を退いた。

不安はあるものの、高校の先生たちはとても、しっかりしていて頼りになる。
きっとうまくやっていけると思う。

写真はそのときのデザート。

2007年4月8日(日) それを謝らなければならないとき

「生きていてごめんなさい」

そう言って、自分が生きていることを、他人に謝らずにいられない気持ちになることが、人にはあるようだ。

たくさんの命が奪われる中、幸いにして自分が生き残ったとき。
そして、その犠牲者の遺族を、目の当たりにしたとき。

今日見た映画「男たちの大和/YAMATO」のなかでもそのシーンがあった。

「特別攻撃」、いわゆる「特攻」は戦闘機だけではなく、当時、世界最大にして最新鋭、すなわち世界最強と謳われた戦艦「大和」にさえも課せられた。

そしてその水兵は「特別年少兵」と呼ばれる少年たち。
彼らの年齢は15歳〜17歳。
ちょうど私の長男と同い年である。

開戦当時に建造された大和に乗り込んだ少年兵たちは厳しい訓練の後、実戦に臨む。
大和の最初の戦いはフィリピンのレイテ島沖。
それまで優勢だった日本軍が、この戦いの後、劣勢に回る。
海軍の主力艦隊がほとんど失われる中、大和だけが残った。
やがて戦いは沖縄の菊水作戦に。
30発もの魚雷を受けて沈んだ大和であったが3,000人近い犠牲者を出しながら、269名の生存者もいた。

その彼らが、本土に戻り、ともに戦った戦友の最期を報告すべく遺族のところへ向かうとき、彼らは思ったそうだ。

「生きていてごめんなさい」

私の長男と同じ少年が、その丸刈りの頭を地面にこすり付けて遺族に謝る。

「生きていてごめんなさい。ぼくだけ生きて帰ってきてごめんなさい。許してください」

日記を書いているだけでも涙があふれる。

生きるということは、誰かの犠牲がなければできないことなんだろうか。

2007年4月9日(月) 予算はほどほどに

時々思い出したように子ども会の会長の仕事をする。
5月に開催するイチゴ狩りの予約手配をしたり、去年の行事の確認をしたり。
まあ、ほとんどが嫁さんを相手に話をするだけなのだが。

今日は久しぶりに子ども会の会長として、自治会の会議に出席した。
この時期になると、どこの団体でも開催される、役員による予算案の作成だ。
予算案という言葉、テレビでは聴くけれど、具体的に何をしているのか、実は私もよく知らなかった。

各団体は、会員から集められた「会費」や行政から支給される「支援金」などを収入源とし、その一年間、そのお金を使って何をするのかを決めるのである。
例えば、小学校のPTAなら、秋祭りの制作費にしたり、高校のPTAなら校名の入った横断幕を作ったり。
いずれも、会費を払ってくれた人やその子どもたちのために使われる。

自治会だって同じだ。
町の街灯がいつも帰り道を照らしているのは「街灯修繕費」があるおかげだ。
ご老人がゲートボールをして楽しんでいるのは「老人会支援金」があるおかげだ。
回覧板だって、掲示板のポスターだって、町の安全パトロールだって自治会費をもとに作成されたり、行われたりしているのだ。

子ども会の活動費も同じだ。
子ども会の活動費は、自治会の予算として計上される。
その予算を何にどれだけ使うのか、それを今夜決定した。

老人会や婦人会、防犯委員会などが軒並み予算を削られるなか、子ども会だけは増額の話があった。
「子ども会は目に見えて活動している。もっと予算を上げてやってもいいのではないか」と会長からの発言だったし、他のみなが「そのとおりだ」と賛同した。
しかし、ただ一人、私だけが「昨年と同じで結構です。足らない分は自分たちでカバーします」と断った。

別に子ども会に、お金の余裕があるわけではない。
もっとお金があれば、もっといろんなことができる。
しかし、私は、私の地区だけが面白ければいいと思ってはいない。
よその地区はもっと収入の少ない中で、やりくりしているのだ。
その地区の子どもたちと一緒に活動することもあるのに、私の地区だけ、すべて支援金でまかなうと言うのは、子どもの教育にとってよくないと思ったからだ。

確かに、保護者、とりわけお母さん方に負担を強いることになるかもしれない。
しかし、その理解を求めるように働くのが私の仕事であって、自治会からお金をたくさんもらうことが仕事ではない。

それに、子ども会だけが増額されると、他の団体からの仕事を押し付けられないとも限らない。
バランスをとって少し前を歩く程度がいいのだ。

2007年4月10日(火) 校歌

先日、高校の入学式に出席した。
高校のPTA副会長を務めているので、来賓として招かれた。
会長が出席しているのであれば、別に出席しなくてもよかったのだが、会長が式の途中で、仕事のために抜けなければならない、という話を聞いていたので、少し無理をして出席することにしたのだ。
(あれ?私の仕事は二の次か?)

式の間、来賓はただの飾りのようなもので、胸に赤い花のリボンをつけて、じろじろ見られながら、来賓席に座っているだけだが、入学式の後にPTAの活動について説明をする必要があり、その時間帯には会長がいなくなるというので、私の出番となった。
副会長は私以外にもう一人いるが、人前で話をするのは私の役割と決まっている。

いつものように、国歌斉唱から始まる。
全員が起立し、「君が代」が流れる。
サッカー代表戦のときのように、前を向いて大きな声で歌う。

校長の挨拶があって、小中学校ならPTA会長の挨拶があるのだが、高校ではそれがない。

やがて在校生による校歌の合唱が行われることになった。
女子生徒が前に並ぶ。
私の長男が通う高校は、男子学生が全体の10%ほどしかおらず、ほとんどが女子生徒である。
今日の合唱も女子生徒だけのようだ。
そして校歌が流れ始めた。

全身に鳥肌の立つ思いがした。

とてもいい曲なのだ。
まったく校歌らしくない。
校歌といえば、各学校を取り巻く地域的な特徴が織り込まれていたり、学校名を連呼したり、学校が栄えることを願ったりするような言葉が入っているが、そういうものが一切ない。
第一、メロディーが校歌とは思えないほど、美しいののだ。
女性ミュージシャンが歌っているのかと錯覚するほどに、よい。
それを女子生徒が見事な調和で歌う。

PTA副会長といいながら、初めて聞いた校歌。
その感想を来賓席の隣に座っている後援会の代表に言った。
「めちゃくちゃいい曲ですね」
「そやろ。私これを聞くたびに、泣くねん」

そういった後援会代表の目は確かに潤んでいた。
卒業式にこれを聞いたら、私も確実に泣くだろう。



2007年4月11日(水) 正しくても謝る

嫁さんと小学校二年生の次女が、近くのデパートに出かけ、エレベーターに乗った時のこと。

やっと来たエレベータに人は乗っているものの、まだまだ満員ではなく、余裕があったので嫁さんと次女が乗り込んだ。
ドアが閉まった。

と思ったら、すぐに開いた。
そしてまた、閉まったドアがすぐに開いた。

よく見ると、ドア付近にいる女性のかばんがドアに挟まっていたそうだ。
嫁さんがそれを注意しようとしたそのとき、「重いからや」と、どこからか、おじさんの声が聞こえてきた。

見渡すと偏屈そうなおじさんが嫁さんをにらんでいた。
「最後に乗った人が降りなあかん」という。

重量オーバーでないことはブザーなっていないことでもわかるし、第一それほど乗っているわけでもない。
それに、カバンがあたってドアが閉まらないことは、嫁さんだけでなく、他の人も見ている。

普段は回転しない嫁さんの頭が高速に回転し、すぐに結論を導き出した。
「すみません。降りますので」
そういって、次女の手を引きながら、エレベータを降りた。
偶然にも、そのときカバンを持っていた女性が位置を変えたため、何事もなくドアが閉まりエレベータは下へ降りていった。

その話を聞いて、いつもの嫁さんの行動と違うと思った私は、なぜ降りたのかを尋ねた。いつもなら、カバンがあたっていることを説明して、自分に非がないことを相手に認めさせるのに。

「うん。言うてもよかってんけど、そのおっちゃんが、いかにも後で絡んできそうなタイプで、『こいつは今までこうやって生きてきたんやな。言うだけ無駄やな』って感じやってん。それにきっと周りにも迷惑がかかるし、この子がいてるから面倒も避けたいし。自分だけやったら、絶対許してないけど。ほんで、子どもに説明するいい機会や、と思って」
なるほど、そういう考えがあって、降りたのか。
嫁さんは子どもに説明したそうだ。

「お母さんは今、『すみません』って謝ってエレベータを降りたけど、お母さんが悪くないのは見ててわかったよね」
「うん。カバンがあたってた」
「お母さんは悪くないんだから謝る必要もないし、エレベータを降りる必要もないの。でも、お母さんがあそこで、さっきのおじさんにいろいろ説明していると、エレベータも動かないし、けんかになったら他の人も嫌な思いをするでしょ?」
「うん」
「だからね、自分が正しいと思うことでも、そのせいで周りの人に迷惑がかかるようなら、ひかないといけないときがあるの。我慢しないといけないときがあるの」
「ふーん」
「○○(次女)も絶対自分が正しいと思っても、そのせいで周りに迷惑がかかるなら、我慢しないといけないときや、謝らないといけないときがあるのよ。わかった?」
「うん。わかった」

常に正義であれ、と教えてはいるが、なかなか難しい。

2007年4月12日(木) 長いセリフ

なんにでもいろいろと顔を出して、たくさんの人とかかわりを持ち、輪を広げていくのは、うちの嫁さんの特技だ。
そんな嫁さんが今回、小学校二年生の次女と一緒に、顔を出したのは劇団。

我が家の隣に住んでいる奥さんも、かなり活動的で、地域のコーディネーターをやっているだけあって、顔が広い。
そんな奥さんのところによく遊びに来る一人の女性が、団長を務めている劇団がある。
隣の奥さんは以前から我が家の行動的な次女に目をつけていたようで、「私の友達の劇団で、一度オーディションを受けたら?」と何度か誘われていた。

先日、少し時間があったので、その劇団に顔を出したらしい。

「じゃあ、ちょっとセリフを覚えてみようか」
という話になり、次女は他にもいる子どもたちと遊びながら、出題されたセリフを覚え始めた。

それは、谷川俊太郎の絵本の文章だった。

これは のみの ぴこの
すんでいる ねこの ごえもんの
しっぽ ふんずけた あきらくんの
まんが よんでる おかあさんが
おだんごを かう おだんごやさんに
おかねを かした ぎんこういんと
ぴんぽんを する おすもうさんが
あこがれている かしゅの
おうむを ぬすんだ どろぼうに
とまと ぶつけた やおやさんが
せんきょで えらんだ しちょうの
いれば つくった はいしゃさんの
ほるんの せんせいの
かおを ひっかいた ねこの しゃるるの
せなかに すんでいる のみの ぷち

長い。
私はこれの文章を書かれた紙を嫁さんから渡されたとき、酒を飲んでいたとはいえ、2時間かかっても結局覚えられなかったのに、次女は1時間ほどで覚えてしまったらしい。
しかも、数日たった今でも覚えているとのこと。
これは意外な特技だ。

あ。
オーディションの結果を聞くのを忘れた。

2007年4月13日(金) 災厄の日?

「敬虔(けいけん)なクリスチャンであるジョンは、その月の1日が日曜日であると、とても浮かない顔をする。さて、その理由は?」
答え。
1日が日曜日だと、13日が金曜日になるから。

今日は13日の金曜日である。
私はクリスチャンでもなければ、仏教徒でもない。
こんな言葉があるかどうかは知らないが、無宗派主義である。

しかし、「13日の金曜日」というのは、あのホラー映画の影響によるものだろうか、どことなく、おどろおどろしい響きがあり、普通の日ではない感じがする。

今日はグループの飲み会だった。
にもかかわらず、出発直前に見事にトラブル。
簡単に動くはずのコンピュータがなぜだか動かない。

とはいえ、まったく見通しの立たないトラブルでもなく、時間があれば復旧することはわかっていたので、先発隊は先に出かけることにした。
私が統括するグループなので、私は最後まで見届ける責任があるのだが、システムを担当している若い連中にしてみれば、見ているだけなら私などいないほうが作業もしやすいだろうし、先に行く連中も、私を抜いて先に始めるのも気がひけるだろうから、私は先に出発することにした。

「えーそれではまず始めに○○(私)さんにご挨拶を」と言われたが、乾杯前の挨拶ほど短くて喜ばれるものはない。
「えー。早く飲みたいので、とりあえず、かんぱーい!」と無理やりに乾杯した。

その後、何度か電話を入れて様子を確認する。
順調に進んではいるものの、まだ少し時間がかかりそうだと言う。

またしばらくして連絡をすると、もう終わったのでこちらに向かうとのこと。
ほっとして時計を見ると、飲み放題の残り時間もあとわずか。
ようやくのことで、遅れてやってきた3人の若者は席に着くや否やガンガン飲み始めた。
笑い顔なので何も細かいことは聞かないことにした。

間もなくして宴会は終了となった。
幹事がお金を集め始めたので、少し多めに渡して、遅れてきた3人に少し返金してやってほしいとお願いして、「じゃ、今日はこれで」と一人先に店を出た。

帰りの電車の中で、少しお金を出しすぎたかな、いや、あれぐらいはいいだろう、などと一人考えながらふと膝(ひざ)を見た。

食べこぼしたのか、しみができていた。
お気に入りのスーツで、しかもちょっと高いのに。
やっぱり13日の金曜日だ。

2007年4月14日(土) 市子連役員就任

金曜日の飲み会のさなか、めったに鳴らないプライベートの携帯電話が鳴った。
プライベートの携帯電話を鳴らすのは嫁さん以外にほとんどいない。

携帯電話を開いて耳に持って行くまでのわずかな時間の隙に、相手の名前を読み取った。
校区長だった。

そういえば、校区長はメールのやり取りをほとんどしない。
私が送ったメールに対しても返事をくれるのは10回に1回程度だ。
「いや、娘がパソコンを使ってて」というのが言い訳の常套句だ。

で、校区長から電話があるときはいつも急な話だ。
別に緊急の連絡と言うわけではなく、前々から予定されていたのに、それをちゃんと連絡できていないのだ。
以前からメールで一斉配信しろ、と何度も注意しているのに、それをしない。
今日も同じだ。

「急で悪いけど、明日あいてるかなあ」

いつもこの調子だ。
その日の電話で聞いたのは、「市子連の総会があること」「19時から開催されること」「私に出てほしいこと」の3点だけだった。
市子連とは私の住んでいる市の子ども会連合の略称である。
20前後の子ども会で構成されている。
本当はもっと別の何か依頼があってわざわざ電話してきたのだろうが、そのことにはまったく触れず、とにかく明日の総会に出席してほしいとのこと。

総会は毎年行われていたのだが、校区長から連絡がなかったので、私は過去数回、一度も出席したことがなかった。

土曜日の今日、約束の時間に校区長の自宅に行った。
車に揺られて少し離れた青少年活動センターに向かった。
その間も私はわざと何も聞かない。

活動センターに到着すると、やたらと愛想のいい市子連の副会長と名乗る女性が挨拶してきた。
「いやーあなたが○○(私)さん?××(校区長)さんからはお話お聞きしてます。あなたのような若い方がいらっしゃると心強いわー」
老人会でもあるまいし、42歳の私を見て若いもないだろう。
まあ、なんとなく雰囲気でわかってきた。

で、校区長に聞いた。
「私は、今日、××さんにここへ来てほしいと言われた以外、何も聞かされておりません。私に何を期待されているのか、目的は何なのか説明していただけませんか?」
すると横で聞いていた愛想のいい副会長と名乗る女性が驚いたような声を上げた。
「ええーっ!? ××さん、何も説明していないの? そらあかんわ。はい、これ今日の資料。そこへ座ってきっちり説明して」
「あ、うん」

校区長も、市子連の副会長なのに、この女性にはたじたじと言った感じだ。

「今から総会があるんやけど、その後に役員選出の話があって、まあ、別に今日は何もないと思うわ」
いつものように、質問に合致していない、まったく違う答えが返ってくる。

「いや、私に何をしろといっているのか教えてくださいよ」
あまりにおかしくて半分笑いそうになるのをこらえながら聞く。

「あ、いや、最初は総務からでええと思うねん。常任の委員をお願いしようと思うねん」
「総務?常任委員?」
「あ、いや、あれやねん、役員もみんな年寄りばっかりになってきて、最初は違和感があると思うし、校区長が常任委員になるんやけど、それ以外に会長推薦というのもできるみたいで、今回は会長推薦と言う・・・」
「そういうことじゃなくて、『常任委員』を説明してくださいよ」

なぜこんなに頓珍漢なやり取りなのか。
結局こういうことだった。

常任委員とは市子連の役員のようなもので、今の市子連の委員たちは、自分をはじめ、ほとんどの人がすでに子ども会を離れたにもかかわらず、後継者がいない。
私のように若い人間を少しでも入れて若返りを図りたい。(だから若くないって)
また、私は積極的に意見を言うので、刺激になってよい。
総務部というのは広報を作成するなどの仕事で、デスクワークが多く、それほど拘束される時間もないので、総務部の役員になってほしい。

ようやく話の内容がわかったところで「いいですよ」と答えた。
いずれは必ず話が回ってくるし、それに、同じ市子連の役員の中に、市P協議会で顔を合わしている、小学校のPTA会長がいた。
ということはPTA会長でも務まると言うことだ。
ならば、私にもできる。

と言うわけで、早速、GWに仕事がやってくる。

2007年4月15日(日) ミュージカル

先日、次女が劇団のオーディションを受けたところ、とりあえず合格したので今日はその入校式に参列した。

久しぶりに、何も考えずに式典に参列できる。
例えば来賓のときは来賓らしく、例えば勉強会などのときは少しでも何かを得て帰ろうと、例えば講演会のとき
は裏方として動き回り、いつも何か「役目」があったが、今日は「父親」としても役目を果たせばいいのだ。

次女と嫁さんを車に乗せて公民館へ。
思っていたよりも車が少ない。
受付にも人がまばらだ。

受付で確認してみると、聞いていた時間より、1時間も早く来てしまったらしい。
公民館の中に入ると、まだパイプ椅子を並べたり、舞台の上で垂れ幕の位置を調整したりしている。
いつも私がやっている作業だ。

ふと、舞台の上を見ると、見慣れた顔が。
市のPTA協議会の会長だ。
向こうも私に気づいてにこっと笑う。
『市のPTA協議会会長が何でここにいるんだ?』
と思って垂れ幕の文字を見て気がついた。

市民ミュージカルと書いてある。
このミュージカルの後援会が市の「教育委員会」と「PTA協議会」なのである。
そりゃ、市のPTA協議会の会長がいるはずだ。
そして、次女がオーディションを受けたのは、確かに劇団ではあるが、それはこのミュージカルに出演するためのものだった。



つまり、この夏に開催される、市民ミュージカルに、次女が出演すると言うことなのだ。
そうとわかると、ちょっと不安になった。
ミュージカルの説明はPTA協議会に出席したときに聞いていた。
素人ばかりでやるとはいえ、練習は相当きついらしい。

練習のスケジュールを見てまた驚いた。
ゴールデンウィーク明けから、毎週、土日に6時間程度の練習がある。
送り迎えもだけでも大変だし、弁当だって作らなければならない。
何より、甘えん坊の次女にそれができるのかどうか。

とはいえ、いまさら後には退けない。
長男、長女が受験するんだから、お前もひとつ、気合を入れて頑張ってみるか。

2007年4月16日(月) 伝心

休日に友人の家に行く予定にしていたが、連日の忙しさに負けたのか、体が思うように動かず、他の用事をしていると時間がなくなってしまった。
ま、約束をしていたわけではないし、日を改めて行っても、彼はいつでも必ず笑顔で出迎えてくれる。

前日、彼と再会する夢を見た。

「おっす」
「おお。久しぶり」

どちらからともなくそんな挨拶をする。

私は夢を見ている間、それが夢だとわからないことのほうが多く、大人げもなく恐怖を感じたり、ありもしないことに怒ったりするが、彼が登場するときは、それが夢であることをはっきりと認識する。
そして夢だとわかりながら、楽しそうに話をする。

「今度の土日は会えそう?」
「うーん。ちょっと忙しくてな」
「そっか。まあ、来てくれるんやったらいつでもええで」
「ああ。いくよ。おっちゃんとおばちゃんにも会いたいしな」

夢なのに、春の堤防をわたるさわやかでやさしい風を確かに感じながら。

夢の中で会う。

それは誰かが慰めのために口にした言葉だと思っていた。
でも違う。

このやさしい季節に、いつも笑顔で夢に出てくる友人との再会は、慰めではなく、本当に心待ちにしている、楽しい出来事なのだ。
それが証拠に、夢を見ている私は自分の笑い声で目を覚ましてしまうのだ。
そしてまた「ごめんごめん」といって眠りにつくと彼はそこで待ってくれている。
夢の続きが見られる数少ない例だ。

今日、いつものように空を眺めた。
そこには相変わらず、春の月があった。



「おーい。そっちの天気はどうだい」
月に向かって話しかけながらシャッターを切った。

2007年4月17日(火) ネットカフェで

今年度初めての小学校の委員総会があるにもかかわらず、仕事でどうしても出席できない私は、頼りになる若い役員(といっても彼女も今年は副会長)に任せて、東京へ。
東京のユーザ先での会議。
あいにくの天気で気分も滅入る。

現地に着くと、大阪から電話が。
サーバがダウンしたらしい。

会議もそこそこに電話でトラブル対応をする。
でも、バックアップを取っておらず、単純に復旧できそうにもない。
時折電話で確認をしながら、実際の作業は大阪にいるメンバーに任せて、会議に出席する。
会議が終わったころに復旧していることを願いながら。

当然のようにそんな願いは通じず、サーバが停止しているという現実が待っている。
電話で対応をしているものの、ハードの障害も併発しており、思うように作業がはかどらない。

そろそろ大阪へ戻らなければならない時間。
飛行機の予約もあり、これ以上、長居はできず、空港へ移動する。
空港へ移動している間も、手荷物検査を受けている間も、電話をしながら対応している。
一段楽したときに、窓の外を見る。
雨の空港がいっそう、気分を滅入らせる。



やがて飛行機に乗り、大阪へ向かう。
大阪につくころには解決しているように願いながら。

そんな願いが通じるはずもなく、空港にあるネットカフェへ向かった。
WEB上でいろいろ調べ物をしたいと思ったが、あいにく今日はパソコンを持っていなかったのだ。

結局、障害が解決したのは、ネットカフェで3杯目のコーヒーを飲み干した後だった。

2007年4月18日(水) 利き酒

先日、利き酒をやってみた。

といっても日本酒ではなく、ビールで。
しかも同一メーカーの。
目の前に年代ごとに味を変えている「ビール」を4種類並べた。

まずは、一番味が薄いと思うやつを飲んでみる。
華やかな香りが広がり、どことなく「春」や「花」を連想させる味だ。
私が一番飲んでいる、お気に入りのビールだ。

次に、最近出たばかりのほんのり苦いと言うビールを飲んでみる。
切れのいいさわやかさと、口の中に後を引かないシャープな苦味が香る。
なんとなく「若さ」を感じるビールだ。

そして次に飲むのは、サッカーを応援するときに愛飲している、気合の入っているビール。
一度に飲んだ本数で言えば、これがダントツで多い。
昔ながらのしっかりと味のある苦いビールだ。
口の中に含み、のどへ流し込むと、苦味が一緒にのどを伝わる感じだ。

最後に、クラシックと呼ばれる昔ながらのビール。
リバイバルで発売されて初めて飲んだとき、「あ。これこれ」と思い出した。
子どものときに親父が飲んでいるのをこっそり横から拝借して飲んだ、苦い苦いビール。
でもそれがもちろんおいしくて、しばらくはこればかり飲んでいた。
その苦味もしっかりとのどを伝わっ・・・。

あれ?
さっきのと、どっちが苦い?
もう一度さっきのビールを飲む。
うんうん。こっちのほうが苦い。

じゃあ、おさらい。
もう一度、華やかなビールから。
うんうん、これこれ、お気に入りの味。

次に若いビール。
うん。このシャープな苦味が・・・。
あれ?サッカーのときのビールとどっちがどうだ?

サッカー応援用のビールを飲む。
おお。ニッポンがんばれ!
負けるなニッポン!
この味この味。

で、これがクラシッ・・・。
あれ?
あれ?

「おーい」
長女を呼ぶ。

「おとうさん、こっち向いてるから、この中から一本だけ選んでこのコップに入れてくれ。それを当てるから」そう言ってビールに背中を向け、「いいよ」と言われてコップを持った。

うん。
この香り、これは、あれだ。
若いビールだ。
少し飲んで見る。
おや、この苦味・・・。

結局、はずれた。

ゴールデンウィーク中にマスターしてやる。

2007年4月19日(木) システム復旧

コンピュータの技術者が、一番それらしく見えるところといえば、なんと言っても壊れたシステムを復旧しているところだろう。

地球を救うべく飛び立ったものの、肝心なところでシステムが動作しなくなってしまった宇宙船の中でも、高層ビルの最上階に本社を構えるソフト会社が社運をかけた衛星放送システムなのに、そのシステムがうまく動作しないマシン室の中でも、一人コンピュータの画面に向かい、黙々とキーボードを叩きながら、なんだかよくわからない、文字がすばやく流れる画面を見て、「よし」と頷いた瞬間に、パパパっとあちらこちらの電気が輝いて、モニターにシステム復旧の文字が浮かび上がる。
この姿は「コンピュータ技術者」として一般の人が描いているものにかなり近い。

実際はもっと泥臭いし、かっこいいBGMなんて流れてはいない。
それでも、やっぱり格好いいのだそうだ。

今日、ユーザのところでシステム復旧のテストを実施した。
テストとはいえ、実際にデータを破壊して、元通り戻るかどうかの試験であり、これが失敗すると、このシステムの設計が誤っていたことになる。
戻ることが大前提で構築したシステムなのだから、そうならないと非常に困る。
私は問題ないと思っていたし、そのようにユーザにも説明していたのだが、目の前で見なければユーザもなかなか納得しない。

ユーザ業務の終わった夜間に、ユーザのマシン室を訪れて早速作業に取り掛かる。

データをバックアップしてサーバのデータを故意に破壊する。
バックアップしたデータを戻す。
エラーが出る。

でもこれは予期していたこと。
でも、事前に「ここで再起動しますが、このときにエラーが出ます」と言ってあったものの、目の前に表示されたエラーを見るとユーザは落ち着かない様子。

「次に、こっちのデータを復旧して、それからロールフォワードを実施します」と説明しながら、画面に向かってコマンドをパチパチと入力する。
ユーザには意味のよくわからないメッセージが画面を流れ、私が補足説明をするが、半分は聞いていないようだ。
「ここで再起動すれば、正常に動作します」
まだユーザは半信半疑であるが、再起動して正常に動作している画面を確認すると、パーッと顔が明るくなり、「おおー」と歓声が上がる。

「いやー○○(私)さん、かっこええわー。マジでかっこいいです」と恥ずかしい言葉を聞かされる。

ユーザの頭の中には映画の一シーンが浮かんでいたかもしれない。

2007年4月20日(金) かっこいい部会長

今日は市のPTA協議会(通称「市P」)の総会。
どこの総会でも同じだが、ほとんどの場合、決算と役員の承認をしてもらうのが目的。

学校のPTAの役員と同じように、市のPTA協議会にも役員がいる。
協議会会長をはじめ、3名の副会長、1名の会計と書記、それから小学校の会長をまとめる小学校部会長と同じく中学校をまとめる中学校部会長、最後に「母親代表委員会」の委員長の合計9人で組織される。
ほかの組織の役員会に比べれば役員のかずも多いがそれだけやることも多いのだ。

このうち、この日まで決まっていない役員が2名。
小学校部会長と中学校部会長。
市内に小学校は15校あるが、この15学校の中から部会長を選ばなければならない。
それも制限時間、30分。

前年度の部会長と役員選出委員の会長さんが「この30分で決めなければならないんです。順番で言うと今度は○○小学校なんですが、○○小学校の会長さんは本部の書記をやることが決定していまして・・・」と困った顔。

周りを見渡せば、今年初めて、PTA会長をするという人も多く、私と数名だけが経験者だった。

しかし、5分もかからずに、部会長が決まった。
私が手を上げたからだ。
「だって、一年目の人が部会長をやるのは難しいでしょ」
それを聞いて、周りの初めてPTA会長になったという、お母さん方が拍手喝采。

「おれ、かっこいい?」と聞くと、「うんうん。すてき!」だと。

2007年4月21日(土) 新しい法律

市Pの会長さんの半分は喫煙者だ。
仕事では、同じプロジェクトチームの中で20名前後のメンバと活動しているが、喫煙者はそのうち3名ほどなの
で、15%程度の喫煙率だ。
市Pではそれが50%なのだから、会長の喫煙率が高いことがわかる。

市Pの会議中はもちろん禁煙だ。
だから休憩になるとみんな、外へタバコを吸いにいく。
こちらにはまったく害がないので、一向に構わない。

しかし、飲み会のときは違う。
ヤニで黄ばんだ居酒屋の壁が、白い煙で見えなくなる。
スーツで行くと臭くなるので、一旦家に戻って、私服に着替えてから参加するのが私の常だ。

昨日も決算総会の後、市Pのメンバ、つまり、各学校のPTA会長と懇親会に出かけた。
みんながスーツを着ている中、私だけ、ラフな格好をしていたが、そういうキャラで定着しているので、チャラ
チャラしたぞうり履きの格好でも、誰も気にしない。
実際、スーツを着ていると「うわ。今日はスーツや」と驚かれることのほうが多い。

いつものように、喫煙者のテーブルと、健全者のテーブルに別れる。
隣のテーブルから喫煙者のテーブルを見ていると面白い。
薄い明かりの下、みなの口から立ち上る白い煙が、アニメで、賢いウサギにこてんぱんにやられて、ダウンした
狼の頭から上るような白い煙に見えた。

煙たいからタバコをやめればいいのにと、健全者の一人が言うと、別の健全者が馬鹿なことを言う。
「まあ、タバコ吸ってる人はその分、余計に税金払ってくれてるわけやから、ええやん」それにつられて喫煙者
が言う。
「そうや、そうや」

・・・やれやれ。

こういうのはどうだろう。
「喫煙による発病、または喫煙による疾病の悪化、あるいは喫煙による疾病回復の遅れ、のいずれかに該当する
ものは、その医療費及びそれにかかわる費用(交通費など)のすべてを自己負担とし、その費用に関しては医療
控除の対象外とする」

こんなのもいいんじゃないか。
「傷害罪補足 自らの喫煙の煙により、他人に対して、目から涙を流させ、もしくは咳をさせ、あるいは一時的
に味覚を損なわせたものは3千円以下の罰金に処す」

ちなみに、学校の敷地内はようやく今年から全面禁煙になった。
あたりまえだ。

2007年4月22日(日) 新しい先生

「○○(私)さんの学校って何か問題があるんですか?」

しばらく前のこと、別の小学校のPTA会長が私に聞いた。
「なぜですか? 特に問題はないと思うんですが」
と聞き返した。

「いや、うちの学校にいてた優秀な先生が、○○さんの学校に転任しましてね。その先生は生徒にも保護者にも人気があって、その先生が行くとどんな問題も解決するといわれてるんですよ。転任の話が出てきたときなど、保護者たちが転任させないようにと嘆願書を書いたぐらいですから」

ドラマのような先生だが、私の学校に取りとめて問題などないし、どこのクラスを担任するのか見当もつかなかった。

ところが、数日前、嫁さんから話を聞いて驚いた。

その先生は、次女の担任になったという。
そう言われれば納得できた。
今までの担任は、頼りない。

取りまとめの能力とか、リーダーシップとか、親との強調とか、とかく担任としては物足りなさ過ぎる先生だった。
問題児もいて、そのために保護者からいろいろ言われていたようだが、なんら解決策を出すこともできず、結局子どもたちは、一年生にして、「諦め」を悟ったような態度になっていた。

今度の先生の実力がいかほどなのかはわからないが、そこそこ期待はできそうだ。

2007年4月23日(月) 充て職

市PTA協議会の役員会が開催された。

先日まで「広報委員長」としての出席だったので、なんとなく気が楽だった。
というのも、広報委員会と言うもがあるわけではなく、別に誰かと何かを取りまとめるための委員長ではなく、広報を発行するための委員だった。
一人ならば、必然的に、委員長になる、ただそれだけのことだ。
それに私に白羽の矢が立ったのは、単にパソコンが使えると言う理由だけに違いない。

が、今回からは小学校部会長としての出席だ。
小学校15校の会長の取りまとめ役である。
と言っても、きっとジャンケンで負けた人がやってもできるようなことしかしないのだろうが。

会議室に集まると、机を並べ替える。
下っ端で若造の私は率先して体を動かす。
座る席も下座だ。
でも、下座に座っていたのに、少し遅れてきた協議会長は、私の隣に座ってしまった。

今日の役員会のテーマは本年度の予算案作成と「充て職」と言われる、「その役についた人は自動的にこの役も兼任していただきます」と言われる役の割り当て確認。

予算案は例年に倣って作成し、細かな表現の誤りなどを正して出来上がった。
時間のかかった割には内容は変わりない。
まあ、そんなもんだ。
なんたって、誰にも文句を言われないように、慎重に作らなければならないからだ。

で、次に「充て職」。
まあ、なんとなくはわかる。
地区子ども会の会長になれば、校区子ども会の副会長になる、と言うようなものだ。

協議会会長の充て職は10以上ある。
市民祭り警備責任者、市民ミュージカル実行委員などなど、PTA活動と関係あるのかと思うようなものが結構ある。

全役員で20程度の充て職を受け持つことになるが、そのうち協議会会長でなければできないものを除いて、みんなで割り振ることにした。
こういうとき、率先して簡単そうなものを選んでおくほうが、得策だ。

「私、これやりましょか」と指差したのは「公民館運営協議会委員」。
公民館と言えば、嫁さんも毎週のように利用している場所。

どんな仕事があるのか、少し楽しみだ。

2007年4月24日(火) 動いたっきり嫁さん

気がつけば、嫁さんが偉いことになっている。

まず、小学校。
「生活指導委員」
子どもの生活を指導するのである。
お手本である。
大丈夫だろうか。

次に中学校。
「学級委員」
学級の委員である。
と言っても生徒に混じってやるのではない。
その学級の保護者の代表だ。
ま、生徒に混じっても楽しそうだが。

次に高校。
「広報委員長」
こちらは委員長である。
おかげで、副会長である私と、夫婦揃って委員会に出席である。
前年度の会長は今回の委員選出に当たり、今年度のみの「特例」とした。
今後は一世帯に一人だけ、という規約を作ってほしいと言い残して去った。

まだある。
公民館のなんとか委員。
公民館の利用方法をみんなで決めたりするのだそうで、何度か会議に出かけている。

まだある。
ビーズサークルの主催者でもあり、隔週でビーズ教室を運営している。

まだある。
定期的に友達とバザーをしている。

まだある。
小学校のバレーボール部員として活動している。

まだある。
次女がジャズダンスと、スイミングを習っているので、そこでお世話をしている。

まだある。
次女が最近始めた市民ミュージカルでもお手伝いをしている。

まだある。
子ども会のすべての活動には、必ずと言っていいほど参加し、私の代わりに会議に出席することも多い。
そこでの仕事ぶりは班長や地区長なみだ。

おまけに。
パソコンで仕事をしている。

おまけに。
「私がやめると友達が一人になるから」といって別の仕事に出かけている。

おまけに。
私の話し相手であり、嫁さんである。

そして、それらの活動の合間の時間帯はすべて子どもたちの母親だ。

きっと嫁さんは分身の術が使える。

2007年4月25日(水) シャンシャン

小学校のPTA総会が開催された。

「総会」とにもいろいろある。
「PTA総会」「株主総会」「組合員総会」などなどさまざま。
しかし、どれもみな「重要なことを会員みんなで決めるための会議」に変わりはない。
また、一般に「重要なこと」にもパターンがあって、「役員の承認」「決算や予算の承認」「会則改定の承認」などがほとんどだろう。

小学校PTA総会も同じだ。
今日開催されたのは「18年度の決算、19年度の予算、役員の選出」の三つを会員のみんなに「承認」してもらうことが目的だった。

ほとんどの総会はあらかじめ決められた台本に沿って話が進められる。

司会が話を進めるが議事を進めるのは「その場で選出された」議長が行う。
「どなたか議長をやっていただけるかたはいませんか?」と司会が会場に尋ねるが、無論そこで手を上げるものなどいない。
最初から議長をする人が決まっていて、すでに進行用の台本が渡されているからだ。
一度ぐらい手を上げてやろうかと思うが、別に意味もないし、誰のためにもならないのでやらない。

小学校で議長に選ばれるのは地区長と決まっていて、毎年、各地区が持ち回りで行っている。
台本を棒読みで議題を進行していく。
「それでは前年度の決算報告を行います。会計の先生、お願いします」
先生から報告をする。
途中で計算結果が間違っていてもそれを指摘する人などいない。
読み上げたあと、本人が気付いて訂正することもある。
なのに、その後の会計監査は「報告の通り、間違いありません」と締めくくる。

議長は台本を読みながら、「異議のある方はいませんか?」と会場に問いかける。
異議を唱える人はいない。
「異議がなければ拍手で承認したいと思います」となって「パチパチパチ」。
いわゆる「シャンシャン会議」だ。

実際にその場で何かを決めたりすることはないので、一年を通じてもっとも「形式的な」会議と言え、もっとも気楽な会議だ。

2007年4月26日(木) 最後の砦

私の担当ユーザはいくつかあるが、そのうちのひとつの物流業者は全国におよそ200の拠点を持っている。
そしてその一箇所ごとにサーバと呼ばれるコンピュータの親玉が設置されている。

ユーザ先で毎月行われる報告会議では、その各所のサーバで発生した障害の報告も行われる。
一ヶ月当たりの平均障害発生件数、10件。
およそ三日に一回は何らかの障害が発生している計算だ。

「プリンタのインクの出が悪くなった」というような軽いものから「サーバの電源障害によるシステム半日停止」というような重いものまである。
以前に比べ、ハードの一部障害ぐらいでは、特に業務に支障なく運転が継続されるような、仕組みになっている。
例えば、ディスクは複数台の組み合わせで運転しており、そのうちの一台が壊れたとしても残りのディスクで継続して運転が可能なので、後は壊れたディスクを適当な時間に交換すればよく、特に難しい技術を必要とすることはないので、現地のハード専門の技術者だけで対応ができる。

だから、三日に一回の障害といっても、ほとんど私が対応することはないし、事後報告を聞くだけだ。
しかし、ディスクを交換しても動作がおかしい、あるいはサーバがダウンしたまま再起動できない、と言うような障害の場合は、私の出番だ。

「助けて下さい」と連絡が入り、様子を聞きながら対処し、やがてシステムの復旧にこぎつける。
これが私に課せられた使命だ。

24時間365日、いつ「助けてください」の連絡が入らないとも限らない。
休日だから対応しない、深夜だから時間外、などと断ったことはない。
また断ることもできない。
しかも、このユーザの面倒を見ているのは私一人だけ。
他に誰かに頼める仕事ではない。
そういうプレッシャーを重荷に感じたことは数え切れないほどある。

しかし、私を頼ってくれている人がいるから頑張れるのだ。

「ああ。助かりました。普段は我々で対応できるんですが、こういうときは○○(私)さんしかいないんです。○○さんは私らの『最後の砦』ですから」。

2007年4月27日(金) おめでとうなのに

予定していたよりも2時間ほど遅れて始まった飲み会。

このメンバーで遅い新年会を終えて「次の飲み会はいつにしようか」と話をしていたのは去年の一月の終わりごろ。
実に一年3ヶ月ぶりの顔合わせだ。

今日はたまたまメンバー全員が思っていた以上の仕事に追われていた。
18時に開始できるはずだったが、誰ともなく「15分待って」と言った。
ところがその時間が迫るにと別のメンバーが「もう少し待って」と言い出した。
後はそれの繰り返しで、ずるずると開始時刻が延びていった。
おそらく、ほうっておけばまだまだ仕事をし続けるということを、それぞれに感じていたのだろう、15分刻みで「もう少し待って」と言い続けていたのに、20時を目標に設定すると、それ以上は誰も「もう少し待って」と言わなくなった。

かくして、一応仕事は片付いた、といいつつ、仕事の携帯電話を気にしながら、みんなで店に向かった。
「みんな」といってもいつもの野郎と女性が一人。
三人なら、連休前の金曜日とはいえ、予約なしで問題なく入れるお店が何件かある。

合言葉のように「生中三つ」と注文して、ビールが運ばれてくるのを待つ。
他の二人はいざ知らず、私はこの瞬間、とてもわくわくする。
運ばれてきたビールを見る私の目は、とてもうれしそうに違いない。
「おつかれさーーん」といってグラスをあわせ、一気にビールを飲む。
まさに至福のひと時。

一年ぶりの顔合わせ。
顔を見ながら飲んでいるだけで楽しい。

そろそろ帰る時間を気にしなければならなくなったころ、女性がぽつりと言った。

「私、6月で辞めるねん」
「え?」

驚く野郎と私。

他県の彼のもとへ嫁ぐらしい。

私はなんだか少しテンションが下がった。
こんなことなら、もっと早くに飲み会をしていればよかった。
「毎月にでもやろう」と決めていたのに、「忙しいから」とずっとのびのびにしてしまった。
そう思うと、残念な思いがこみ上げてきた。

「もっとお祝いしてくれるかと思ったけど、なんだかしんみりしちゃったね」と彼女がつぶやく。

いや、お祝いしていないわけではない。
もちろん、友達が幸せになってくれるのはうれしいに決まっている。

それでもやっぱり、よく晴れた、暖かく眠気を誘う春の日が、三日間ほど土砂降りの雨に変わったような、そんな悲しさがあった。

2007年4月28日(土) 一家族から

高校での役員と実行委員会。
新しい役員が顔を合わせるのは、今日がはじめて。

小学校や中学校と同じで、実際にいろんな作業をする実行委員会をまとめているのが役員会であり、実行委員会の前に役員会が開催される。
小中学校と同じように校長室に集まり、実行委員会で何をするのか、簡単に打ち合わせをする。

連絡事項と行事計画の確認をする。
毎年あまり大きく変わることはないのでそれほど頭を悩ませることもない。
そんな中にひとつ、いつもなら話題にならないようなことについて確認があった。

「一家族から役員と実行委員を選出しても問題ないか」というものである。

役員や実行委員を喜んで引き受ける人はそういない。
だから委員選出の担当者は毎年、頭を悩ませているのだし、小学校の委員活動の中でも、「最も苦労したこと」といわれるのだ。
にもかかわらず、一家族から、役員と実行委員を務める家庭が現れるなんて、想像もしなかっただろう。

無論、私と嫁さんのことだ。
これまた「前代未聞」に違いない。

前年度の会長が「今年は例外にしてほしい」と言い残していたので、役員会で確認することになったのだ。
当の本人なので私は何も口を挟まなかったが、やれる人がやればいいわけで、何も一家族一人と限定する必要はない。
一族で「役員」をやってもいいと思う。
いやだったら、総会で承認しなければいいし。
そのための総会なのだ。

なにより、文句があれば自分でやればいいのだ。

結局、投票権は一家族に一票、複数委員の選出は可能、ということで落ち着いた。
ま、そんなもんだろう。

2007年4月29日(日) 昭和

去年まで今日は「みどりの日」だったが、今年から変わった。
今日は「昭和の日」である。

年号は何も「昭和」だけではない。
「明治」や「大正」もあるし、「慶応」だってある。

なのになぜ「昭和」なのか。

祝日法によると「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日らしい。
確かに、第二次世界大戦の前後で日本は大きく変わった。
その指針となった日本国憲法の発布の日が祝日であるならば、そのきっかけを作ったこの時代そのものが何らかの記念日となって残っていてもおかしくはない。

「激動の日々」や「復興」を身近に感じたことはないが、それでも私が昭和生まれで、その私の子どもが平成に生まれたことからも、昭和は私の人生の節目であった。
昭和という時代は、私の人間形成の時代であり、私の個人史においてはまさに激動の時代だった。
それが平成に入り、結婚と子どもの誕生を経て生活も安定した。

嫁さんと二人、近所の公園を散歩した。
藤棚の藤の花がとてもきれいだった。



今、嫁さんとこうして、花をめでる余裕があるのも、あの昭和があったからだと思った。

2007年4月30日(月) イチゴ狩りの下見の帰り

昼飯を食べ、天気のよい外に出た。
よし、と一人うなづき、イチゴ狩りの下見に出かけた。

昨年、子どもたちを連れて行ったのと同じ場所ではあるが、今度のイチゴ狩りは100名近くの人と出かけるので、念のための下見である。
このゴールデンウィーク中は特に出かける予定もなく、子どもを遊びに連れて行く約束もしていなかったので、長女と次女を連れて出かけることで、少しお茶を濁そうと考えたのだ。

娘二人と各駅停車に揺られて40分、車窓の風景は目的地に近づくに連れて様変わりしていく。
電車を降りると空気の香りが違う。
木々の間を渡ってきた独特の香りで、思わず深呼吸してしまう。

目的のイチゴ農園まではここから徒歩5分ほどのところだが、暑いほどの天気なのでとりあえず飲み物を確保する。
私はもちろんビールだ。

民家の間の急な下り坂を歩いていくとやがて畑が目に入る。
当たり前のことなのだが「ああ。畑があった」とほっとする。
あぜ道を少し入っていく。
黒いマルチシートに覆われた畝(ウネ)がイチゴ畑だ。
その畝の上に赤い実を見つけてまた一安心した。
当日になればもっとたくさんの赤い実ができている予感がする。

イチゴ畑の後に川遊びをする公園への順路も確認した。
そして帰路に着いた。

帰りの電車の中。
いつもこの電車は空いている。



私と二人の娘の貸しきり電車。
のどかな風景の中、徐々に都会へ向かうこの電車がなんだか特別な空間のように感じた。

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