カリント日記

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2008年1月1日(火) 初日の出

元日である。

よく元日のことを「元旦」という人がいるが、「元旦」は「元日の朝」のことであって、昼を過ぎればもう、元旦ではなく、元日だ。
そもそも「元旦」の「旦」の文字は地平線から日が昇っている様子、つまり朝日を示しているのである。
その意味を知っていれば、元日丸一日を元旦だと思い込むような間違いは起こさない。
「今日は元旦です」などという文章を見るたびになんだか寂しい気持ちになる。

私はまさしく「元旦」から仕事だ。
終了予定時刻は二日の昼過ぎ。
連続30時間にも及ぶハードな仕事だ。

まだ夜が明けぬ時間、寝ている家族を起こすことなく、一人こっそり家を出る。

列車を乗り継ぎ、モノレールに乗るころ、だんだんと空が明るくなってきた。

いくつか駅を通り過ぎたころ、しばらくして車内に光が射してきた。
初日の出だ。



逆光で、しかも、不安定な体制で撮影した写真はあまり見られたものでもない。
しかし、初日の出をカメラに収めたのは人生初めてのこと。

何もなければこの日記には仕事の思い出しか残せないかもしれないが、こうやって写真を残しておけば、初日の出の記録として残せると思ったからだ。

2008年1月2日(水) 正月の鍋

徹夜作業を終えて、疲れた体で自宅に戻る。
でも、そのまま寝るわけにも行かない。

今日は年に一回、親戚が集まる日だ。
親戚と言っても数は少なく、六畳一間に集まって鍋料理を食べられる程度の人数だ。
でも、母親の兄弟とその家族が集まるイベントで、母も子供たちも楽しみにしている。
その集まりに家族みんなで出かけていった。

私の自宅から車で十分ほどのところに祖父の家があり、そこが毎年の集合場所になっている。
年末に餅つきをするときもこの場所に来たが、それ以外一年の間訪れることがなく、この時期だけ集中して人が集まるのだ。

夕方から徐々に人が集まり始め、私は、家に着くなりビールを飲み始めた。
嫁さんは姑や小姑の中に入ってよく働いている。

やがて目の前に、いつもの鍋料理が並ぶ。





なんの工夫も変哲もない料理。
それでも、この料理は、年老いたものや子どもたちを、いい笑顔にするには十分な魅力を持っているのだ。

2008年1月3日(木) 正直な目覚め

昨日は40時間以上眠らずに過ごしたうえに、すきっ腹にビールを流し込んだせいだろうか、日の変わらぬうちに気絶するかのように意識がなくなり、どこをどう帰ったのかもわからぬうちに今朝を向かえた。

嫁さんや長女の話では、昨夜の親類との飲み会のあと、呼んでもらったタクシーに長男と長女に付き添われて乗り込んだにもかかわらず、自宅近くのコンビニでビールを買い込み、自宅に戻ってまだ飲んでいたらしい。

それでも今朝は早くから仕事があるという意識だけが強く残っていたおかげで、目覚ましもなく、6時過ぎに目が覚めた。

普段、どちらかといえば遅い時間まで寝ている私だが、朝早くから仕事に出かけなければならないときは、目覚ましがなくても、ほぼ間違いなく起きようと思っていた時間に目が覚める。
その正確さは驚くばかりで、調子のいいときは3分とずれない。

まだまだ寝不足ではあるが、これからやらなければならない仕事があるとなると、活動を始めないわけには行かない。

PTAや子ども会の活動では、いざというときの私の代役はいるが、仕事ではそれがない。
私がいなければ、その分だけ、仕事が前に進まない。
後で謝って済むような問題ではないのだ。

初日の出を見た元旦と同じように、モノレールに揺られて向かう先は、徹夜で仕事をしたところと同じ場所。
もう、向かいたくないというのが正直な気持ちだが、それを振り払って仕事場へ向かう。

こんなにいやなことでも、きっちり目が覚める自分の馬鹿正直さを思い、口元をほころばせながら。

2008年1月4日(金) 年賀状の向こう側

ようやく、休暇。
無事にプロジェクトの山場を越えて、ゆっくりした気分になる。

テーブルの上に束になった年賀状を手に取った。
今年もたくさんの年賀状をいただいた。
PTA会長や市子連の評議委員をやっていると、教育委員会や市会議員からも年賀状が来て驚く。
それにしても、顔見知りでもないのに「会長」や「評議委員」という肩書きを持つと、それだけで年賀状が増えるのだからおかしなものだ。
こんなものを送ってくるから、「PTA会長」というとみんな構えてしまうのだ。
「PTA会長」といえどもただのおっちゃんであって、特別な権力を持っているわけでもなければ、大きな影響力があるわけでもない。
できないことはできないし、できることしかしない。

私も、PTA会長や市子連の評議委員という立場を考えて年賀状を書いていたなら、あと50枚ぐらいは増えるんじゃないだろうかと思い、つくづくそんな立場でも年賀状のやり取りに疑問を感じる。

古くからの友達の年賀状を見る。
年賀状の写真に写っている子どもたちは年々大きくなり、だんだん友人に似てくるので、それだけでほほえましい。

年末は忙しくて自分の分を書くことができなかった年賀状を書いてみる。
いつものようにパソコンで、文面を書く。

そういえば、同じ会社に入った同期と知り合って、今年は20年になる。
年賀状の向こう側にいる同期の顔を思い浮かべると無性に遭いたくなった。

北海道から九州まで、日本各地に散らばってしまった同期に遭うのは、現実的には難しいことだけれども、遭おうとしなければ決して遭えない。

念頭にそう思った今年は、いいチャンスなのかもしれない。

2008年1月5日(土) 高校の指名委員会

新年早々、高校の実行委員会である。
13時から役員会を一時間ほどやり、その後14時から実行委員会。
卒業式までのイベントなどを確認する。
いつもと違うのはその後に開催された「指名委員会」。

指名委員会というのは次年度の役員や実行委員を選出するための委員会。
要するに次年度の候補者を探してお願いする係りだ。
これがやはり小学校や中学校ほどではないにしても、選出にはかなり苦労するようで、指名委員に選ばれるのはそれぞれの実行委員の長副など、それなりに経験や人脈を持っているものばかりだ。

私と嫁さんもその指名委員に入っており、次年度の候補者を探さなければならない。
すでに何人かめぼしをつけており、嫁さんは後任を見つけているようだ。

私はどうだろうか。
長女がめでたくこの学校に入学すれば、間違いなく会長を指名されるだろうが、そうでなければ誰かを見つけなければならない。

私のめぼしをつけている人が受けてくればいいのだが。

2008年1月6日(日) 幸せもの

朝昼兼用の食事を取り終えて、一息ついたころに言った。
「さ。そろそろ仕事に行かないと」
すると嫁さん膨れっ面をして言う。
「えーっ。聞いてへんでー」

我が家の場合、私が休日に仕事をすると言い出すと、私と遊びたい盛りの次女のみならず、嫁さんまでもが不機嫌になる。

「えーっ。仕事に行くのぉー」

嫁さんの友達の家では、休日に家でごろごろしているお父さんはやはり厄介者らしく、かといって家を空けてパチンコにでも行こうものなら、奥さんの非難を浴びることになる。

休日に仕事へ出かけることを不満に思う奥さんは我が家だけではない。
ただ少しニュアンスが違う。
他の家庭では「休日ぐらい、家の手伝いをして」とか「休日ぐらい、子どもたちと遊んでやって」と言う理由から不満を漏らす奥さんが多い。

しかし、私の嫁さんは、純粋に、私がいないことが嫌なようだ。

それが証拠に、一日中寝ていても文句を言うわけではないし、子どもが遊んでくれと駄々をこねていると、「お父さんの邪魔をしてはだめ」と叱ってくれる。
黙っていても時折、「コーヒー飲む?」と聞いてコーヒーを入れてくれる。
まあ、それだけ普段仕事をしているから、たまには休憩させてやろうと言う気持ちがあるからだろうし、これが毎週続けばさすがに嫁さんの態度も変るかもしれないが。

それにしてもつくづく私は幸せ者だと思い、後ろ髪を引かれる思いで家を後にした。

2008年1月7日(月) リウマチ

昨年晩秋から左手の中指が痛くなり始めた。
最初は突き指か捻挫でもしたのだろうと思っていた。

この痛みは不思議なことに、寝起きのころに痛くなり、しばらくすると痛みが消え、日中はなんでもないのだ。
それが年末あたりから痛む箇所が広がり始め、今では、左手の指全体が痛い。
しかし痛むのは相変わらず朝だけ。

朝の痛みはかなりのもので、曲げようとすると痛みで曲げられず、無理に曲げようものなら親指を除くすべての指に突き指したかのような激痛が走る。
嫁さんに手をマッサージしてもらうとだんだんと痛みは薄れ、仕事に出かけるころにはまるでなんともなかったかのように痛みも消える。

日常生活には支障はなく、物を持つこともできるし、こうしてパソコンで日記を書くこともできる。

でも心配なので調べてみた。

症状からするとどうやらリウマチではないかと思う。
リウマチの発生原因は難しくてよくわからないが、疲労やストレスでひどくなることもあるという。
リウマチがひどくなったときは安静にしている必要があるとも書いてあった。

さすがに安静にはしていられないが、それでも医者には行く必要があるだろう。
何しろ、痛いのである。

これがもし、朝だけではなくて昼間も続くとしたら仕事どころではなくなるからだ。

それにしてもお年寄りがかかる病気だと思っていただけに、正直ショックだ。
なによりこんな痛い病気と戦うお年寄りをとても気の毒に思った。

2008年1月8日(火) 迷子じゃない

小学校二年生の次女が迷子になった。

今日、学校が終わってから嫁さんは友達と一緒に、子どもを連れて近くのデパートに買い物に行った。
嫁さんが卒業式に着る服を物色している間、退屈した次女は「ちょっとゲームしてくる」と言い残し、その場を立ち去った。

嫁さんが服を選び終えて次女が居るはずのゲームコーナーへ向かった。
しかしそこに次女の姿はない。
同行した友人と次女を探すこと30分。

「うーん。仕方がない。迷子の呼び出しをしてもらおう」と迷子センターへ。
しかし、そこで嫁さんは考えた。

「あ。すみません。迷子ではなく、普通に呼び出してもらえますか?」
「え?大丈夫ですか?」
迷子センターの人が心配するのも無理はない。
同行した友人の子どもは、親とはぐれれば、5分以内に迷子センターのお世話になるぐらいだ。
小学校二年生といえばそういう年代である。

「ええ。待ち合わせで呼び出してください」
「承知いたしました」

「お呼び出しを申し上げます。小学校二年生の○○ちゃん。お母さんがゲームセンター入り口でお待ちです」

しばらくすると次女がニコニコしながら現れた。
「なんで?え?わからんかった?」
まったく平気である。
というか、この放送を聴いて、ここに来たというのが、正直驚きである。

思い返せば我が家の子どもは迷子になったことがない。

長女は電車に乗って出かけた遠くの駅で親とはぐれたとき、駅前のデパートで親を呼び出し、「ここで待ってます」と言って、デパートの入り口で店員に用意してもらった椅子に腰掛け、親を持ったいたのはやはり小学校二年生のとき。
親のほうも、きっとここに居るんじゃないかとそのデパートに入って、入り口に座っている長女を見つけた。
まるで普通の待ち合わせをしていたかのように再会した。

長男にいたっては、幼稚園児のころから本人は迷子になったという自覚がない。

親がしっかりしていないと、子どもがしっかりするのだろうか。

20歳を過ぎて親にお年玉をもらっている、という恥知らずな人の話を聞いて、「それに比べてうちの子供はしっかりしている」という話になった、親バカな夜である。

もちろん、我が家では18歳の長男どころか、小学生の次女にさえ、お年玉やらない。

2008年1月9日(水) 早い登校

長女がやたらと早く学校へ行く。
おそらくみんなが登校する時間より30分は早いんじゃないだろうか。

嫁さんが言う。
「なんか、もう卒業やと思うと、寂しいらしい」
少しでも学校に長い時間いたいのだろうか。

私が中学校のころ、そんなことは微塵も感じなかった。
学校が嫌いで、友達に会えないから寂しい、ということもなかった。
毎日、学校へ行くのがいやで、そして早く帰りたい、と思いながら過ごした。
だから今の長女の気持ちが少しうらやましい。

学校が楽しい場所であることはとてもいいことだ。
きっと先生や友達に恵まれたのだろう。

もうすぐ、高校受験。
今の成績なら希望がかなう。

高校も、中学校と同じように好きになってほしいものだ。

2008年1月10日(木) 病院へ

近くの整形外科に行ってみた。
美容整形ではない。
ちなみに美容整形をするのは「整形外科」ではなく「形成外科」だ。

整形外科へ行ったのは年末から痛んでいる指の診察のためだ。
仕事へ行く前にネットで検索して見つけた自宅近所の病院へ行った。

「整形外科」の文字と並んで「リハビリテーション科」「リウマチ科」と書いてある。
なんとなくそんな気はしていたが、中に入って思わずた「うわ」と声が出た。

十二畳ほどの待合室にお年寄りがぎっしりなのである。

背中の曲がったお年寄りや、杖をついたお年寄りが談笑している。
受付にたどり着くまで、身の丈が私の半分ほどしかないようなお年寄りたちに当たらないように慎重に歩かねばならなかった。

幸い、多くのお年よりはリハビリが目的であったため、私は30分ほどの待ち時間で診察を受けることができた。

症状を話すと、しばらく私の指を触診し、その後、握力を図ってみたが、いつもと変わらぬ数値で、特に異常はない。
そこで、レントゲン撮影をするという。
外見に異常は見られないから、レントゲンで骨の状態を見るというのは正しい判断だ。
でも、それにも異常が見られないという結果は最初からわかっていた。
早く血液検査すればいいのに、と思っていた。

「うーん。症状からするとリウマチの可能性がありますが、骨には異常がないようです。血液検査をしましょう」

思ったとおりの展開になんだか安心する。

新人の看護婦でも間違いなく採血ができるというほどに、血管がはっきりと浮き立つ私の腕に、注射針が差し込まれると、真っ赤な血液が注射器の中に溜まった。

腕に貼られた絆創膏のずれを少し気にしながら医者の話を聞く。
「採決をしたが結果がわかるのは一週間後ですので、またきてください」という。

早く知りたいところではあるが、まあ、時間がかかるというのなら仕方があるまい。
結局、リウマチなのかどうかは来週にならないとわからないようだ。

2008年1月11日(金) 新年の礼会

先日開催された市PTA協議会主催の新年互礼会。
市内の各学校PTA役員や校長、教頭、それに教育委員会や市議、府議を来賓として招聘して開催される、交流会のようなものだ。
総勢150名程度を収容できるのは、このあたりでは名の知れた大きな宴会場しかない。

会場の座敷に入ると、ずらっと膳が並べられている。
入り口には座席表があり、それにしたがって自分の席に着く。

それぞれの学校ごとにまとまって座るのだが、協議会役員である私は来賓と一緒に座らなければならない。

来賓である教育委員会の中にも知り合いがいるので、できればその人たちと同じ席になりたかったが、それはかなわなかった。
まあ、それならそれで、今回をきっかけに知り合いになればいい。

形どおりの挨拶が長々と続き、ようやく乾杯となる。

その後はもう、ひたすらに飲む。

最初に私の席にお酒を注ぎに来てくれたのは、以前、全国大会に参加したとき、同じ部屋になった学校の校長先生だ。
全国大会のときからフットワークが軽かった。

しばらくして市議会委員がきた。
私と同じ小学校で、PTA会長を務めた人であり、私の肩をたたき、「もうね。○○(私)さんにはかんばってもらってるからね。○○さんに任せておけば安心だからね。これからもよろしく頼みますよ」と社交辞令を述べられる。

私もとりあえず、挨拶に行く。
まずは、市子連で知り合った、お母さん。
市子連の忘年会でピンクレディーの曲を振り付けつきで踊って盛り上げた人だ。
次に同じく子ども会でお世話になっている市教委の人に挨拶に行った。
それから中学校や小学校の先生のところへも。

広い会場の端から端までまわって疲れて戻ってきた。

なんだか飲み足りないな、と思っていたが、案の定、終電がなくなるまで二次会のカラオケで盛り上がってしまった。

2008年1月12日(土) リモコン

久しぶりに今日は仕事をせずに、昼過ぎまで寝ていようと決めた。
それでも9時過ぎには目が覚めた。

布団の中からテレビをつけてボーっと眺める。
布団の中からリモコンでテレビを操作できることも今では当たり前のことだが、私が子どものころには夢のような装置だった。
当時、お金持ちの人の家で見た、電気かみそりのような形をしたリモコンには、ボタンが三つあって、それぞれ「音量大」「チャンネル」「音量小」と書いてあった。

そのリモコンを操作すると、まるでテレビの前に透明人間がいて操作しているかのように、ガチャッガチャッと、テレビのチャンネルが回るのだ。
音量も同じように小さなつまみが右に左に回転した。

そんなお金持ちの広い居間にしかなかった様なリモコンも、今では子ども部屋で無造作に転がっており、通りすがりの猫がボタンを踏むと、チャンネルが変わってしまう。

そういえば、私の周りはリモコンだらけ。
蛍光灯もリモコン操作で、つけたり消したりするため、ブランとぶら下がっている紐がない。
だから、リモコンの電池が切れると、灯りはつきっぱなしか暗いまま。
最近、購入したDVDのリモコンには40個ものボタンがついているが、長男や長女はそのすべてを器用に使いこなす。
エアコンだってリモコン操作なので、電池が切れると汗をダラダラ流すか、寒さに震える羽目になる。

便利なんだか不便なんだか。

2008年1月13日(日) 会議欠席

昨日、市PTA協議会の役員会議があった。
と気がついたのは今日の夜。
今までに仕事の都合で役員会議を欠席することはあったが、忘れてしまったのは初めてだ。

今回の会議開催が決定したのは三日ほど前のこと。
臨時で開催を決定し、日時と場所は即日メールで配信されていた。
私の携帯電話にももちろん送られてきたし、パソコンで確認をしてスケジュールにも書き込んでいた。
にもかかわらず、忘れたのは、肝心のパソコンのスケジュールを見ない日が続いたからだ。

パソコンのスケジュールはとても便利だ。
加工もしやすいし、色分けして書き込んであると視覚的にも理解しやすい。
しかし、唯一、「すぐに見る」ということができないのが欠点だ。
パソコンを起動しなくてはならないから当たり前のことなのだが。

それもあるが、最近はやたらとメールが多く、あまり頭に残らないのもひとつの原因だ。
メーリングリスト乱用の弊害だろう。

せめて新年の挨拶をメーリングリストで送ることは控えるのが常識だと思うが。

2008年1月14日(月) 自治会新年会

今日は自治会の新年会だった。

仕事があったので予定時刻より遅れて参加する。
嫁さんも家事を済ませてからの参加だったので私と一緒に遅れて参加した。
夫婦で出席しているのは我が家だけだ。

いつもの宴会場の座敷に入ると、会長が笑顔で手招きする。

「おーおー。きたかきたか。こっちこっち」

会長、書記、会計、と自治会の役員が並ぶ、上座の対面だけがきれいにあいている。
私は会長の前に、そして嫁さんは誰かの前に座った。
何度か顔を拝見したことはあるが誰だかよくわからないその人に、会長が丁寧な言葉で話をしていた。
この町内の世話役で、資金面では絶大な協力をいただいている人だった。
子ども会でも何度もお世話になっている、この町一番の会社の会長さんだ。

自治会長が私を紹介する。
「この○○(私)くんは、小学校の子ども会会長ですわ」

学校に子ども会はない。
学校と子ども会と一緒にされては困る。

「あ、いや、子ども会の会長はこの町内のことで、学校ではPTA会長やらせてもらってます」
「おお、おお。PTA会長を。実は私もな、昔、そこのPTA会長やったんじゃ」

会社の会長さんは大先輩のPTA会長だった。

結局、2時間ほど、自治会会長と、会社の会長の相手を嫁さんと二人でしていた。
嫁さんにしてみれば、私も含めて3人の会長をしていたわけで、さぞかし疲れたと思う。
おつかれさん。

2008年1月15日(火) DR企画

よく職種を聞かれて困るのだが、世間的には「システムエンジニア」ということになっているし、それで認知されているようだ。
でも、自分自身この仕事の定義がよくわからない。
ただ「コンピュータの何でも屋」と言っても間違いではない。

今、やっている仕事は「DR企画」という。

DRとは「Disaster Rrecovery(ディザスタ リカバリ)」のことで、日本語にすると「災害復旧」ということになる。
コンピュータでも災害復旧は欠かせない。
地震のときにコンピュータシステムが停止すると、社会生活に支障をきたす。
それに備えて、災害時に、いかに迅速に復旧できるか、を検討して企画し、それを企業に提案する仕事だ。

いつもの技術的な仕事ではなく、むしろコンサルティングに近い。
コンサルティングというのは簡単に言えば「ここは、このように影響があるので、このようにしたほうがいい」とアドバイスする仕事だ。
しかし、一般的には専門的な知識を有する特殊な仕事で、それなりに費用も高い。

今回の仕事は、単独でやっているわけではなく、私が請け負った仕事の一部であるので、カリントとしての収入に変更はないが、客先はそれなりの費用を支払っている。

だから客先はそれなりのものを要求している、
とはいえ、私には経験のない仕事。
何とか連休に時間を掛けてそれなりのものを作ったが、お客の目にはどのように映ったか。

来週も同じような資料を提示しないといけないかと思うとちょっと憂鬱だ。

2008年1月16日(水) PTA活動再開

先日臨時の小学校PTAの役員会を開催した。
この季節に開催される、PTA主催による行事を行うためだ。

PTA主催と言っても準備や段取りはすべて役員が行う。
「行事」という漠然とした表現になっているのは、「講演会」を開催するときもあれば、何かを見学することもある。

要するに一年の総括として最後に何か、役員が主体となって行事をしようということらしい。
あまり意味のない行事は避けたいのだが、慣わしとなって開催されている行事を私の意見で中止するわけにも行かない。
あれもこれも面倒だ、とか、どういう意味があるのか、などと言い出したら、きりがないからだ。

今年は講演会をすることになった。
講師は同じ市内在住の小学校の先生。
別の団体向けの講演で、非常に好評だった内容で、参加した保護者たちから「是非みんなに聞いてほしい」と声が上がってきたものだ。

その段取りを決めるために仕事を終えてから学校に集まった。
久しぶりに役員と顔を合わす。
当日の簡単な段取りを確認して、本題は終了した。

でも、その後は、次年度委員選出の話になった。

昨年、あれだけ考えてこれしかない、という結論に至った委員選出方法。
だが、やはり自信はない。
万人を納得させる方法などないのだが、そうはわかっていても、どうにかして理解を得たいと、悪あがきをする。

PTAの正月休みは終わった。
これからまた忙しい季節がやってくる。

2008年1月17日(木) 安らぎのとき

久しぶりに焼き鳥屋に行く。
最近は飲みに行く回数もめっきり減った。
毎月、必ず「定例会」と称して飲みに言っていたころが懐かしい。

仕事場から歩いてすぐのところに、いくつか飲み屋があるが、その中でも安い店だ。
安いだけに人も多く、少しうるさいのだが、今日はビールさえ飲めればいい。
いや、もっと正確に言うならば、外へつれと飲みに行く時間のあることが実感できればそれでよかった。

仕事に追われる毎日で、新年会などの付き合いはあるものの、気のおけないもの同士、ゆっくりと馬鹿な話をしながら飲める時間というのはなかなかなかったからだ。

よく行く店ではあるが、店員に顔を覚えてもらえるほどには通っていない。
お気に入りの座敷が空いていたのでそこに通してもらい、とりあえずはビールを頼む。

この年齢になると、とりあえずのビールを頼んだ後は焼酎などを飲むのが世間一般のようだが、私はその後ビールを2〜3杯、お代わりするのが慣わしだ。

鳥の刺身盛り合わせと、出汁巻きを注文し、最近の話などをしながら酒を飲む。
周りから聞こえてくる、サラリーマンの酔っ払った笑い声さえ、今の私には安らぎの音に聞こえる。

2008年1月18日(金) フェスティバル会議

私の住んでいる市内では、中学校ごとの地域でいろんな催し物をしている。
私の住んでいる地区も例外ではない。

私の住んでいる地区では「地域フェスティバル」なるものが毎年、開催される。
小学校はいずれかの中学校校区に属するため、PTA会長である私も、その中学校単位の地域フェスティバルの実行委員となっている。
その集まりが今日開催された。

定刻より少し早めに長女の通う中学校にいくといつもの校長先生が笑顔で出迎えてくれた。
「寒いですねー」とありきたりながら、今日は本当に寒くて、今日はこの言葉がしっくり来ると思いながら挨拶をした。
しばらくして同じ中学校校区の、別の小学校の会長や校長先生も集まってきた。

会議と言っても、中学校の教頭先生がほとんどの段取りを考えてくれているので、我々はそれを確認するだけだ。
タイムキーパー、舞台誘導、入場整理、受付、などいろんな仕事がある。
その分担を確認した。
PTA役員もいれば、地域コーディネーター、子ども会の役員、など、さまざまな顔ぶれが協力して担当する。

各校区の町内会へ配布するために用意された数千枚のきれいなチラシは、長女のクラブの2年生達が作成したものだった。
「これね、この子達が作ったんですよー。で、名前はこのまま残そうと思って」と、そのチラシにかかれた生徒の名前を見ながら、うれしそうに校長先生が話をしていた。

当日は自転車整備に各小学校の保護者の方々にお手伝いを依頼している。

地域のみんなで行う手作りのフェスティバル。
今年も成功してほしい。

2008年1月19日(土) 老いと成長

世間ではセンター試験のようである。
って、他人事ではない。
長男も受験で、そんな気配を微塵も感じさせないまま、会場へと向かった。

私が受験生だったころはまだ「共通一次試験」と呼ばれており、国公立の大学を目指すものが受ける試験であった。
私も受験したものの、目標の学校のボーダーラインにははるか及ばず、結局、別の大学に入学することにしたという、苦い経験がある。

いまや時代は変わり、センター試験は多くの私立学校でも採用するようになった。
内容も様変わりし、すべて科目を受験する必要はなく、長男のように今日だけ受験して、明日はのんびり家で過ごす、という選択肢もある。
まあ、長男がのんびり過ごすのは明日に限ったことではないが。

以前はよく、新聞に掲載された問題を解いては、俺もまだまだできるな、などと一人悦に入っていたが、先日長男に勉強を教えていて、さすがに限界を感じた。

難しいじゃないか、物理。
まったくわからんぞ、英語。
何を言ってるんだ、漢文。
どこの国の話だ、日本史。

嫁さんは、私ならまだまだ長男に勉強を教えられる、と思っているようだが、高校三年生に勉強を教えられるのはもう無理だ。
長男が本気でかかってきたら、力だけではなく、頭でさえも、負けて仕方がない。

老いと成長がクロスするころなのだ。

2008年1月20日(日) 役員保留

土曜日に高校で「指名委員会」が開催された。
次年度の役員や実行委員を選出するための打ち合わせだ。

実行委員は、今の実行委員すでに次年度の候補者の当たりをつけており、ほとんど決まっていたもで、話はとんとん拍子に進んだ。
そして残ったのは役員。
役員選出には担当の先生も頭を痛めている。

今の会長は3年生の保護者。
副会長である私も3年生の保護者。
一緒にやっているほかの役員は2年生の保護者であるが、いずれも女性で「会長はできない」と言っている。
本当は辞めたがっているのだけれど、来年度、私がこの高校の会長をするのなら、引き続き役員をやってもいいと、言ってくれているので、副会長や書記をお願いできるのが関の山だ。

とはいえ、私の子どもは卒業するので、会長どころか役員にとどまることすらできない。
私が引き続き、高校の役員をするただひとつの条件、それは、長女がこの学校に入学すること、だ。

結局、役員を決めるのは私の長女の合否が確定してからということになった。

長女が合格すれば役員は決定する。
不合格ならば、会長以下、副会長すら見つからないままとなる。
長女の合格を望んでいるのは、たぶん、高校の先生も同じだろう。
何しろ、不合格ならば、自分たちが率先してPTA会長を探さなければならないからだ。

しかし、たかが学校の役員。
私が役員をするために長女が入学するのではない。

私が長女のために頑張ることができるのなら、どこだっていいのだ。

2008年1月21日(月) 雪はどこに降る

昨夜から降るといわれていた雪はまったく降る気配もないまま、夜が明けた。
雪が降るという天気予報を聞いて、大はしゃぎしていた次女がしょんぼりしている。

ニュースを見ると雪はかなり南のほうで降っていたようで、かなりの雪が降ると予測されていた本州都市圏では、太平洋側のごく一部で降雪を確認したようだった。

私は東京での仕事だったので、あまり雪はうれしくなかったのだが、そのニュースを聞いて安心していた。

そしていつもどおり、新大阪へ到着する。
するとなんだかいつもよりホームにいる人の数が多い。
しばらくするとアナウンスが流れてくる。

「大変お待たせして申し訳けありません。ただいま雪の影響で・・・」
ほとんど降っていないはずの本州で、よりによって新幹線の通り道にだけ雪が降ったようだ。
幸い、会議に遅れるほどの時間ロスもなく、新幹線はやってきた。

寒い冬のよどんだ雲の下、私を乗せた真っ白な「のぞみ」は、青い線を引きながら、東へ走っていった。

2008年1月22日(火) グリークラブ

先日土曜日に近くの市民ホールでコンサートが開催された。
市民ホールとは言っても大ホールは収容人数1000名を超える大きなホールであり、ここを一杯にできるほどのコンサートは、かなりの有名人の出演でもなければ、ほとんどない。
私も何度かこのホールに来ているが、この大ホールが満席になったのは昨年の夏に行われたミュージカルと、そして今回のコンサートだけだ。

今回開催されたのはある公立高校のグリークラブの定期公演だ。
グリークラブとは男声合唱団だ。

この講演にはOBも出演するが、そのOBの中に小学校で役員をしていただいてる女性のご主人もいた。
以前からうわさでは「この学校の定期公演はすごい」と聞いていたので、一度は聴いてみたいと思っていた。

小学校でもPTAのイベントがこの時期に行われるので、「グリークラブのコンサートをやってもらおう」と考えていたが、あいにく、スケジュールが合わず、出演していただけなかった。
そんなこともあってぜひとも聴きたいと、夫婦揃ってコンサート会場へ出かけた。

会場の入り口でPTA役員の女性と待ち合わせ、中に入っていった。
4人がけの席に私たち夫婦とその女性が腰掛けるとしばらくして、中学校のPTA会長が現れた。

私を除く三人で話が盛り上がる。
同じ小学校のバレーボール部でみんな顔見知りなのだ。

しばらくしてコンサートが始まった。

最初は現役高校生の合唱。

グリークラブは独特の歌い方をする。
子どもの時には、その歌い方を見ていて、なんだか恥ずかしく思えた。
その独特の歌い方からあふれ出た声は、会場の隅々にまで染み透り、私のからだの中の深いところまで入り込んでくるようだった。

歌い終わると思わずため息が漏れ、割れんばかりの拍手が沸きあがった。

やがてOBも加わり、よりいっそう、深みが増した歌声に感動した。
嫁さんに「さっき、泣いてたやろ」と見透かされ、少し恥ずかしかったが、正直、涙があふれる歌声だった。

小学校にこの人たちに来てコンサートをしてもらおうなんて考えていたのは恐れ多いことだとようやく理解した。
後で知ったのだが、全国大会でも優勝経験があり、googleで検索すると関連情報としてこの学校の名前が出てくる。

また来年も聞きたいものだ。

2008年1月23日(水) 男ばかりの新年会

昨日は仕事仲間との忘年会。

私は仕事の関係で少し遅れての参加となった。
男ばかりの仕事場なので、参加者も男ばかり。

場所は聞いたことのある店だったが、どんなところかはっきりと思い出せないまま、現地に到着して驚いた。
幹事が選んだ店はおしゃれで、女性客やカップルばっかりの店。
中に入るなり、あっちもこっちも女性の集団。

およそワイシャツ姿のサラリーマンが騒いでいる姿など想像もできないような店。
案の定、男ばかりの集団は一番奥の、人目のつかない、狭い座敷に通されていた。

しかも8人がけぐらいの、3面を完全に壁に囲まれたところに、およそ1ダースの男が詰め込まれていた。
「○○(私)はそこです」と指差されたところに座れそうな場所などない。

確かに、そこには新しい割り箸と、手付かずの料理が並んではいるものの、左右に座っていた男がお尻を半分ずつずらして、私の座る場所を作ってくれなければ、立ち食いになるところだった。

早速、乾杯をしてビールを飲んだ。

狭い部屋の中で誰もタバコを吸わなかったのが幸いし、狭いながらも楽しい時間を過ごせた。

今度この店に来るときは、「男ばかり」という状況は避けたいものだ。

2008年1月24日(木) 主婦もいろいろ

私がPTA会長に就任したとき、広報誌に載るはじめてのあいさつ文に「みなさんも日記をつけませんか?」と書いたが、知り合いの「主婦」から「そんなん忙しいのに書いている暇なんかないわ」と言われた。
確かにそうだ。
主婦は忙しくて、とても日記、ましてブログなど書いている暇はない。

しかし、主婦と言っても「子どものいる主婦」と「子どものいない主婦」では、その忙しさにかなりの開きがある。

正直、子どものいない(子どもを作らない)夫婦や養うべき人のいない夫婦は、「ママゴト遊び」と大差ない。
まさしく、二人の関係は「恋人の延長」であり、その生活は「法的証明による同棲」だ。
いったいその夫婦がどういう責任を背負っていると言うんだ?

仕事が嫌なら辞めてもかまわないし、家事がいやならやらなければいい。
生活が嫌なら飛び出せばいいし、相手がいやなら別れればいい。
困るのはただ自分たちだけのこと。

でも「子どものいる夫婦」はそうはいかない。
特に主婦は、「やって当たり前」としか評価されないことを、休日もなしに毎日続けている。
それこそ、「愛情」と言うものがなければ、ちょっとやそっとの賃金では、絶対にできないだろう。

子どものいない主婦でも仕事を持っていれば、仕事と家事を両立させるのは忙しいことだろうが、「主婦なのに忙しい」なんて思いが少しでもあるうちは、「主婦」になんかなれない。

2008年1月25日(金) 同期との再会

個人事業主になる前に務めていた会社の元上司に酒に誘われた。
仕事もあったし、遅い時間なので、正直あまり気が進まなかった。
しかし、今まで何度か断ってきたし、さすがに申し訳なく思ったので、終電までには帰るということを承諾してもらって飲みに行くことにした。

仕事場を出て元上司と久しぶりに並んで歩く。
怖い上司だと思っていたが、それは同じ会社の上司と部下という立場で見ていたからであり、独立した立場から見れば、人のよさそうな普通の中年のおじさんだった。
仕事の話や昔の思い出など、とりとめもない話をしながら現地へ向かう途中、今日は私の同期も飲み屋に居ることを知った。

そいつと会うのは二年ぶりか。

同期と会うときはそれが誰であれ、いつも同じような気持ちになる。
少し変わった相手を見たいし、少し変わった私を見てほしい。
それでありながら気持ちだけは以前のままで、馬鹿な話をして心から笑いたい。
再会はうれしいけれど、それを前面に出すのは恥ずかしいし、かといって平静を装うのもおかしい。

そんな微妙な心の揺れを感じながら店に入った。

久しぶりに会う同期は、私が同期に会ったときに見せるような表情をしていた。

多くの言葉を交わさなくても数年の溝は一瞬にして埋まる。
男同士だからかもしれない。

話をするうちにほかの同期の事も思い出される。

あいつは今頃どんな仕事をしているのだろうか。
あの子も子育てに奔走しているのだろうか。
あいつの頭はもう薄くなっただろうか。

そんなことを話しているうちに、みんなで再会しようという気持ちになった。

今年の年賀状に書いた。
「同期のみんなに再会したい」
今年は同期と出会って20年目。
再会の年になればうれしい。

2008年1月26日(土) 法事

法事というやつに初めて行った。
もちろん今までにも、肉親の法事があったに違いないのだが、私はできる限りそういうことにはかかわりたくないので、ずっと逃げていた。
まあ、そんなもの、義理で行ったところで、誰が喜ぶだろうか、と思っているからだ。

今日の法事も、正直、義理が半分以上を占めてはいるが、それでも大人の礼儀として考えれば、出席するのが当たり前だし、何より、仕事も無いので、断る理由も無い。
それに、長男や長女は受験勉強という名目で家に居るわけだし、どこでも退屈せずに過ごせる次女だけを連れて行けばよいとなると、こちらも気が楽だ。

昼過ぎに待ち合わせの場所へ車で向かう。
義理の両親を乗せて親戚の家へ。
そこから車でよくある名前のお寺に向かった。

急な斜面を車で駆け上がると立派な門構えのお寺があった。
本堂はかなり新しいようだ。

受付を済ませて本堂の中に入ると、とても立派なつくりだった。
ふと見ると、なんだかたくさんの人の名前が書いてあった。

「復興支援なんとか」と書いてある。

よく読んでみると、阪神大震災で倒壊した本堂の修復に寄付をした人たちのものだった。
なるほど、それで新しいのか。
お寺に寄せるみんなの気持ちとが集まるとこんなに立派なものができるのか、と妙に感心したりする。

「冬の寺の本堂」といえば、修行でもできそうなぐらい凛冽な場所を想像するが、ここは空調の温かい風が常に頬をなでるので、とても心地よい。
人のよさそうなお坊さん(人の悪そうな坊主は時代劇でしか見たことが無いが)が出てきて、段取りを説明する。

やがて「法事」が始まった。
(法事が始まる、という表現は正しいのだろうか?)

正座しなければならないと思っていたが、「こちらへ」と案内されたところには、すわり心地のよさそうな、椅子が並べられていた。
ま、坊さんはもっとすわり心地のよさそうな大きな座布団に座っていたが。
後で次女が「あの座布団、ふかふかやったで」と、いつの間に確認したのか報告してくれた。

椅子に座ると般若心経の書かれた経本を手渡され、坊さんの後に続いて唱える。

いつも思うことだが、お経を唱えるときの声の高さが、どうしても定まらない。
中途半端な高さなので、声が裏返ってしまうか、バリトンのようになる。
そんな苦労をしながら30分ほど、お経を読み、焼香をして無事に法事は終わった。

冬のお寺はなかなかいいものだった。

2008年1月27日(日) PTA講演会

今日はPTA主催に研修会を小学校で行った。
今年の研修会は、講師の先生を招聘しての講演会だ。

今回のテーマは「発達障がいの子どもの支援」だ。
(近年、その文字から受ける印象を考慮し、「障害者」とは書かずに「障がい者」と書くことが多い)
講師にはその道のスペシャリストをお招きした。

「発達障がい」といわれている子どもは意外に多い。
割合から言えば、1クラスに2〜3人はいることになる。
もちろん、私の周りにもそういう子どもを育てている人が多くいるし、PTA活動でも積極的に活動しておられ、頭が下がるばかりだ。

今日の話の中で、講師の方が最もよく言われたのは「まず気付くこと」「そして正しく理解すること」であった。
この二つは密接に関係している。
どういうものが「発達障がい」であるのかを正しく認識していないと決して気付くことができないからだ。

私自身、まだまだ勉強途中なので、詳しい話はここに書かないが、少なくとも、「発達障がい」というのは「障がい」と考えて腫れ物に触るかのごとく特別扱いするのではなく、ひとつの個性だと考えて接したほうが、より正しい対応ができることは確かだと思う。

PTA会長という、この立場で無ければ得られないことがたくさんある中で、今日は本当にいい話を聞かせていただいたし、よい先生と出会ったと思った。

2008年1月28日(月) 買い物がしにくい

嫁さんが「買い物がゆっくりできない」と言う。
最近、やたらと知らない人に挨拶されるらしい。
しかもスーパーで買い物をしているときに限って。

私は小学校のPTA会長を始め、子ども会の会長、高校のPTA副会長など、全部で7つぐらいの委員をしている。
嫁さんも、生活指導委員、サークルの代表二つなど、5つぐらいの委員をしている。
「ぐらい」というのは知らない間に何かの委員になっているというのもあるからだ。

間違いなく、市内で一番、委員を務めている夫婦だ。
PTA会長会のメンバーの中で、そんな伴侶を持っている人がいないのだから間違いない。
我ながら改めて驚く。
すごいじゃないか、この夫婦。
周りから「変わった夫婦」呼ばわりされるのも納得できる。
だから、見知らぬ人から挨拶されても仕方が無い。

などと、感心している場合ではない。

スーパーで買い物中に後ろから不意に「あ。こんにちは」などと声をかけられれば、今まさに手に取ろうとしていた、「50円引き」と書かれた惣菜の手前で手が泳ぐ。
肉売り場や鮮魚コーナーなら、思わぬ出費になりかねない。
「お値打ち品」に目が釘付けになっても、要らぬ我慢をしてしまう。

まあ、実際にそんなことで買う品物を変更するわけではないが、それでも多少なりとも見栄はあるのだから、今までなら気にせずできた買い物も、そうは行かないようだ。

声を掛けてくださるの人も同じ主婦なら、そこんところ、もう少し気を使っていただければありがたい。

2008年1月29日(火) 悪人、大いに歓迎

「生物(せいぶつ)」を辞書で確認すると「生命を持ち(中略)繁殖するもの」とある。
繁殖とはすなわち子孫を残すことに他ならない。
「女」を辞書で確認すると「ヒトの性のうち、子どもを産む器官を有するほう」とある。
だからと言って、子孫を残さない(あるいは残せない)からと言って、生物ではないと言うのは乱暴であるし、「子宮がないなら女性にあらず」などと言うのは言語道断だ。

でも、一般に「生物」や「女性」を定義するときは、前者の辞書に載っている意味で使ってもまったく差し支えない。
いちいち「生物。本来は繁殖能力を持っているが、何かしらの原因でその機能を損なったものを含む」とか「女性。先天性あるいは後天性の原因により、子どもを産む器官、あるいは体内で育てる器官を有さない者、及び生物学的または医学的には男性であるが、精神的には女性である性同一性障がい者を含む」などとわざわざ断りを書いていては話が前に進まない。

しかし、私が「生物は繁殖するものだ」というと「繁殖しないのは生物じゃない」と言っているように聞こえ、「女性は子どもを産む」と言えば「子どもを産まないのは女性じゃない」と言っているように聞こえるらしい。
私の普段の言動が大きく影響しているようだ。
無論、当の本人にそんなつもりはない。
本当にそう思うときは、回りくどい言い方ではなく、ずばりそういう。

先日の日記や最近の掲示板のことについて、私をよく知る知人と話をしていると、「あなたの言葉が足りない。私も誤解したぐらいだからほかの人に誤解されて当然だ」と言われた。

「風呂を見てきて」と言われれば、当然、湯加減なり、湯量などを見てくるのであって、風呂場を観察して戻ってきたらちょっと驚く。
それと、同じ思いがしたので、「いちいち細かい説明をするのは面倒だ」と私が応えると「ならば誤解されるだけ損だから、黙ったほうがいい」と。

まあ、こうやって日記で自分の主義主張を思うがままに書いているのだから、反論されるのも、反感を買うのも、もちろん覚悟の上。
逆に、みんなに反感を買わずに、自分に正直な日記というものを書けるのかどうか疑問だ。
そんな日記が書けるというのなら、是非書いて見せてほしいものだ。

前にも書いたように、ただ一人に見せることが目的のこの日記。
その一人が私の考えを理解してくれればいいだけのこと。
いや、その一人が「おかしい」と思うのならそれもまたよし。

事なかれ主義は嫌いなので「黙る」のはご免被る。
薬にもならないのなら、毒でもいい。

こんなことを平然と言う私は悪人?
喜んで。

2008年1月30日(水) たまにはこんな日記

いつもなら日記に書くネタが無くて困るのだが、最近はもう、一週間分の書きたいネタがある。

食の安全、PTA、受験、仕事、ブログ、子育て、「(笑)」、バレンタイン・・・。

あ。
今日は代表戦。

ビールを飲みながら、観戦(DVDの録画だけれど)。

勝った!!

以下省略。

2008年1月31日(木) 食の安全

昨年ほど「食の安全」という言葉を耳にした年は無かった。
「食の安全」ってなんだろうか?

「賞味期限」や「原材料」の偽りが問題になり、その「偽」がその一年を表す漢字ともなった。
それほどに人を騙した食品が問題になり、「食の安全」が叫ばれた。

「安全が叫ばれた」ということは、「危険にさらされた」ということに他ならないと思う。
では、どれほど、食が危険にさらされたのか。

調べたところ、昨年の食中毒によって命を落とした人の数は、3人だった。
これはもう食の安全が損なわれている。

と思ったが、その内訳は、「ふぐ毒による被害:2名」「きのこ中毒による被害:1名」であり、食品偽装による被害者は「0」だった。
偽装の被害になった人はいないじゃないか。

確かに、自分の利益のために人を騙すというのは許されざる行為である。
しかし、それは「食の安全」とは違う。
安全が損なわれることは危険であるが、被害者のいなかったこの状態を危険というのはおかしい。

原油の値段が上がることによって小麦粉の値段が上がったのは、小麦を生産していた農家が、バイオエタノールの原料となるとうもろこしの生産に切り替えたからであり、肉類の値段が上がったのも、家畜の飼料となっていたとうもろこしが燃料に使われるようになったからである。

この国が小麦粉や肉類を自給自足していたならばこんな影響も受けない。
日本の伝統文化である、醤油や味噌だって輸入大豆の高騰により値段が上がっている。

伝統の醤油ですら自分たちでまかなえないこの国にとって、本当の「食の安全」は、おいしく食べられないから廃棄する、では絶対に確保できない。

「量」より「質」を重視できるほど、この国は豊かではないのだ。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

info@karintojp.com
Akiary v.0.51