カリント日記

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2008年3月1日(土) 寒い国からの贈り物

大阪と同じ緯度を持つヨーロッパ地方はどこか。

 1.フランスのパリ
 2.イタリアのローマ
 3.地中海の中央
 4.北アフリカのモロッコ

正解は「4」。
地中海は青森、ローマ、パリは札幌と同じ。
ロンドンにいたっては日本列島を外れて更に北、オホーツク海と同じだ。
ちなみに、、ニューヨークも札幌と同じで、東京はエジプトのカイロと同じ。

ところで、北限のサルをご存知だろうか。
最も北に住む、野生のサルのことで、それは青森県下北半島に住んでいる、ニホンザルだ。
この地に住むニホンザルより、北側に住んでいる野生のサルは、世界中どこを探しても、見当たらない。
要するに、ヨーロッパの主要国はサルが住めないほど、北に位置する地域なのだ。

そのサルが住めないような寒い地域に適応したのが白人だ。
しかしサルが住めないのには理由がある。
彼らが手に入れることのできる、木の実や果実などの食物が、冬場にはなくなってしまうからだ。
そこで白人は狩猟民族とならざるを得なかった。
やがて、狩猟して消費してしまうばかりではなく、家畜として飼いならし、そこから搾乳することで安定した食物を手に入れた。
そのためにヨーロッパ地方には乳製品が多い。

一方、日本は温暖な気候に恵まれ、農業が盛んな国となった。
一度に大量の食物を手に入れることができる。
しかし、気候に左右されやすいため、不作の年は、逆にほとんど作物を得ることができない。
また、肉食に比べると、当然エネルギーとして得られる量も少ない。
そんな環境で生活できるように、人間の体が変化し、少量の栄養であっても、十分耐えられる、体となっていった。

数万年のときをかけて、このように適応してきた日本人の、その食生活も、終戦とともに激変する。

西洋から、白人に適した食物が大量に流れ込んできた。
おかげで日本人の体は西洋人並みに、大きく成長し、体格もよくなった。
しかし、よいことだけではなく、だんだんと歪ができてきた。
日本人はもともと少ない栄養で活動できるのに、そこへ過度の栄養が注ぎ込まれたためだ。
糖尿病や肥満などはその際たるものだろう。

以前の日本では考えられなかった病気。
それがいまや、小学生の中でも問題となってきている。

今日のPTA協議会主催の特別セミナーで語られた、食育の話。
嫁さんと参加したが、私も我が家のみんなの体が歪まないように配慮したいと思った。

2008年3月2日(日) 駅伝大会

先週の日曜日に開催される予定だった、北河内の子ども会育成連合による駅伝大会が、今日、開催された。

先週は朝6:20に集合場所へ行ったものの、大雪のため中止が決定し、後片付けの後、雪ダルマを作って帰ってきた。



あれから一週間後の今日。
驚くほど暖かい日となった。

会場となったのは隣の市の河川敷公園。
7時前には会場に入り、作業の確認やテント設営、看板設置などの作業に追われた。
そして開会式直前の時間まで、私は駐車場の誘導係に当たった。
河川敷の簡易的な駐車場にラインは引かれておらず、適当に区切った目立たないマークがあるだけ。
誘導するのも難しいと思い、自分の車をガイドに見立てて「あの赤い車の横に並行に駐車してください」と誘導した。
それに、シルバーセンターからお手伝いに来ていただいた方々も、心得たもので、的確に車を誘導してくださり、とても助かった。

いよいよ開会式。
いつものように、子どもが整列し、会長が挨拶をする。
見慣れた光景だが、本当に子どもは素直に並ぶ。
この姿がなんとも言えず、かわいい。



開会式が終わると、それぞれの準備の位置についた。
それにしても、もともと七つの市の子ども会育成連合が集まっているのだから、ただでさえ人が多いのに、天気がよくなったこともあって、遊びがてらに応援に来る人もとても多く、大賑わいとなった。



写真に写っているのは全体のおよそ3分の1程度。

この3倍ほどの距離で、公園一周となる。
駅伝は、ここを3周する。

私の担当は決勝。
ゴールした選手の順位を確認する係り。
もちろん、大事な係りだから私一人で行うのではなく、複数名で担当する。
時間を計測する係りも複数、順位を書き込む係りも別にいる。

ちょうど目の前がゴール。
そして、このゴール直後をスタート地点として走り始め、公園内を一周する、6区の走者の待機場所。
走り出す前の緊張と、ゴールした後の感動が同時に伝わってくる。

どの子どもたちも、一所懸命に走り、走り終わった感動に涙する子どもも少なくない。
親も指導員も何人か泣いていた。

自分の子どもは参加していなかったが、参加していたら、こんなところでまともに係りの仕事などやっていられなかったと思う。

とても暑いが心さわやかな一日。
日焼けした顔にほてりを感じながら自宅で飲んだビールは格別だった。

2008年3月3日(月) 合格発表

どちらかと言うとおとなしい性格で、中学校でも、まじめなほうだ。
勉強だって、きっと好きではないだろうに、きっちり取り組み、それなりの成果をあげている。
いまどきの中学生の女子が好みそうな、ファッションや流行には見向きもせず、嫁さんが心配するほどに、あっさりとした男っぽいものを好む。

そんな長女が、今日は300グラムのステーキをぺろりと平らげた。
まるでヤケ食いのようだ。

今日は長女が受験した高校の合格発表の日だった。

長女の中学校の内申と、普段の勉強振りならば、十分に合格できる学校だ。
しかし、中学校で校長先生や教頭先生から「○○(長女)ちゃん、最近成績がちょっと・・」などと聞かされると、心配になる。

朝から気が気でなく、合格発表の時間帯がいつだったか気になり、私の過去の日記を見た。
長男と同じ学校なので、そのときに日記を読むと、昼過ぎに発表があったと書いてあった。

昼食を食べ終わると、すぐに嫁さんにメールを送る。
が、返事がない。
以前もそうだった。

まだ結果がわからないのなら、せめて「まだ連絡がない」ぐらい返事をくれてもいいのに。
そう思いながら逸(はや)る気持ちを抑え、「うん。きっと合格しているさ」などと自分に言い聞かせ、仕事を再開する。

が、仕事にならない。
すぐにお茶を飲んでしまう。
席を立ってうろついてしまう。
やはり落ち着かないのだ。

そして、2時半ごろようやく嫁さんからメールがあった。
とたん、今日は仕事を早く切り上げて帰ることに決めた。

やがて仕事を終えて自宅に戻り、「長女に何が食べたい?今日は好きなものを食わせてやる」と言うと、「ステーキを食べたい」と言う。

自宅付近にステーキの店はないので車で行くことにした。
といっても自分の車で行くと酒を飲めないので、タクシーで行った。

店に入ってメニューを物色し、あーでもないこーでもないと、嫁さんや子どもたちが話をしている。
私はそれを目を細めてみていた。

ようやく決まったメニューを注文すると、私はビール、子どもたちはジュースを頼んだ。
最初に運ばれてきた飲み物を手にとって、「おめでとう!」と乾杯をする。

なんだかいつもより、家族全員の笑顔の時間が、特別長いように感じた夜だった。

合格おめでとう。

2008年3月4日(火) オープンカー

先日、子ども会の駅伝が開催される会場への行き帰りで、同じ市子連のメンバーを何人か私の車に同乗させた。
「広い車ねえ」「きれいな色だわ」「汚しそうなので靴を脱いだほうがいいんじゃないかしら」。
私の自慢の車、真っ赤なオデッセイに寄せられる賛辞は手放しでうれしい。
私自身も、道を走る他の車と比べながら、「やっぱりこの、真っ赤なオデッセイが一番だ」と本心で思う。

しかしそれは、オデッセイと同じ、ミニバンと言うカテゴリのなかで比べたときのこと。
いや、カテゴリをもう少し広げて、セダンや軽自動車を含んでもこの車が一番だと思っているが。

でも、これがスポーツカーも含んだ、すべての車の中でとなると、残念ながら、真っ赤なオデッセイと言えども、トップの座を明け渡すことになる。
スポーツカーが上位に並ぶ。

そもそも、真っ赤なオデッセイに乗っているのは、真っ赤な車がスポーツカーの象徴であるからで、それは、スポーツカーへの憧れの表れなのだ。

家族がいれば、スポーツカーを買うことはままならない。
人数を考えればミニバンを買うのは必然のことだ。
それならば、せめてスポーティなオデッセイのアブソルート、それも憧れの真っ赤な車、ということで、現在に至っているのである。

もし、車の選択が自由にできる立場であれば、世に言うところの「スーパーカー」がほしい。

とはいえ、それは夢物語。

もっと現実に目を向けることにした。

長男が自動車の免許を取れる年齢になった。
こいつに何か買わせたいと思っている。

お父さんは2シーターのオープンカーがいいなあ。
中古車だと、軽自動車並みの価格で手に入るんだけどなあ。
友達とたくさんで出かけるときは、お父さんのオデッセイかしてやるからさあ。
天気のいい日にはさあ、お前のスポーツカー貸してくれないかなあ。
あ、もちろん、ガソリンは満タンにして返すから。

2008年3月5日(水) 国産なのに

「手作り」で、しかも「国内で製造」といえば、どんな商品でも高い。
それはやはり、人件費が高いからだ。
だから、国内で流通している製品の多くは、人件費の安い海外で大量に製造され、国内に持ち込まれる。
しかし最近は、海外製品に付いてまわる「不安」を取り除くために、国産を求める動きも多い。
「MADE IN JAPAN」と書かれていれば、それは「安心」の代名詞のようにさえ感じる。

先日、仕事先からの帰り、近くのビルで物産展のようなものをやっていたので覗いてみた。

そこで見つけたビジネス用の革靴は、「手作り」で「国内で製造」だった。
金額は「4725円」。
激安である。
まがい物でもなんでもない。

実は「刑務所作業製品」なのである。



刑務所内での労働はあくまで教育の一環であって、人件費の支払いを目的としているわけではない。
なので非常に安い金額で販売される。

だからといって中途半端な品物ではない。
社会復帰後、その技術で仕事先が見つけられるように指導されるため、それこそ本職と違わない技術が施されている。

事実、「刑務所作業品」の靴や鞄靴、家具などは評判がいいのだ。
今回購入した靴の履き心地もよく、私も大変気に入っている。

また機会があれば、何か製品を購入したいと思った。

2008年3月6日(木) 初顔合わせ

先日から飲み会続きで、昨日は3回目の飲み会。
でも、昨日の飲み会は、少しいつもと違う。
私が男を連れてきて、嫁さんが女性を連れてくる、という、あまりないパターンだ。

別に他意はなく、話の成り行きからそうしただけだが、やはりこういうのには慣れていない。
最初はお互い初めての顔合わせだし、連れてきた私や嫁さんも、その雰囲気のせいで、どことなくぎこちなかった。

しかし、乾杯をして酒が進むと、みんな饒舌になってきた。
自分のことを話し、相手の話を聞く。

短い時間だったが、私は楽しい時間を過ごした。
またこのメンバーで飲めれば楽しいと思う。

2008年3月7日(金) 欠席の理由

三年前、長男が受験すると聞いた高校の名前は、初めて耳にするものだった。
それでも競争率は意外に高く、レベルは「中の上」という、もっとも好みが集中しやすいところに位置していた。

私自身が高校生だったころ、自分の親が入学式や卒業式、その他の学校行事に参加することを「恥ずかしい」と思っていたため、長男に対しても、同じようにできるだけ学校とのかかわりを避けていた。

あれから三年。
気がつけば、今日、PTA副会長として、来賓席で長男の卒業式を見守っていた。

以前からPTA活動に積極的だった嫁さんのところへ、当時の会長から「副会長」就任の要請があり、それを断り続けている嫁さんの姿を見て、「俺がやってもええで」と返事したのがきっかけだった。

それからはPTAの役員として、また、後援会のメンバーとして、学校の行事に積極的にかかわってきた。

しかし、長男との直接の接触はほとんどなかった。
予想以上に足の早いことを再認識した運動会で、長男の姿を見かけたのが、最初で最後だったように思う。
文化祭のときも、長男の教室に行く暇もなく、動き回っていたし、三者懇談も嫁さんに任せていた。

今日だって、肝心の長男は、受験勉強を怠けていたツケが回ってきたせいで、受験のために大学に行っており、卒業式には出られなかったのだ。



長男のいない卒業式。
思えば、長女が小学校を卒業したときもそうだった。
長女のいない卒業式で、私は長女にあてた手紙を読んだ。

長女が小学生のときに学校へ顔を出したのは、その卒業式と、あとは数えるほどの参観日だけだった。

わが子の晴れの姿を見られないのは、PTA活動していても、普段のわが子の姿を見ていない、ダメな私への天罰なのかもしれない。

2008年3月8日(土) 最後のお願い

「おはようございます!」

大きな声で挨拶をするのは気持ちがいい。
挨拶は日常生活の基本中の基本ではあるが、大勢の人を前に、大きな声で挨拶をするのは、子ども会の活動やPTAの活動の特色のひとつである。

講演会などでも挨拶をされると、思わず、大きな声で返事をしてしまう。

面白かったのは、PTAの全国大会に出席した帰りの飛行機のなか。
大会を終えての帰路、地方路線の比較的小さな飛行機に乗っていたのは、各地から来たたくさんのPTAの会長さん。
キャビンアテンダントが「皆様こんにちは」と言ったとたん、みんなが「こんにちは」と返事をしたのだ。
貸切の観光バスならいざ知らず、飛行機のなかで乗務員に挨拶するのは、こんなときぐらいだ。
返事したほうも乗務員も、思わず吹き出してしまった。

毎月一回開催される小学校の実行委員会でも、まずは私の挨拶から始まる。
「おはようございます!」
「おはようございまーす」
これが実行委員会の始まり。

そんな挨拶も今日の実行委員会が最後となった。

「みなさんとこうやって挨拶をするのも、今日が最後です」
そう自分で言っておきながら、少し寂しくなる。

型どおりの会議が始まる。
先日の食育の話をしたり、連絡事項をしたりして、会議も終盤。
私から最後の一言を話させていただいた。

「先日、皆さんから今年度の委員活動における『成果と反省』を提出していただき、それをまとめたものがお手元のプリントです。ここにアンダーラインが引いてあります。例えば『みんなが手伝ってくれたのでスムーズにできました』『みなさんが協力的で助かりました』。こういう意見が実に多いことがわかります。みなさんはこの一年間、実行委員として大変多くの活動をされ、私たちも感謝しております。ただ、その活動は、多くの保護者の方々の協力の下、無事終えることができたもので、皆さんの力だけでやっていたならば、もっと大変だったはずです。そこでみなさんにお願いがあります。実行委員を退かれましても、後任の方々を助け、みんなでできることを分担してください。いかに保護者の方々の助けがありがたいかは、皆さんが一番よく知っているはずです。そうやって、みなさんの助けが広がれば、もっともっと楽しく楽に活動できるはずです。今後ともよろしくお願いします」

みんなの力強く頷く姿を見て安心した。
私の活動が無駄ではなかったように思え、報われたような気になった。

2008年3月9日(日) 夢の印税生活

人にはそれぞれ得意なことがあって、それについて話をさせたら止まらなかったり、それについて語らせるとかなり奥深いものを持っていたりする。
私はコンピュータの仕事をしているため、確かに一般の人よりも、コンピュータに関する知識量は多いが、そんなに話し続けられるほどのネタを持っていない。

私の場合、もっとも多くの時間、話し続けられるのは動物の話だろうか。

例えば。

「犬はネコ目」
「カイニズムを行う動物について」
「ハリガネムシの棲み家」

など。

「ネコ目」は「ネコもく」と読む。
以前は「食肉目」と読んでいたが最近はわかりやすい表現にするため「ネコもく」と呼ぶそうだ。
「カイニズム」はイヌワシなどの大型の猛禽類に多く見られる。
カイニズムとは・・・おっと、この日記に使わないと決めている文字を書かねばならないので説明は割愛。
「ハリガネムシ」は「ハラビロカマキリ」というカマキリの腹の中に寄生する寄生虫だ。
水の中に、カマキリのシリをつけると、シリからそいつが出てくることがある。

こんな話をもっと掘り下げて、ずらずらと書き並べると、一冊の本ができるんじゃないかと思う。
だから、昔から、「一冊の本ができるぐらい、動物の知識がある」と豪語してきた。

最近になって、別のテーマで本が書けるんじゃないかと思い始めた。
それはPTAや子ども会などの「会長」についてである。

PTA会長の話は、私のところへ、ある日突然やってきた。
初めてのPTA会長である。
戸惑いだらけであった私は、人に教えを請うのも嫌なので、How to本があれば読んでみたいと思った。
私以外にも同じように、新しく会長になられた人から、同様な経験をしたと言う話も聞いた。
子ども会(育成部)にしてもそうである。

いずれの活動においても、どうやって運営していくべきかなどについて、ろくな資料も残っておらず、ほとんどは口頭による簡単な引継ぎだけで、後は行き当たりばったりで対処する。
だからはじめて引き受けた人が、どうすればよいのか困ることも少なくないはずだ。

私の経験を踏まえて、そのときの指針を示すことができれば、少しでも役に立つのではないかと思う。

今はまだ、冗談のつもりだが、先生にも本を書くことを勧められたし、これからの経験次第では本気で考えてもいいかな、と思っている。
何より、私自身が、自分で書いた本を読んでみたいのだ。

2008年3月10日(月) KYよりも

「KY」という言葉がある。
「空気読めない」という意味だそうで、これを最初に知ったのは、昨年の秋、同じ小学校のPTA役員宅で宴会をしたとき、そこの子どもに教えてもらった。

とても人懐っこいその子どもは、いつも私に屈託なく話しかけてくれる。
「会長ー! KYって、知ってる?KY。空気読めない。会長のことやでー。えへへ」
それ以来、二人の間でもよく、KYを使っていた。

しかし、それが流行るよりもずっと前から、私は同じように略した言葉を使っていた。
でもそれは「空気読めない」などと人を小ばかにしたような単純な言葉ではない。
「いつもありがとう」という感謝の気持ち、「おつかれさまでした」というねぎらいの気持ち、そして「みなさんこんにちは。」という挨拶。
それが凝縮された言葉、それは「み。」だ。

携帯電話にメールを送るとき、複数の人に送ると、受け取った側は、自分だけに送られてきたメールなのか、それとも複数の人に送っているメールなのか判断が付きにくい。
会長である私から、役員へメールするとき、全員へ送る場合もあれば、各担当者に送る場合もある。
そんなときは、メールを誰に送っているのかわかるようにするため、メールの冒頭に「○○さんへ」と書いていた。
しかし、これが全メンバーになると、名前を書くのも大変だ。
そこで、私が提案したのが「み。」だ。

「皆さんこんにちは」の「み」なのだが、前述のような思いもこめられている。

最初は役員さんのみなさんに向かって、「み」略してしまうことに抵抗もあったが、毎日毎日、何度となくこの書き出しでメールを送った。

「み。明日の会議の件で連絡です」
「み。今日はお疲れ様でした」
「み。ちょっと愚痴を言います」

そのうち、むしろ「み」と書くことでとてもメールしやすくなった。

やがてそれは、私が使う言葉の中で、もっとも短く、そしてもっとも多くの気持ちをこめた、そして忘れられない言葉となった。

役員のみんなと一緒に活動する期間も残りわずか。
それを過ぎると、今後、同じメンバーで何か活動するということはたぶん、ない。
そんな別れの言葉を役員に送ったら返事が来た。

「会長へ。次からはなんて呼んだらいいですか?」

思わず口元が緩んだ。

2008年3月11日(火) 遠い遠い道

ある言葉がどうしても思い出せなくて、悔しい思いをすることがある。

テレビ番組を見ていたとき、ふと長男が言った。
「そういえば昔、どこかの遺跡へ続く道を、みんなで舗装する、っていう番組なかった?」
私と嫁さんも記憶にあったので「ああ、あったあった」と答えた。
直後、長男が「あの遺跡って、なんていう名前やった?」と聞いた。

その遺跡の名前。
世界的にも有名なもので、姿かたちは頭の中に浮かんでいるのに、肝心の名前が出てこない。

こんなときは、思いつく言葉を口にすると、そこから連想して思い出すことはよくある。

何かの言葉を思い出そうとして、口にする言葉は、たいていの場合、その思い出したい言葉とどこか似ている。
一文字目の子音が一致していたり、アクセントが似ていたり、拗音の位置などが同じだったり。

私も頭の中に、ぼんやり浮かんでいる、その回答をイメージしながら、次々に言葉を並べた。

「ワンヤンアクダ」「ワルシャワ」「パータリプトラ」「シュリーヴィジャヤ」。

しかし、いつまでたっても思い出せない。
それどころか、どんどん、遠ざかっているような気もする。
長男も私の言葉を聞きながら、思い出そうとしているのはわかるが出てこない様子だ。

私と長男は、半ば諦めて別のことをし始めたが、
嫁さんは相変わらず、横で、頭を抱えている。

しばらくして嫁さんが言う。
「うーん。思い出せない。もう、ここまで来てるねんけど」
「まだ、考えてたん?」
「うん。『アルコールランプ』、違うしなあ」

それを聞いたとたん、私の頭に答えが出た。
「あ。『アンコールワット』、や」

それを聞いて嫁さんが悔しがる。
「悔しいー。もう、一所懸命考えて『アルコールランプ』まできたのに、さらっと答えられたー」

私はおかしくてたまらなかった
「ワンヤンアクダ」から
「アンコールワット」を
導き出すのはとても難しい。

でも、
「アルコールランプ」まできたのなら
「アンコールワット」へは
もうすぐなのに。
8割がた答えが出ているようなものだ。

ここまで来て答えのアンコールワットにたどり着けないなんて。
嫁さんのなかではまだ、アンコールワットへ続く道は、未舗装の荒れ果てた道路だったのだろう。

2008年3月12日(水) 3月の飲み会は

出会いと別れの春はまた、飲み会ラッシュの季節でもある。
先週と先々週の二週間で、合計5回の飲み会があった。

小学校のPTA実行委員や先生を集めての飲み会は、一年間お疲れ様でしたと、労をねぎらうもの。
タダ酒なら多くの人に出てもらいたいところだが、自腹だし、何よりメインとなる実行委員の方々は、すべて、小学校の子どもがいる女性。
主婦の人もいれば、大黒柱の人もいる。
どちらにしろ、忙しくて、夜の飲み会にはなかなか集まれない。
先生だって、卒業を前に慌しい時期だ。

そんななか集まってくれた委員さんや先生方、およそ30名と、ホテルのバイキングを食べに行った。
貸切ではないし、またホテルなので、派手なビンゴゲームなどはできなかったが、若い先生がやってくれたゲームは、面白く、十分に楽しめた。

一年間一緒に活動してくれた委員さんが、今日もこうやって来てくれたかと思うと、やはり感慨深いものがある。

そして翌日は、市PTA協議会の飲み会。
これまた、一年間お疲れ様でした、と労をねぎらう。

たまには意見の合わないこともあったり、どうも胡散臭いやつがいて、好きに慣れなかったりするのだが、それでもこうやって一年間、お互いに、市内の小中学校のPTA会長として活動してきたのだから、やはり通じ合うものはある。

それがこうやって集まるのもこれが最後。
これからは、意見が合わなくて歯がゆい思いをすることもないはずなのに、なぜかため息もでる。

3月の飲み会は少し寂しいものだ。

2008年3月13日(木) 校舎が見ていたもの

「私らの子どもの入学式の時には、ここら、もう、全部、窓ガラスがなかった」
そう言って、私の隣に座った来賓の女性は、中学校の広い体育館を端から端まで、スーッと、指差した。
「もう、あんな花とかね、飾りも、全部バラバラにされて」

今から10年以上前、市内にあるこの中学校は、全国的にも有名な、荒れた学校だった。
体育館だけでなく、教室も廊下も、まともに窓の入っているところが、一つもなかったと言う。
地域や学校に無頓着だった、そのころの私は、そんなこともまったく気にかけていなかったが、「まだ幼い長男も、いつかはそんな中学校へ行くのかと思うと、心配で心配で仕方がなかった」と嫁さんは後になって打ち明けた。

今日、卒業式が行われたその体育館に、そんな当時の面影はない。

「あの子達、行儀悪いねぇ」と隣の女性が嘆く。
その視線の先には、だらしなく足を投げ出して、パイプ椅子に座っている男子生徒が数名いた。
校長先生が祝辞を述べているときでも、その態度は変わらず、反抗的な目つきでにらみつけていた。
「反抗期」は彼らがまだ「子ども」である証拠だ。

実際、そんな彼らも、3年間の思い出のスライド上映が始まると、食い入るように身を乗り出して見ていたし、時折、手を叩き、周りのみんなと一緒にはしゃいでいた姿は、子どもそのものだ。

窓ガラスが割られたのはそのころのヒットソングのせいだという。
事実、「なぜガラスを割るのか」、との問いかけに、当時の中学生は、「その歌手がそう歌っているから」、と答えた。
私は、その歌手もその歌もあまり好きではないが、来賓の女性の話しを聞いて今日の卒業式を見ていると、その歌を思い出した。

壁や廊下にところどころある傷は、そのときの名残なのか、それとも50年以上の歳月によって刻まれたものなのか、もはや区別することはできない。

2008年3月14日(金) 心の言葉

「そりゃもう、号泣する」と知人に言われていたが、昨日の卒業式では、目が潤むことさえなかった。
わが子が涙の一粒でも見せていれば、多少は気持ちも変わっただろうが、卒業する長女にそんな気配は微塵もな
かった。

式を終えて、子どもたちが式場である体育館を出ると、「これからみな教室に戻り、最後の学習活動を行うので、
保護者の方も教室へ移動してください」と言われ、私も嫁さんと一緒に教室へ向かった、

教室では先生が前に立ち、これから卒業証書を手渡すので、一人ずつ何か挨拶をするようにと言っていた。

最初に先生に名前を呼ばれて黒板の前にやってきたのは、私もよく知っている少年だった。
どうやら皆勤賞らしく、先生もたいそう褒めていた。
それに彼は成績も優秀で、長女は自分の得意科目の試験で、彼に負けると、たいそう悔しがっていた。
彼の挨拶を皮切りに、卒業証書を受け取った生徒は次々に挨拶をしていった。

「みんなと同じクラスになれてよかった」
「これからもお互いにがんばっていこう」

そんなことを話しながら、みんなそれぞれに挨拶らしい挨拶をしていた。
笑いをとろうとする子もいれば、泣きじゃくって言葉にならない子もいる。

そしていよいよ長女の番。
さあ、何を話すのかと思って、カメラを構えて、シャッターを押した瞬間、長女の挨拶は終わった。



「みんなありがとう」

その一言だけだった。

あまりに短くて写真に写った姿は、話し終わって席に戻るところだった。
「え?もう少し話したら?」
と先生が聞いても、本人は首を振り、そのまますぐ席に着いた。

クールでドライな長女らしいところだ。
でも、友達が挨拶しているところを、本当に楽しそうに聞いていたし、ずっと笑顔で見ていた。
3学期になり、誰よりも早く学校に来ていたのは、学校を好きになったからだろう。

なじみの教室となじみの友達と、離れ離れになる最後の挨拶、短い一言だけど、長女のその言葉は、偽りのない、本当の心の言葉なのだ。

2008年3月15日(土) ガッツポーズの挨拶

人前で話すのは得意だが、それでもあらかじめ、何かを用意しているものである。
仕事の場合は、それが会議の資料であったり、障害の報告書であったり、あるいはプレゼンテーション用の図であったりする。
それはPTA役員として話しをするときも同じだ。
来賓としての挨拶ほどではないにしろ、やはり、事前に何を話すかぐらいは考える。
しかし、それができないこともある。

高校ではPTAの副会長であるが、副会長も会議のときには挨拶をする。
会議の冒頭で、PTA会長が挨拶をし、引き続き、校長が挨拶をする。
そして議事に入る。
私の挨拶はその会議の終了間際だ。

この最後に挨拶をするというところに、少々問題がある。

PTAでの挨拶というのは大体、似たようなものになる。
世間話をするわけではなく、学校や生徒に関することを話すのだから、話す範囲も狭くなる。
その狭い範囲の話を、会長と校長が最初に挨拶で使ってしまうことが多いからだ。
だから、私は、どんな話をするのかを、あらかじめ決めておくことができない。
いつも、会議の話の流れで考えることにしている。

今日は今年度最後の実行委員会があった。
その後にはPTA総会もあった。
ということは挨拶も2回ある。
さらに、今日は次年度役員の承認があるので、私は会長として挨拶をしてほしいとの、依頼も受けていた。
合計、3回の挨拶だ。

さすがに上手く挨拶ができるかどうか、少々心配になった。
同じ話をしても面白くない。
そこで、それを逆手に取った。

まず最初の挨拶は実行委員会。
「今年度最後の実行委員会ですが、こうやって最後に挨拶をするというのは実は難しいんです。『あれをは話そう』と思っていると、会長が挨拶される。『じゃあこれにしよう』と思っていると次は校長が話す」
こうやってネタフリをする。

次に総会で新会長としての挨拶。
総会の出席者は、先ほどの実行委員会のメンバーがほとんどだが、一般の保護者もいるので、ここは自己紹介から。
「ただいまご紹介に預かりました、○○です。2年間副会長を務めてまいりましたが、長女が念願のこの高校に入りました。で・・・会長がまわってきました。」
少しだけクスグリを入れる。

次の挨拶は予想外だった。
子どもが卒業する役員や実行委員は花束を贈呈されるのだが、その場で一言挨拶をするのだ。
私の長男も卒業生なので、私も花束を贈呈される。
そして挨拶。
「長男が卒業するのに、私は卒業できませんでした。残念です」
ここでもクスグリを入れる。
もうこの時点で実行委員の間に、クスクスとおかしな空気が流れている。
何しろ、総会の次第の一番最後には「副会長挨拶」と書いてあるのだ。
まだこのあと、私は挨拶があるのだ。
冒頭の実行委員会で「挨拶は難しい」と話をしておいたのが効いてきた。

そして最後の挨拶。
司会の教頭先生が「では、最後に、副会長の○○さんに挨拶を」とまでいうと、教頭先生の声も少し笑いかけている。
輪をかけたのが、「副会長、また、挨拶せなあかん。ぶふふふ」と笑う実行委員さんの声だ。
私が、立ち上がるともう、あっちこっちで笑い声が。
そして何を話すのかと、期待されている。
こうなれば、こっちのもの。

「えーと。まさか4回も挨拶をするとは思いませんでした。どんだけネタがあればええねん、という感じがしますが、まあ、話をするのは好きなので」

軽く笑い。

「さきほど、長男と一緒に卒業できないのが、残念だといいましたが、実はもう少しやりたいなと思っていたところでしたので、長女が合格したと聞いて『よしっ』と思わずガッツポーズをしました。親孝行なやつです」

大笑い。

「ま、その長女も3年で卒業なら、私もあと3年か・・・と思っていました。が、実は、我が家には次女がおりました」

爆笑。

「えー、この春、小学校3年です」

爆笑。

「が、本人は『私、○○(高校名)に行く』と申しております。実に、親孝行な娘です」
大爆笑。

「この一年、ありがとうございました」

拍手喝采。

我ながら上出来の挨拶に、おもわずガッツポーズだ。

2008年3月16日(日) 意外な結びつき

PTAの活動をしていると、思わぬところで結びついている人と出会い、驚くことがある。

中学校や小学校は、いわば同じ地域の中なので、いろいろなところで結びついていても、さほど驚くことはない。
小学校でPTAの役員だった人は、中学校へ行ってもPTA役員をやっているし、地域で活動している人は、同じ市内であれば、どこかで顔を合わせることもある。

ところが、高校のPTAでも同じことがよくある。
府立の高校で私の住んでいる町だけでなく、かなり広い地域から人が集まっている。
私の長男と同級生は、小学校の前任のPTA会長のお子さんだし、私の長女と同窓生は、私と同じ市内のPTA会長さんのお子さんだ。
私の子どもと同じ学校から、何十人と受験しているのなら、一緒になる可能性も高いが、受験生はわずかに数名。
その中に同じようにPTA会長の子どもがいるのは、別に申し合わせたからではなくて、単なる偶然。

高校の後援会で一番の活動家であるご婦人は、私の小学校校区内の自治会長さんの奥さんだし、実行委員会の委員長さんは、私の地区の地区長さんの飲み友達だ。
どこかで聞いたことのある名前だと、思っていたら同一人物だったり、「私の知り合いにこんな人がいて」とお互いに話をすれば、実は同じ人物のことだったり。

昨日は校長先生やPTA役員との飲み会で、校長先生が以前勤めていた高校から、私が通っていた新設の高校へ、たくさんの教師が異動したという話を聞いた。

その中で懐かしい名前を聞いた。

「体育の○○先生も、その一人やったなあ」
「あ!あの髭の先生ですか?!」
「そうそう。彼はねえ。女子生徒にもかなり人気があって、水泳では国体まで出場したんですよ」
「そういえば、水泳の授業のときはいつもブーメランパンツでした!」

「数学の××先生も、その高校へ行ったなあ」
「あ!××(あだ名)!!」
「ご存知ですか?」
「私の一年生のときの担任です!」
「彼は、めちゃくちゃ賢かった」
「そうです!ルービックキューブを目の前において、紙と鉛筆を持ってしばらく考えて、何かメモをしたかと思うと、そのメモを見ながら、六面そろえたという、伝説の持ち主です!!」

そうして私がその先生のモノマネをすると、校長先生も「そうそう、そうやって話してたわ」と笑っていた。

意外なところでの結びつき、これからもドンドン出てくれば、楽しくなるに違いない。

2008年3月17日(月) 春の月

この前の土曜日から、めっきり暖かくなってきた。
朝晩は少しコートが恋しくなるが、昼間は完全なお荷物になる。
だから、今日からコートを持たずに仕事に出かけることにした。

電車を待つ駅のホームでも、コートを着ている人は少ない。
既に春の装いになっている人も多く、それだけでも少し明るい気分になる。
電車に乗り込んでも、もあっとするような暖房は既に止まっており、窓ガラス越しの光が心地いい。
できることなら窓を開けて外の風を感じながら乗りたい気分だ。

冬の間は肩をすくめて歩く、ビル街も、日差しが特別気持ちよく感じる。
まだまだ硬いつぼみとはいえ、桜の木も花を咲かせる準備に取り掛かっているようだ。

車を運転していても、そのままどこかへ出かけたい気分になる。
ラジオから流れてくるDJの声も明るく弾み、同じように「こんな日は外へ飛び出したい」と、かなわぬ願いを漏らしていた。

仕事も一段落して間もなく日暮れ前。
空の上には白い月。

カメラを構えはしたが、「まだ写真に撮るのはよそう」とそのままポケットへしまった。

もっと暖かくなってから。
春の月は、もっと暖かさを感じてから、写真に撮ろうと決めて、再び仕事に戻った。

2008年3月18日(火) 祝辞とは

「あれはね、どんなことを話したのか、公文書として、残す必要があるわけですよ。何年も」。
そういったのは高校の校長先生。
そして「あれ」とは卒業式で校長先生が読み上げた祝辞。

校長先生たるもの、いい加減なことを話すわけには行かず、公の場で話したことは、文書として残しておかなければならない。
だから、祝辞は紙に書いてあるものを読み上げるのだと。
そう言われたのは先日の高校の校長先生との飲み会。

そして今日は小学校の卒業式。
私はいつものように、何も書かずに、祝辞を述べたが、私の前の教育委員会も、さらにその前の校長先生も、紙に書いた祝辞を読んでいた。
まあ、そういう理由があるなら、「読む」のも仕方がない。

しかし。
しかしあまりにも、儀礼的過ぎる。
祝辞を読んでいる間、子どもたちの目を見るでもなし、抑揚をつけて語りかけるでもない。
形骸化した祝辞のどこに何の意味があるのかわからない。

私は何も読まない。
自分の気持ちを伝えるときに、紙に書いた文書を読む人はいない。
思っていることを、子どもの顔を見ながら、語りかけるように話すだけ。
子どもを通して、保護者や先生に訴えるように話すだけ。

確かに、私の祝辞を聞いて「大人気ない」と思う人がいるかもしれない。
でも、「会長の話はわかりやすい」と言ってくれる小学生がいるのは事実だ。
「会長の言葉は心に届く」と言ってくれる保護者がいるのも事実だ。
私の言葉で勇気付けられたお母さんもいるし、私の言葉で勉強をする気になった子どももいる。

形骸化した祝辞を読むことが、大人のすることなのだというのなら、私はずっと子どもっぽいままでいい。
そんなことだから、子どもは大人の話を聞かなくなるのだ。

2008年3月19日(水) 雨と風の日

こんな日に出かけるやつはいない。

そう思うほどの雨と風。
そして昨日までと比べて極端に気温が低い今日。

こんな日にもかかわらず、嫁さんは出かけた。
何も好き好んでのことではない。

今日は子ども会の6年生のお別れ会。
みんな揃ってUSJへ出かけた。
嫁さんは、地区長やほかの班長と一緒に子どもの引率で出かけたのだ。

朝こそ雨は降っていなかったものの、昼前には本降りになり、加えて強風が吹き荒れた。
仕事をしながら窓の外を眺めると、雨粒がはっきりと見える。

嫁さんにメールをすると、風がきつくて寒い、ジェットコースターが止まっている、という返事が。
これは思ったより大変そうだ。

ようやく、雨が治まってきた夕方だが、相変わらず風は強い。
私も仕事を終えて家に帰ると、ヘロヘロになった嫁さんが出迎える。

「お、おかえりぃ・・・」

いつもならその日の出来事を、ゆっくり話すのだが、今日ばかりは、嫁さんも口数が少ない。

かなり疲れているのだろう。
本当は、引率をしなければいけない立場でもないのに、みんなの手伝いをするために、引率をかって出たようなもの。

お疲れ様でした。
そして、いつもありがとう。

2008年3月20日(木) 得意科目

大学受験生にまだ勉強を教えることができる、と言うのは、少々自慢できることかもしれない。
もっとも、私の得意科目のことであって、不得意な科目はまったく話にならない。

昨日、長男の入試合格発表があり、「幸い」にも合格することができた。
「見事」というほど難関な大学でもないし、贔屓目に見ても長男はそれほど勉強していたようには思えず、努力の結果、というは程遠い。
だから「幸い」だ。

その大学に合格したとたん、嫁さんも長男も浮かれてしまって、もう別の大学受けることなど頭になかった。
合格した大学は、授業料が高いことで有名なのを、この二人は知らなかったのだ。

嫁さんが手に持っていた、合格の知らせと一緒に送られてきた、振込用紙に書かれている金額は最低限必要な金額。
それ以外にどれぐらいいるのかを知ると、嫁さんも長男も、顔色が変わった。

次の試験日は22日、つまり明後日だ。
この学校なら授業料も安いし、自宅から十分通えるところにある。
なんとかここに合格してくれれば、と思ったが、いまさら試験勉強をしても間に合わない。

長男にどれだけの科目を受験しなければならないのかを尋ねた。
「国語」、しかも「現代文」だけだと言う。

国語は、長男の得意科目である。
私も得意だ。
これなら何とかなるかもしれないと思って、早速、有名私立大学の過去問題を解いてみようと、WEBで検索した。
目的の問題を見つけ、少々難しいが、長男に解かせてみると8割程度は解くことができた。
私が思っていたよりも、長男はできるようだ。

私も同じように解いてみる。
そして長男がどうして間違えたのか、どうすれば答えを導き出せるか、を解説した。
まだまだ国語じゃ、長男には負けない。
長男にはその、有名私立大学の3年分の過去問題を解かせている間に、私は、長男が受験する学校の過去問題を、こっそり解いてみた。

満点を取ってしまい、ちょっと驚いた。
おそらく長男もそれに近い点数を取れるだろう。
だから、この問題を見せるのはやめた。
油断されても困るからだ。

結局、難しい、有名大学の問題を何年分かやらせ、その一つ一つを私が解説しながら、マンツーマンで勉強させた。

こんな短時間で何が変わるというものではないが、それでもそういう脳みそにしておくことが必要だ。
少しでも国語の問題をとく脳みそにしておけば、当日になってもあわてることはないのだ。

2008年3月21日(金) 最後の中学校

「えーこの会議も、今日で本年度最後となりました」
会議の冒頭、強い関西弁のイントネーションで挨拶する教頭先生の顔は、いつものように穏やかだ。
今日は地域の自治会長をはじめ、校区子ども会の会長、小中学校のPTA会長、校長先生、民生委員や地域コーディネーターなど、地域に密着して活動している人達で構成されている、地域協議会の今年度最後の会合だった。

他の会合と同じように、本年度の成果と反省が報告され、決算報告が行われる。
先月に開催された地域のフェスティバルの模様もスライドで報告された。
地域の小学校の子どもたちの群読、趣味で活動している人たちの演舞など、が映し出された。
当日はスタッフとして、私は舞台裏で見ていたが、舞台正面からの撮影のスライドを見て、また新鮮な印象を受けた。

私の横に座ったのはよくこういう場所に現れる年配のご婦人。
口うるさくて何かと文句を言う、私もできれば話をしたくない人なのだが、そういう人に私は好かれるようで、私を見かけると近づいてくる。
そんなご婦人の的外れな言葉にも、適当に相槌を打ちやり過ごす。
「この人ともしばらく会わなくなるな」
そう思うと安心するやら、なんだか寂しいやら。

30分ほどで会議が終り、会場となった教室を出た。
暗く長い廊下を歩く。

そういえば、この中学校に足を運ぶのも今日で最後。
我が家には中学生はいない。
それに次女が中学生になるころには、新しい中学校ができると言ううわさもある。
またいつか、私が小学校のPTA会長を再びやるときが来たら、この中学校を訪れるときがくるだろう。

そう思いながら、古びた校舎を後にした。

2008年3月22日(土) 久しぶりの友人と

以前、古い友人と飲みに行ったとき、友人がこんなことを言った。
「友達と飲んでるときは、昔に戻ったような気分になる」

今日は、以前に務めていた会社の、仲のよい同僚3人と、久しぶりに再会した。
それぞれのメンバーに会うのでさえ、約一年ぶりで、こうやって揃うのはもう、10年以上も前のことだ。

ちょうど20年前、入社した会社の研修で知り合った。
同じ大阪出身とあって、週末はよく飲みに行った。
みんなうちにもよく遊びに来たので、嫁さんとも仲がよく、まだ小さかった子どもも世話になった。
今日はその嫁さんも連れて、5人で再会だ。

仕事を終えた私が、約束の時間に行くと、そこには男友達が二人立ってた。
久しぶりの再会に口元がほころぶが、それでも女性のようにはしゃぐわけでもなく、「おっす」と軽く挨拶をする。
しばらくして、嫁さんと合流し、まだ一人、同期の女性が来ていなかったが、遅れて到着すると電話があったので、先に店に移動することにした。
男だけだと、沈黙の流れる時間帯があるが、嫁さんがいるだけで話が途切れない。

やがて遅れて女性も到着する。
そして女性が二人になると、さらににぎやかになる。

昔話や近況の報告などをお互いにしながら、酒を酌み交わす。

話す言葉のイントネーション、やり取りの間合い。
笑わせるタイミングと、笑い声。
どれも昔と変わりない。

薄暗い明かりの向こうに見えた、みんなの笑顔をみて、冒頭の古い友人の言葉を思い出した。

2008年3月23日(日) PTA!

道を歩いていると子どもたちに「あ!会長や!」とか「あ!PTAの人や」と言われることがある。
なかには「あ!この前キレたおっちゃんや!」と言う子どももいる。

「キレた」のは半年前のこと。
10月にPTA主催による子どものための祭りを催したところ、あまりのゴミのひどさに、子どもたちを前にして叱ったことがあった。
子どもがシーンとするほどに大きな声で一括したので、印象に残っているのだろう。

今日、次女と一緒に公園でブランコに乗っていた。
いつものように片手にはビール。

もし次女が横にいなければ、警察に見回りを依頼されても仕方がない。
今時は、公園で一人の男がビールを飲み、公園で遊ぶ子どもの姿を、ニヤニヤしながら見ていると、警察に通報されても仕方がないからだ。

公園のブランコに座って、前の道を通り過ぎる人を眺めているのは、なんとなく楽しい。
暇でなければできない行為に、いかにも時間に余裕がある、というイメージがして、それが好きなのだ。

そうやって眺めていると、数人の男の子が自転車に乗って通り過ぎる。
先頭の男の子がチラッとこっちを見た。
そしてと声を上げる。

「あ! PTAや!」

すると後続の子供たちも私を見て「PTAや! PTAや!」と声を上げる。

「ぴ、PTAって・・!?」と少し驚く。

横を見ると、それを聞いた次女が笑っていた。

それを見て私も笑った。

ま、子どもに呼ばれるのなら、別にどんな愛称でもかまわないか。

2008年3月24日(月) 富士山

自治会の会議があるから、早く引き上げたかったのだけれど、こういう日に限って仕事が長くなる。
東京での会議をようやく終えたのは、予定時刻を二時間過ぎてからのこと。

新幹線の指定席は確保していなかったので、一番最初に出発する「のぞみ」に飛び乗った。
ちょうどラッシュの谷間だったのか、思った以上にすいていた二両目で、二人がけの窓際に座ることができた。

急いで乗ったので弁当も買っていなかったため、車内販売が来るまでは、手持ち無沙汰だ。
ようやく車内販売でビールにありつき、ホッと一息をついて背もたれに寄りかかる。

窓の外を見て、驚いた。



これほど鮮やかに富士山が見えることは珍しいからだ。

うまく写っているかどうかわからなかったが、携帯写真でもその姿を納めることができた。

しばらく見とれながら、またビールを口に運んだ。
仕事の疲れが癒される至福の瞬間だ。

2008年3月25日(火) それは節約の日々のお知らせ

今日は長男にとって運命の日だが、それは同時に、私や嫁さんにとっても、かなり運命の日である。
何しろ、年間で60万円以上を支払わなければいけないかどうか、それが決まるのだから。
長男が最後に受験した大学合格発表の日だ。

この学校に落ちれば、既に合格が決まっている別の学校へ行かなければならないのだが、その学校の学費が高いのだ。
今日、合格発表がある大学と年間、60万円以上もある。

学費の高い安いがすべてそのまま生徒の待遇になっているとは限らず、少なくとも、先の大学にその差に見合うだけのメリットがあるとは思えない。
だから長男にも後から受験した大学を進めていた。

そして今日の昼前、嫁さんからメールが届いた。

「合格したよ〜◎」

うれしそうなメールに私も喜んだ。
だがその直後に「27日までに○○万円いるよ」と書かれていた。

私のテンションは一気に下がる。

ふう。
これからは節約の日々が始まりそうだ。

2008年3月26日(水) 飲み納めの月

数えてみればこの一ヶ月、8回も飲み会があった。
でも今月はまだ、後2回の飲み会がある。
忘年会シーズンでもこれだけの数の飲み会をすることは稀だ。

昨日、長男の大学入学が決まり、どれだけお金がいるのかを計算し、改めて節約を決めたところだ。

4月からは飲み会への出席も減らさなければいけないだろう。
だから今月は最後の飲み納と言った所だろうか。

結婚して子どもができたころ、よく、人にお酒をご馳走になっていた。
私がお金を持っていないことをみんな知っていたからだ。

今年は接待もほどほどにして、お酒をご馳走になりたい。

2008年3月27日(木) 春休みがほしい

受験生が二人いた我が家にも、ようやく春が訪れ、私や嫁さんの口から、「勉強」の二文字が出なくなった。
次女の小学校も春休みに入り、朝のあわただしさもない。

二週間後には、また、それぞれの新しい生活が始まり、あわただしい朝が戻ってくる。
それまでのつかの間の休息といったところか。

最近、仕事から帰ると、子どもたちは揃ってテレビゲームをしている。
ほんの数週間前なら、黙ってみているはずもなかった嫁さんが、子どもたちがゲームをしている姿を、にこやかに見ている。

私も一緒になってゲームをする。
長男にはかなうべくもないが、長女や次女の相手ならまだできる。

ビールを飲みながら、ひとしきりゲームをし、その後テレビを見る。
いつもなら「寝なさい」といわれる時間になっても、子どもたちは起きているし、私や嫁さんの会話に混じってくる。

忙しくてあまり会話のなかった日々が、今ここに来て戻ってきた感じがする。
できることなら私も春休みを取りたい。

2008年3月28日(金) 公民館委員会

昨年のただの「PTA会長」のときはなかったことだが、今年のように「市PTA協議会の役員兼任のPTA会長」となると、市PTA協議会を代表して、いくつかの会合に出席しなければならないことがある。
本来なら協議会の会長が代表となるべきなのだが、年間に20〜30もあるその会合のすべてを、一人の協議会会長でまかなうなんて無理がある。
そこで、我々役員でまかなうことのできる会合には、会長の代わりに、協議会代表として出席することになったのだ。

そんな会合の一つ、市の公民館委員会が今日、開催された。
平日の昼間に公民館に行くことは滅多にない。

駅から歩いて五分ほどのところにある、公民館の入り口は、自動ドアではない。
重いガラスの扉を押して中に入り、スリッパに履き替える。
スリッパも使い込んだ感じがあり、あっちこっちに得体の知れないしみがついている。
ペタペタと音のするスリッパで廊下を歩き、会議室に向かう。
ちょうど、学校の教室の入り口で見かける「○年×組」と書いたプレートのように、公民館の各部屋の前にはプレートがぶら下がっている。
でも、そのプレートの文字が見えない。
廊下の明かりが消されていて、薄暗くて見えないのだ。
徐々に目が慣れてきても、結局、廊下の端にある部屋が何の部屋だったのか、わからなかった。
会議室の場所を知らなければ、きっと公民館の中をうろうろして探し回っていたことだろう。

中に入るとテーブルが「O」の字型に並べられていた。
顔見知りがいるとは思わず、油断していたら、「おや」と不意に声がかかった。
みるといつもの教育委員会の人が委員長席に座っていた。
私がPTA会長として活動するときも、市子連の常任委員として活動するときも、よくお世話になっている人だ。
向こうも私のことを「あっちこっちで見かける人だ」と思っているようで、「今日はここですか」と声をかけてきた。

お上品な着物を召された女性や、いかにも一般主婦代表と言う感じの人、公民館の職員さんなど、テーブルに座ったメンバーは全部で11人。

古びた長机とパイプ椅子、そして相変わらず薄暗い部屋。
入り口を入ったときから、予算不足を如実に物語っているこの公民館。
会議の中でも現状の苦しさや、来年度以降、更に予算削減の憂き目に会っていることなどが議題に上った。

それでもこの公民館で行われる催し物は、やはり地域の人や子どもたちのためには必要なものであり、こういう活動を行うことで、人とのつながりが増え、相互扶助の精神がめばえることは、実例として聞いているし、私自身や家庭での実体験でもある。

年にわずか二回しか行われず、その委員会としての活動も、ほとんど誰にも知られない、小さな小さな会議だったが、そこでの話し合いには熱意が感じられ、こういう人たちと話をすることで、私自身のモチベーションが維持されることを再認識した日だった。

2008年3月29日(土) スケート帰り

私には得意なものがいくつかあるが、その中でも周りが見て「うまいやん」と言われるのがアイススケート。
全国的な平均がいったいどれぐらいなのか知らないが、少なくとも私の周りでは滑れる人のほうが少ない。
わざわざ文章にするほど「うまい」訳ではないが、普通に滑っていてこけることはないし、へっぴり腰ではないので、スマートに滑っているように見えるのだろう。

スケートと言えば嫁さん。
一時期はスピンやジャンプもできたというから、かなりうまい。
であるが、不幸なことに、夕べ階段から落ちて足を強打したらしく、今日は滑らないと言う。

スケートのうまい下手は、リンクの中へ入る瞬間にわかる。
うまい人は、我々が普段、エスカレータに乗るときと同じように、自然に足が前に出て、そのまま流れに乗る。
下手な人は、エスカレータに初めて乗るときのように、足元を見つめ、タイミングを見計らい、こわごわ足を出して、それでもバランスがうまくとれず、すぐさま手すりに頼る。

今日の嫁さんは、同じように見学を決め込んでいる、他のお母さんと一緒に談笑だ。
私はそのお母さん方の子どもと、次女を連れてスケートリンクで滑る。
お守りといっても、子どもたちはみな、一人で滑ることができるし、次女も手を繋いでやれば滑ることができるようになったので、以前よりは楽になった。

みっちり3時間ほど滑って、みんな足が痛くなり始めたので靴を脱ぎ始めた。
最後まで滑っていた次女も、だんだんと冷えてきたのだろうか、温かい飲み物が飲みたいといって上がってきた。

帰り支度をして外に出ると日差しが暖かい。
駐車場付近に咲いていた桜がとてもきれいだった。



ついさっきまでまたスケートがしたいといっていた次女が、今度は花見をしたいという。

来週はお花見だ。

2008年3月30日(日) 前途多難

昨日、スケートから戻って資料を作り始めたが、疲れからか早々に寝てしまい、今朝、続きをはじめた。
起床したのは5時前。
冬ならば、外はまだ真っ暗な時間帯だが、もう、夜明けの気配がして、春が来たことを実感する。
20年度からこの地区の小学校PTA地区長をすることになり、張り切っているところだ。

私の地区には区域で分割された五つの班があり、それぞれに班長さんがいる。
また、私の補佐として副地区長さんが1名と、地区の生活指導を担当する、生活指導委員さんがいる。
今回は特別に一箇所の班だけ、「忙しくてとてもできない」と言うところを、何とかお願いしたため、その区域の保護者の方、2名で班長さんを引き受けていただくことにした。

いつもより人数は多いのだが、今回の班長さんは、1名を除いて、みな、初心者であり、何より、地区長である私が、班長すら経験したことがないため、異例の超初心者集団となってしまった。

そこで、前年度の地区長が「しゃーない。私が補佐をしたるわ」と、補佐をかってでてくれた。
これは頼もしい限りだ。

しかし私も、それにただ甘える、というわけには行かないので、班長に配る資料の作成には力を入れた。
まず、班長ごとにクリアファイルを用意し、クリアファイルには班長名を印刷したシールを貼り付けた。
各班の家庭に配布する資料が数部あったが、それらを班毎に枚数を数えて、クリアファイルに入れ、それらの資料の説明と、配布先、配るタイミングなどを書いた用紙も一緒に入れた。
もうこれで、中学生が見ても、何をどうすればよいかわかる内容になった。

それを雨の中、昼過ぎから、各班長の自宅を回り、届けることにした。
ところが私は班長さんの自宅を知らない。
こんなとき、頼りになるのが嫁さんだ。

嫁さんに連れられて班長の自宅や副地区長さんの自宅を回った。
ところが、何軒か、留守の家もあり、せっかくの資料を渡せずじまいで戻ってきた。

雨の中、とぼとぼと帰宅する。
気合を入れて作った資料が渡せずじまい・・。

と、副地区長からメールが。
「資料の日付が間違ってます!!」

前途多難だ。

2008年3月31日(月) 新年度

平成19年度も今日で終わりだ。
明日から新しい年度が始まる。

PTA会長としての仕事はまだ残っているものの、一応は今日で任務を終えて、明日からは地区長としての生活が始まる。
地区長となれば今まで以上に子どもとのつながりが深くなる。

例えば、引率。
新一年生が登校に慣れるまでの一ヶ月間、子どもを学校まで引率する。
これは新六年生がみんなを引率していくことに慣れるまで、という目的もある。

そういえば町内の子どもたちのすべての通学路を把握しているわけではない。
それを再認識することで新たな問題も見つかるだろうし、解決策を考えなければならない。
それも地区長の役目。

まずは明日から早起き。
目標は6時半。

いつまで続くかはわからないけれど、それでも目標の一つ。
無理はしないが頑張る。

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