カリント日記

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2011年8月1日(月) ひとつひとつ

先日の隣町の盆踊り大会でのこと。

受付で花代を渡して、そのままビールを買いに行き、再び来賓用のテントに戻ると、うちの町内の自治会長がいた。

自治会長は一番前の中央に座っていたが、両隣に私の座る場所がないとわかると、すぐに一番奥の端に三人分の空いている席を見つけ、「あそこへ行こう」と自分のビールを持ってそのまま席をたった。

私を気遣ってわざわざ空いている席まで一緒に移動してくれたので、「会長、申し訳ないです。せっかくいい席にお座りになっていたのに」とお礼を言うと「あーかまへんよ」と機嫌のよさそうな返事が返ってきた。

しばらく二人でビールを飲みながら周りを見渡していると、会長がポツリとつぶやいた。
「せやけど、ここの場所は広いなあ」
自分の町内の盆踊り会場の小さな児童公園に比べると、このマンション専用の広場は3倍以上の大きさがある。
そういう会長の顔はなんだか少し寂しそうな表情だった。

「けれど会長、うちはその分、みんなと近いし、目が行き届きます。それに狭いせいかも知れませんけど、熱気が違いますよ」と、別に慰めるつもりではなく、本当にそう自負しているので思いのまま会長に伝える。
「はっはっは。そうやなあ」と嬉しそうに笑う。

盆踊りのことなどをいろいろ話しているとお決まりのように市会議員やら府会議員が挨拶に現れた。

先輩の議員が私のことを「PTA会長さんです」と紹介すると、会長も「彼はうちの町内のホープでんねん。子ども会の会長やら何やらいろいろとやってくれとりまんねん」とうれしそうに私を紹介してくれる。
「おお。そうですか」といいながら若手の議員が私に挨拶をして名刺を渡す。
けれど、その若手議員は、以前、先輩の議員に連れられてわざわざ私の家まで挨拶に来ているし、さらに先週、別の盆踊り会場で私に名刺を渡していた。

うるさい一行が立ち去り、来週の盆踊りの話などをする。

「まあ、わしもあと10年はがんばらんといかんなあ思てんねやわ。○○(私)くんがPTAやら子ども会やらで、あと10年がんばるいうてるから、それまで引退でけへんからなあ。せやけどその後は頼むで。あっはっはっは」

どこまで期待されているのかは知れないけれど、自分のできることはやりたい。
まずは来週の盆踊りだ。

2011年8月2日(火) 盆踊りの練習

数年前から、町内の盆踊り大会の前に、子どもを集めて子ども用盆踊りの練習をしている。
講師は隣町に住む自称「踊りの好きな普通のおばちゃん」たちであり、自分たちで踊りの同好会を作り、毎年この時期になるとお揃いの法被を着てあっちこっちの盆踊りに参加しているらしい。

まずはその女性たちを前にして子どもに挨拶をさせる。
「はい。今日は、踊りの先生に盆踊りを教えてもらいます。最初にご挨拶をしましょう」と私がいうと女性たちは「先生じゃないのよ。普通のおばちゃんよ」と笑いながら謙遜した。

でも、子どもたちにとっては「先生」というほうが理解しやすいし、相手が先生だと思うからこそ、学ぼう、と思うのである。

早速練習を開始する。
いつものカセットテープを使っていつもの音頭を流す。
自治会館の中、みんなで輪になり、聞きなれた音楽が流れてくると、先生が手拍子を打って踊り始め、先生の後に生徒である子どもたちと保護者が続く。

私は、昨年も練習に参加していたためか、しばらくするとすっかり踊りを思い出した。
子どもたちは飲み込みが早いし、低学年たちは楽しそうに踊っていた。

練習は1時間弱ほどで、エアコンも効いているのに、みんな汗だくになってしまった。

終わりの時にはみんなで「先生」にお礼を言うと、やはり「先生じゃないのよ。隣のおどりのすきなおばちゃん」と笑いながら謙遜する。

自宅に戻っても、音楽が頭からはなれず、それを口ずさんで手足の動きを思い出したりする。

うん。これなら今年はうまく踊れそうだ。

2011年8月3日(水) 悩む会長

PTAの会長会の後、飲みに行った。

当初、予定していたメンバーが飲み会に参加できなくなり、今日は中止にしようかと思ったが、別のメンバーに声をかけると、急な誘いにもかかわらず、あっさり参加することが決まったので、予定通り開催することになった。

店も急遽決めた小さな店で、4人ならゆったり座れる程度の座敷に、6人が詰め込んで座ることになった。

以前から一緒に飲みたいと思っていた、今年初めての会長さんも参加してくれた。
会議のとき「実行委員さんとうまく行かない」と悩んでいたので、ちょうどいい機会だとも思った。

乾杯をしてから程なく、その話題になる。
その会長はやはり元気がなさそうだ。

「でも多かれ少なかれそんな話はどこにでもありますよ」と誰かが言う。
「私は副会長に好かれず、その副会長は後半から学校に来なくなりました」と私が笑いながら言うと、別の会長は「当時私が副会長やってたとき、会長から『あなたのおかげで会長を続ける気力がない』って言われた」とこれまた楽しそうに笑いながら言った。

それを聞いていた新人の会長さんは「なんか、ちょっと安心しました」といってくれた。
まじめな人なので、余計に心配になったのだと思う。

別にほかの会長が不真面目なわけではないのだが、多少のまずさがあるのは当然で、別に会長になるための適性検査があるわけではなく、ほかの会員と同じく一人の保護者なのだから、期待された分だけの働きができなくても当然だし、失敗があって当たり前なのだ。
帰り道、その新人会長は「いやー今日は本当に皆さんとご一緒できてよかったです」と言ってくれた。

彼ならきっとこれから先も続けていけるだろうし、今後誕生するであろう、新しい会長さんに対しても、よき相談相手になれるのではないだろうかと思った。

2011年8月4日(木) バス停にて

車で30分ほどのお客様のところへ電車とバスを乗り継いでいくと1時間以上かかってしまう。
けれども昼間、電車で客先間を移動しているときに、わざわざ車を取りに自宅まで戻るのも少し手間だと考えた。
暑いから思考能力が低下していたのかもしれないが、とにかく涼しい電車に乗っていたくて、出先だしこのまま移動することにした。

電車を乗り換えて30分。
「節電」が盛んなこの時期でも電車は冷房もよく効いていて快適だ。
多少駅と車内の明かりが暗い設定になっている程度で、なんの不自由もない。

電車を降りてバスに乗り換える。
バスの中もエアコンはしっかり効いていて申し分ない。

やがて発車時刻になり15分後、目的のバス停でバスを降りる。

熱風が体を包み込む。
たまらない暑さだ。
焼けたアスファルトのを上を一歩一歩ユーザの事務所へ向かって歩く。
少しでも日陰を見つけるとそこへ非難しながら。

事務所の中は冷房も効いていてまさにオアシスといった気分だ。

仕事を終えて、帰りのバスの時刻を見る。
今から事務所を出れば、ちょうどバスが来るはず。

はずだった。

炎天下でバスを待つ。
日陰にいるとバスから私の姿が見えない。
かろうじて日陰ができてるのはバス停の表示の影。
体半分ほどしか隠れない。

5分。

そろそろきてほしい。

10分。

えーい、まだこないのか。

15分。

お願い。早く。

20分後。

バスの影が見えると、安堵のため息が出た。

やっぱり、車で来る場所だ、と帰りのバスの中で反省した。

2011年8月5日(金) 先に髪を切る

土曜日は朝から盆踊りの準備があり、それが終わるとジュニアリーダー養成講座のキャンプに参加する予定だ。
両方とも、真夏のこの暑い日差しの中で行われれるので、日焼けすることは目に見えている。

前回、髪が長いときに日焼けをして、直後に髪の毛を切ったので、日焼けのふちが額に残り、まるでサルのような顔つきになってしまったことがあった。
それに懲りていたので、今回は日焼け前に髪を短くすることに決め、今日行った散髪屋には、水曜日に電話で予約をしていた。

今日で4回目で、3ヶ月に一度しか行かないが、調子のよいおばちゃんが親しげに話してくる店で、雰囲気は悪くない。
もう店じまいしてしまったが、以前に通っていた散髪屋は格安ではあるものの、通り一遍の接客であり、態度などは決して悪くはないのだが、フレンドリーといった感じではなく、いつまでたってもお互いの名前と顔が一致しなかった。

それに比べて今の散髪屋さんは、2回目に言ったときはすでに名前を覚えていてくれた。
今日はいつものおばちゃんとは違っていたが、それでもおばちゃんであることに違いはなく、親しげに話してくるし、名前も覚えていてくれた。

やはり名前を覚えていてくれるとうれしいもので、なんだか安心して任せられる。

「今日はいつもより伸びてないですねえ」
「そうなんですよ。でも明日日焼けしそうやから」
「ああ、ああ。この前、日焼けしてから来はったもんねえ」
「で、おかしくな顔になったので、今日は先にきってしまおうかと」

とそんな会話をしながら、どんどん切ってもらった。

料金は以前の店に比べれば高い金額だが、シャンプーやマッサージもしっかりしているし、お話をしていても楽しいので、数ヶ月に一度なら別に「高い」とは思わない。
まあ、技術についてはその高低云々を言えるほど私はヘアスタイルにこだわりがないので、その部分はよくわからないのだが。

働きづめの休日を前にして、見も心も引き締まった感じがした。

2011年8月6日(土) テント設営

自治会のイベントで最も体力を使うのがこの盆踊り大会。
校区体育祭も文字通り体を使うが、盆踊りの準備は何しろ暑いさなかに行われるので、体力の消耗が「ハンパねえ」のである。

9時に自治会館に集合し、お母さん方がそろったところで、指示を出す。
「机全部とイスを30脚、それから長いすを全部、外に出してください」
そういってすべてを車に積み終えると、今度は会場となる公園へ移動してテントの組み立ての指示を出す。

お母さん方に指示を出してテントを設営するのが私の役目。

毎回の説明なのだが、毎回手伝いのお母さんたちが変わるので、毎回同じことを言う。

足の配置、ジョイントの仕方、テントの張り方、そして立たせ方。
組みあがったテントを移動させるときには特に私とほかの人との違いが現れる。

よくあるのが「移動させるから持ち上げて」と持ち上げさせてから「こっちこっち。違うがな。もっとそっち」と、自分も手がふさがっているものだから、あごの向きで説明してしまい、しかも「ブランコ」と「すべり台」の区別がつかなくなっているので「もっとブランコのほうへ」とまったく明後日の方向へ誘導してしまうようなことだ。
あるいは何の理由も説明せずに「はい、誰かテーブルのそっち持って運んで」そういってテーブルを持たせて「あっち。違うがな。あんたの後ろのほうや」などと説明をする。

確かにお母さん方には悪いが「自分で判断する」ということのできない人が多いように見受けられ、その場その場で何か指示をしないとなかなか動けない。
だから男性の中にはついつい「リモコン操縦」する感覚でお母さん方を使おうとする人がいるのもわかる。

けれど最初からきっちり説明すれば、間違いもないし、スムーズにことが運ぶ。
「テントを最終的にこの位置に持ってきます。この脚がここに来ます」
そういって実際にテントの位置を把握させる。
「なので、ここへ運ぶときは、この脚がこのすべり台の上を通過します。そしてこっちの脚はここへ来るので、この机が邪魔です」
そういってから机を移動させる。
すると「じゃあ、この机も移動させたほうがいいですね」と気がついて机を移動させるお母さんもいる。

「テントを移動させるときは最初は平行に、あの木に向かって移動させます。それから次は○○さんを軸に回転します。そしてフェンス向かって移動させ、すべり台とベンチの上を通過させます」
そこまで説明してから「はい。それでは持ち上げます。せーの」と持ち上げる。
みんなが理解しているので、運ぶときにもああだこうだ言う必要がないからこちらもイライラすることはないし、だからお母さん方も不服そうな顔をすることもない。

そうやって二張りのテントを組み立てて移動させるまで、作業メンバーのほとんどが女性だったのに、一時間もかからなかった。

テントが組みあがると、日陰ができたその場所に机とイスが運び込まれ、とたんに休憩場所ができる。
だから炎天下の作業では優先的にテントを組み上げなければならない。

その後、ちょうちんを組み立ててお母さんたちは解散。
私はその後に「花代」を飾るたて看板の組立作業を行って、お昼過ぎにキャンプへ行かなければならないからと、先に失礼した。

もう、顔も腕もすっかり日焼けしていた。

2011年8月7日(日) 充実の盆踊り

昼過ぎにキャンプから帰ってきてシャワーを浴び、少しだけ休憩をして、盆踊り会場となった公園へ出かけた。

すでに会長以外にも数名が集まり、少しずつ準備を始めていた。

大きなものは前日のうちに仕上がっているものの、音響の準備やテスト、子どもたちへのお土産の用意、机やイスを並べたり、飲み物を用意したり、とやることはまだまだある。
私が毎年やっている作業は、花代札の掲示。

花代とはつまり寄付金。
花代を納めていただいた人のご芳名を書いたものを「花代札」というらしい。

前日に組み立てた、たたみ十畳ほどもあるような看板には「金壱万円」や「金伍千円」と筆で立派に書かれた紙が貼られており、その横に金額に応じて「立派さ」の異なる花代札を、画鋲(がびょう)で貼り付けていく。

西日がもろに当たる中で脚立に上って作業するのはかなりきつく、すべてを貼り終えるまでに4回ほど休憩をした。

音響テストに使われている演歌をBGMに、それぞれの持ち場でそれぞれの作業を進める。

18時前になりそろそろ子どもが集まり始めた。
20時までの子どもの部の進行は私に任されている。

「○○町子ども会よりお知らせします。本日6時より、子どもの部の盆踊りを開催します。皆さんもぜひ参加してください」
大きな拡声器から流れる自分の声が妙に恥ずかしい。

そして18時になり、子どもの姿も増えてきたところで、先日練習した子供用の盆踊りの曲を流した。
踊りを教えてくださった「踊りの先生」と一緒に私も踊り始める。
それを見ていた子ども会の班長さんも踊り始める。
浴衣姿の子どもがそれについてくる。

最初は人数が少ないので子どもたちも恥ずかしがるし、お母さんたちも恥ずかしそうだ。
だから余計に私が張り切って踊る。
私が踊らなければお母さん方も踊りにくいし、子どもも踊りにくい。
それに一所懸命に踊ってくださる先生方に申し訳ない。

30分踊って10分休憩、というサイクルで進めていくと、休憩のたびに子どもの数が増えてきて、とうとう輪になって進むことができないぐらいの人数に増えてしまったので、輪を二重にして踊るようにした。
大人の部では珍しくないが、子どもの踊りでこれだけ集まったのは初めてのことだ。



19時45分に放送をする。
「次の曲が最後です。皆さん一緒に踊りましょう」

そういって再び輪の中に戻ったとき踊りの先生の一人が声をかけてくださった。
「○○(私)さん、本当に、よう頑張らはる。偉いわ」

たとえば意見を求められた場所ではなく、たとえば誰かに報告や発表をする場でもない、ほかの誰かに聞かせるためではない、この状況でポツリと声をかけてくださった言葉は、飾りやお世辞ではなく本当の気持ちのようで、とてもうれしく感じた。

子どもの時間が終わって子どもたちにお菓子とおもちゃを配る。
順番を待つ子どもの列は、公園の端から端まで二列に並んでもまだ余るほどで、用意した200個のお菓子はぎりぎり足りる程度であり、過去最高の人数であることは間違いない。

20時からの大人の部も大盛況で、あっという間に踊りの輪は二重三重と膨れ上がった。

私もいつものようにくずして踊る。
不意にどこかのご婦人が私の左横へ来て「かっこええ踊り方やねぇ。私にも教えて」と飛び入りしてきたので、ポイントを教えてあげたものの「やっぱ難しいわ」と言い残し、二週ほどしてあきらめて普通に踊っていた。

そういえば、府会議員さんが私を覚えていたのも、昨年のこの踊りを見ていたからで、昨年11月ごろに、初めてその議員さんと挨拶したときに「○○町の盆踊りで踊ってはった人ですよね」といわれた。

踊りの合間を縫ってお越しいただいた来賓の方々にも挨拶をする。
いつもお世話になっている隣町の小児科の先生、同じく別の隣町の体育指導委員さん、自治会長さんや、ミュージカルの関係者、議員さんにも少しだけ。

こうして忙しい時間も終わり、みんなが引き上げた後、撤収作業を開始した。

前日からの疲れもあって、途中で引き上げさせていただいたが、動いただけのことはある盆踊り大会だった、と充実感に満ちていた。

2011年8月8日(月) 饒舌マスター

本来なら月曜日は休肝日なのだが、今日は私以外が全員外食をするというので、一人で自宅で酒もなしに食事するのも寂しすぎるし、偶然、今日の帰りに気になって「今度来てみよう」と決めた店があったので、その店で酒を飲むことにした。

串や焼き物がメインのお店なのだが、明るくて店員も若く、煙たさもまったく感じない店内であり、外からも中がよく見えるためか、子ども連れのお客も多かった。

カウンター席でとりあえずビールを飲み、2〜3品の串を注文した。

嫁さんいわく「油っこくておいしくない」という店だったが、どうしてどうして。
なかなかおいしいカツじゃないか。

ビールを3杯ほど飲んで上機嫌になった私は、いつもなら深夜にならないと行くことのない、それでも行きつけのバーに顔を出した。

まだ20時を過ぎたところ。

外から店内を見ると客はまだ誰もいない様子で、もしかしたらまだ開店前なのかもしれない、と思って、恐る恐るドアに近づいてみると、ドアノブのところに「8時より営業」と書いてある看板がぶら下げられていたので、安心して元気よくドアを引いた。

「こんばんは」と挨拶をすると、なじみのマスターは「あ。いらっしゃいませ。この前はどうもありがとうございました」と挨拶とお礼とを同時に言った。

前日の盆踊りのときに、奥さんとお子さんを連れてきており、帰りに子どもにお菓子を配ったので、それに対するお礼だった。

「ぼく、この町内の人間じゃないんですけど、子ども全員にお菓子を配ってくれるんですね。それにおもちゃやぬいぐるみまでつけて。もう、めっちゃ喜んでましたよ。子どもも嫁さんも」

そんなに喜んでくれるなら、苦労した甲斐がある。

「それに○○(私)さん、あんなことやってはったんですね。前から話は聞いてましたけど、見てびっくりしました」

「あんなこと」とは子ども会の会長として、放送をしたり、子どもたちと一緒に踊ったりしたことのようだ。

「それにしても大変でしょ。あれだけ準備したりするのは。後片付けもでしょ。あれは大変やと思いますわ。僕らなんか・・・」

と、私がジントニックを注文して一杯目を飲み終えるまでの間、いつもなら聞き役のマスターが、ずっと話をしていたのは、それほどに驚いたという証拠なのだろう。

私も饒舌になって、後からやってきた客と楽しく会話し、帰り際には隣の席に座ったインド人とも握手をして帰ったほどだ。

2011年8月9日(火) 都会の近くで

先日の盆踊りの準備の後、車を走らせ、近くの山の中にある野外活動センターで行われている、子ども会のキャンプに合流した。

私が到着したのはまだ日が暮れる前のことだったが、子どもたちはすでに夕飯を作り終わるところであり、「グッドタイミングで来たなあ」などとほかの常任委員に冷やかされた。

飯ごうで炊いた飯とクリームシチュー、油もソースも足りなくて、ボソボソでしかも細切れになった、焼きそばをいただいた。
焼きそばはともかく、ほかはとてもおいしかった。
いや、その焼きそばでさえも、外で食べるのはおいしいようで、結局、どれもこれもすっかり子どもたちは平らげてしまった。

日が暮れると近くの山にあるハイキングコースを「ナイトハイク」した。
ナイトハイクでは何も明かりを持たず、自然の明かりだけで山の中を歩く。
もちろん、用心のために懐中電灯は子どもたちにも持たせているが、万一のときのためのものであり、歩くときに使用することは禁止した。

真っ暗な山の中は、子どもたちが驚くには十分であり、舗装されたコースから未舗装のコースへと、道の固さが異なるだけで、「キャーキャー」と悲鳴を上げていた。

やがて目が慣れてくると、曇り空で雲に靄(もや)がかかっているにもかかわらず、自分たちの影が見えた。

コースを進んでいくと空中を漂う、弱弱しい光を見つけた。
ホタルだ。

真っ先に見つけた私は「ホタルや」と暗くて見えるはずもないのに、その方向を指差した。
案の定、あっちこっちから「どこどこ?」と言う声が聞こえてきたが、すぐさま「うわ。ほんまや」「きれい」などと言ううれしそうな声に変わった。

懐中電灯をつけていたのなら、その明かりに負けて見えなかったかもしれない。

目的地の池に着いたところで、5分間、何の音も立てずに周りの音だけをひたすら聞いた。
子どもたちは少々退屈だったかもしれないが、明かりひとつつけず、真っ暗な山の中で、音も立てずに周りに集中するなんてことは、一生のうちに経験することのないことだと思う。

二時間ほどのハイクを終えて活動センターに戻る。
21時。
子どもたちはそろそろ就寝の時間だ。

子どもたちはセンター中央の広場より一段高いところに作られたキャンプ場にテントを張って寝泊りする。

就寝の準備をして、子どもたちはテントのあるほうへ姿を消す。

22時ごろ。
「それでは反省会をしましょうか」と大人の時間が始まる。

大人同士で話をしていると、時折、トイレのために子どもたちがぞろぞろ降りてくる。

けれど肝心のトイレは虫たちのたまり場になっており、女子などは悲鳴を上げるばかりで近づくことすらできない。

私も様子を見に近づいたものの、できるだけ何も手出しをしないほうがいいと考えていたので、子どもたちがどんな風にするのかを見ていた。

すると、男子が殺虫剤を持って中に入っていき、虫を追い払ったようだ。
男子に感謝しながらようやく女子が入っていった。

殺虫剤で追い払われた虫たちを少し哀れに思いながら、水銀灯の下を探してみた。

すると見つけた。



カブトムシだ。

都会がすぐ目の前にある場所なのに、まだホタルやカブトムシが、わずかではあるが、住んでいるのだ。

翌朝、別のカブトムシを見つけた常任委員は「うちの子どもに持って帰ってあげる」といってペットボトルで作った虫かごに入れていたが、なんだかとてもうれしそうにそれを見ていた。


2011年8月10日(水) 踊り子

盆踊りの反省会をやるようになったのは、数年前だったように思う。
それまでは毎回、盆踊り当日の夜に開催していたようで、私が初めて自治会の手伝いをしたのがその盆踊りの後片付けのことで、片づけが終わってから誘われた反省会を断って帰ってきた記憶がある。
というか、日記にそう書いてある。

それを後日に開催するようになってからは子ども会のお母さんたちにも参加していただけるようになり、反省会も少し楽しい雰囲気で進められるようになった。

無論、それだけみんなが楽しい雰囲気になっているのは、盆踊り大会が大成功だったということを感じているからに他ならない。

花代は毎年減る傾向にあるけれども、「どこの自治会にも負けんぐらい、たくさんの人に来ていただけました」と自治会長が言うとおり、年々、参加する人が増えにぎやかになる。

会長がみんなに聞いた。
「あの踊りを踊ってる人たちが、どれぐらいいたか、数えた人はおりまっしゃろか?」

みんなが首をかしげるとしてやったりという顔で会長が話を続けた。
「わたしもざっと数えてみたんですけど、50人以上おりましたわ」

会長は得意げであるが、誰もいやな気分ではない。
「私もここら辺の町内会の盆踊りには顔を出しておりますんやけども、50人なんて人数には、どこもなっとらんかったわけです。ほかにはもっと大きな場所でやっているところもあるんですが、ここよりも踊ってる人の数は少のうおました」

まあ、あれだけ踊る人が多くなるのは、正直、私が踊っているからだ、と自負している。

毎回のことだが、私が踊っていると、私のそばに来て楽しげに踊る人がいる。
自分だけだと恥ずかしいと思って参加しない人も、私のように思い切った踊りを踊っているのを見ると、恥ずかしいなどと思わなくなるものだ。

そういう人が何人か入ってくると、よりいっそう、踊りは楽しそうに見える。
だから人が集まる。

来年もまた、たくさんの人が集まって、そして楽しい反省会ができるようにしたい。

2011年8月11日(木) できれば写真

先日、町内の一大行事である盆踊り大会が終わったばかりだが、8月の土日はまだまだ大忙しであり、やるべきことも盛りだくさんだから、日記に書く話題には困らないように思う。

けれど、最近日記を書いていて思った。
いや、実際には書いたものを読み返して思った。

やっぱり、文章だけでは読み返しても面白くない。

過去の日記の中には手前味噌ながら「秀逸」と思えるものもある。
時間をかけて遂行したのか、それともよい文章に出会った直後だったのか、単に、自分の想いが一途だったためか、そのときの理由は思い出せないが、文章だけで十分に面白い日記を書くこともある。

けれどそれはごくまれであり、忙しいさなかに書いた、ほとんど「記録」のための日記の文章には面白みがない。

せめて写真でもあればよいのに、と思う。
できればその時々のリアルタイムのものがよいのだろうが、なかなかそうもいかないことが多い。

だから過去のものでもいいので、そのときの心情にあったものを掲載できれば、それはそれで納得できる日記になるかもしれない。

これからは極力、写真もアップしていこう。

そう思った矢先、この日記にあう写真は見当たらなかった。
なかなか掲載できるような写真を撮っておくのは難しいことだ。

2011年8月12日(金) あの時代を懐かしむ

「お久しぶりです。お元気ですか」
こんな書き出しで始まるメールが三日前に届いた。

相手は仕事先で知り合った元後輩の女性。

同じ会社ではないし、一緒に仕事をしたこともないけれど、他人に説明するとしたら「仕事の先輩と後輩」。
あるいは単に「仕事先で知り合った飲み仲間」。

「またゆっくりお会いできたら」と書いてあったので、返事を書いた。
「土日は忙しいので平日の夜なら」。

そして今日、二人で飲みに行った。

一年半ぶりの再会。
予約していた店は居酒屋だったが、「二人」と告げたせいだろうか、完全な個室に案内された。
相手によっては誤解されかねないような場所だが、今回はそんなことに気を使うような相手でもない。

ビールと飲み物を頼む。
好きな食べ物を、と彼女に促すが、彼女は一向に決められない様子。
私が急かすと「こういの(決めるの)苦手なこと知ってるでしょ」などという。

いや、知らない。
私が「忘れた」のかも知れないが。

飲み物を片手にお互いの近況を話す。
成長した子どものこと、PTAのこと、家庭のこと。

私は時々、彼女の顔を見ながら、昔のことを考える。
彼女がえらく生意気に見えたときのことや、彼女が職場で少しへこんでいたときのこと。
私もまた、仕事に悩み、それでも毎日楽しそうに過ごしていた時代のこと。



昔からの知り合いと会えばその時代に戻る、という。
私が彼女と酒を飲むのもやはりあの時代を懐かしむためなのかもしれない。

2011年8月13日(土) 当てもん買出し

先日、校区長から「土曜日に花火大会の花火や当てもんの買出しに行きたい」という連絡があった。

昼過ぎから校区長の車に乗って、次女と役員の女性と4人で松屋町の問屋街へと出かけた。

花火は校区長のなじみの店で購入する。
パソコンに過去の買い物履歴が記録されているらしく、それを見て今年の花火を適当に選んでくれる。

その間、私は「当てもん」用の景品を買うために、次女と別の店を回る。

私たちはそれを「当てもん」と呼んでいるが、くじをめくると数字が書いてあり、その数字に該当する商品がもらえる、縁日などでやっているあれだ。
おそらく単に「くじ引き」という名前で出店されていることが多いのではないだろうか。

店頭にはその「当てもん」がセットになって販売されている。
ひとつの袋の中には、子どもが喜びそうなゲームやおもちゃが並べられているが、これは「当たり」の部類で、全体の20パーセントほどしかなく、あとは「鉛筆」などのような「はずれ」がほとんどだ。

景品を貼り付けてある台紙を見ると「80+3」などと書いてある。
これは83枚のくじがついていて、それに対応する景品も83個ついている、ということを示すらしい。

また、「50円」という文字も書かれているが、これは駄菓子屋などで通常は50円でやるのが相場の内容になっているそうだ。

それでもこの当てものの購入価格は2400円+消費税。
つまり、2400円ほどで80回分だから、一回あたり30円ほどの原価。
50円で売っても20円の儲け。
80回分なら1,600円の儲けだ。

100円なら3,200円。
これがお祭りでは飛ぶように売れるから不思議だ。

さすがに子ども会なので、あまり大きな儲けは取らない。
150円で2回できて、しかも全員に30円相当のおもちゃをプレゼントすることにした。

でも、当日の混雑を考えると少し心配だ。

2011年8月14日(日) 毎年狭く

今日も買出しに行かなければならないので、朝もゆっくりはしていられず、早い時間から動けるようにしていた。
嫁さんもなんだか出かける様子。

「今日はミュージカルのお手伝い」という。
近くで行われるミュージカルの練習のお手伝いとして、お昼ご飯の用意をするのだそうだ。

私も「手伝いに来て」と関係者から誘われていたこともあり、少しでも役に立てるのなら、と嫁さんと一緒に出かけることにした。

嫁さんはカレーの用意を、私はその他の雑用を引き受けて、二時間ほどお手伝いをこなす。

それが終わると「じゃあ、買出しに」と二人で花火大会当日に販売するかき氷のミツや容器、飲み物などを買出しに出かけた。

二人で数件の店を回って買い物をする。
車の後部座席は荷物でいいっぱい。

自宅に置き場所などなく、廊下に並べる。
ただでさえ狭い廊下に荷物を並べると、よりいっそう狭くなる。



毎年、この季節になると、我が家は狭くなる。

2011年8月15日(月) 9月から

暑くなってからはジムにも通っていないし、トレーニングもしていない。
以前のようにおなかも出てきて見苦しい有様だ。

おまけに毎週月曜日は休肝日だったはずなのに、仕事から帰ってくると、気がつけば酒を飲んでいる。

いろいろと忙しい日々が続いているので、決して怠惰ではないと思うのだけれど、やはり気持ちにゆるみが生じていることは確かだ。

さて、どうやって以前のように自分を律するか。

そのタイミングが難しい。

9月になってからか、体育祭一ヶ月前になってからか。

あ、どちらも同じだ。

よし。
9月から少しずつトレーニングを再開するか。

2011年8月16日(火) 暦ずらせば

「暦(こよみ)の上では秋」という言葉をよく耳にする季節であり、かつ、必ずと言っていいほど、暑いときに言われる。
暦どおり秋らしい、なんてこと、生まれてこの方、一度も経験していないように思う。
春だって同じだ。
暦の上では春、と言われても、バレンタインの前じゃ、雪のほうが似合う。
この国のどこに、その暦どおりの季節を体感できる場所があるのか知りたい。

ならばいっそう、二週間ほど、ぐるんと暦をずらしてはどうか。
どれもこれも、ぴったりくるんじゃないのか。
お盆明けが「立秋」になり、「立春」だってバレンタインデーの後、まさしく「春」の到来を感じる人も多いだろう。

まあ、「夏至」や「春分」までもがずれてしまっては困るのだが。

立秋を過ぎて一週間、まだまだ酷暑は続きそう。



仕事の最中でも都会の中の涼を見ると思わず現実逃避してしまいそうになる。

2011年8月17日(水) 一昔前の生活に

いつもの夏なら空調の聞いた待合室で時間が来るのを待つのだが、今年は節電のために空調も止められており、ガラス張りの待合室は風通しも悪く、外にいるほうが涼しいので、外に出て日陰でボーっとしていた。

植え込みに水をやろうと準備をしている人の邪魔にならないように注意しながら、その所作を見ている。

散水用のホースを植え込みにおいて、離れた場所の水栓を捻ると、しばらくしてホースの先から水が勢いよく出てきたが、乾いた植え込みに流れ出る水は、水溜りを作る暇もなく、どんどんと土の中に吸い込まれていく。

まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、植え込みはガブガブと水を飲む。



空調の待合室にいたのなら、特に気にも留めない光景。
おそらくは虚空を見つめて考え事をしているか、携帯電話のメールをチェックしているか、いずれにせよ、季節感のない、いつもと同じ行動をし、いつもと同じことを考えていただろう。

ふと思う。

かえって節電で、不便なぐらいのほうがいいのかもしれない。

今、原子力発電所の是非が問われている。

私は、電力消費をまかなうためには必要だと考えていた。
「原子力発電所がなくても電力の供給はまかなえる」という話も聞く。
けれど、つい昨年まで、いや、3月11日がくるまでは、「エコ」が叫ばれ、「火力発電はエコじゃない」「原子力発電はエコなエネルギーだ」と言われていたように、原子力発電がなくなると、主力である火力発電への依存度が高くなり、ますます地球温暖化に拍車がかかるのではないかと、懸念しているからだ。

それならいっそ、今のまま、節電しながら過ごせばどうだろうかと思う。

暗い電車やプラットホームにもなれた。
ビルの館内の蛍光灯があちこち抜き取られているのにもなれた。
空調だって気にならない。

これを繰り返していけば、一昔前の暮らしにだって、みんな順応できるんじゃないかと思う。

まあ、そうなったらそうなったで、コンピュータ関係の仕事なんて、真っ先になくなってしまいそうで、我が家は節電しなくても「一昔前」に戻ってしまいそうだが。

2011年8月18日(木) 下り坂

明後日の花火大会を目前に気温は下がり、お天気も下り坂。

花火大会は一年の行事の中でももっとも神経を使い、体を酷使する一大イベントであり、スケジュール調整などを含めると2ヶ月前から行動し始めなければならない。

これが仕事ならば、おそらくは二週間もあればできることだろうと思うが、すべてが子ども会の保護者によって運営されているものであって、何をするにしても「理解」と「協力」がなくては前に進まない。

だからすべてを抜かりなく、用意周到に進めなくてはならず、何度も誤りがないかを確認する。

けれども、そこまで周到に進めていても、どうしようもないのが天候である。

雨が降れば雨天順延だが、そうなるとお手伝いできない人も多くいる。
さらに翌日も雨なら中止となる。

中止となれば、準備していたものがすべて水の泡。

今は、準備に抜かりがないかの心配よりも、天候のほうが心配で、暇があればネットで天気予報を見ている。

2011年8月19日(金) 予定のない夏休み

午前中に仕事を切り上げて、遅い夏休みに入る。

とはいっても土日は花火大会の準備と後片付けだし、おそらく月曜日は疲れて一日ごろごろしていると思う。
なにより、どこへ行くという予定もない。

実際のところ、各種行事の予定もあるし、暇とお金がないし、ということで何も決めようとしなかったのが原因なのだが。

アルバイトを始めた子どもたちも私の休みに合わせて仕事を休んでくれたようで、結局何も予定できておらず申し訳ない。

子ども会などの行事が中心の生活になっている昨今。

以前のように、休みに旅行へ行く、という生活ができるようになるのはいつのことか。

2011年8月20日(土) 夏の終わりに

明け方にも激しい雨が降ったが、今日は夕方から雨が降る予定。
その中、開催に向けて着々と花火大会の準備を進めた。

朝9時に倉庫の前に集まり、よろしくお願いします、という校区長の挨拶で始まった。
倉庫から焼きそば用の重い鉄板やカキ氷機、ガスボンベ、テントなどを運び出す。
どれもこれも重たくてとても疲れる。

学校へ運び終わるとテントを設営する。
机と椅子の運び出しのリーダーを長男に任せて、また別の倉庫へ荷物の運び出しのために車を走らせる。

花火のセッティング、音響設備の準備、照明器具の取り付け。
その他もろもろの準備を進める。

ようやく準備が整ったのはお昼過ぎ。

いったん解散してまた夕方から調理を開始する。

焼きそばの材料を切ったり、カキ氷を搬送したり。

午前中は何とかもっていたが、とうとう雨が降り出してしまった。
それでも小雨なので、時折、空を呪う言葉を吐きながらも、作業を進める。

次第に強くなる雨。
夕方の4時半に最終決断をする、といいながらも、一向に天気が回復する兆しはない空を見ながら、校区長と私は思案しっぱなし。

4時20分ごろに「どうするの?」とかかって来たフライング気味の電話に少し苛立ち「もう少し待って」と声を荒げてしまう。

そして4時30分。
校区長と話をする。
「このまま延期しても、明日の天気が今日より悪くなるのは目に見えています。それに明日になればお手伝いできる人も少なくなるでしょう。みんな今日にあわせて進めてきたのですから、やりましょう」という。
「そうやな」と答える校区長。
私の「やりましょう」の一言を待っていたようだ。

その場にいるお母さんたちを集めて校区長が話をする。
「あいにくの天気ですが、今日は予定通り花火大会を開催します」。

その声を聞いていっせいに電話をかけ始める。
それは30分後に子どもたちに集合するよう伝えている電話。

小雨の中、模擬店が始まる。
傘を差しながらも「あてもの」のブースには子どもたちの長い行列ができる。

焼きそばも、フランクフルトも、気温が低いのにカキ氷も売れていく。

しばらくすると雨が上がる。
けれど、しばらくして雨が降る。
そしてまたやむ。

こんなことの繰り返しで、子どもたちが私のところへやってきては聞く。
「今日、花火するの?」
心配そうな子どもに「もちろん。これぐらいの雨なら問題ない」と答えてやると、ほっとした顔をする。

7時25分。
奇跡的に雨がやんでいる。
いっせいに準備をする。
板にガムテープで止めてある花火を、学校の廊下から校庭に搬出する。
手のすいている役員総出で。

そして7時30分。
一発の花火の打ち上げを合図に、花火大会が始まった。

あちらこちらから歓声が上がる中、連続して次々に花火に火をつける。
花火が一発あがるごとに歓声も上がる。
火をつける役割の私は時々空を見上げるほどで、花火を楽しむ余裕はなったが、それでもきれいな花火を真下から見ることができた。

7時45分。
あっという間に終わりの時刻。

最後の花火を打ち上げ終えると、校区長がアナウンスする。
「これをもちまして、花火大会を終了します。本日は雨の中、たくさんお越しくださいましてありがとうございました。またお手伝いくださったたくさんのかたがたにお礼申し上げます。本当にありがとうございました」

どこからともなく、拍手が湧き起こる。

すると終わったはずなのに、もう一度花火の音が。
最後の一発が残っていたようで、長男がそれを見つけ、タイミングを見計らって打ち上げたようだ。

直後、今日一番の強い雨が降り出した。
まるですべての終わりを告げるかのように。

夜遅く、疲れた体で家に戻り、最後の仕事、、お礼のメールを送る。

そのひとつの返信。

 朝から天気が悪い中、走り回って、花火の点火などお疲れ様でした。
 花火キレイでした。
 最後の一発もよかったです。
 夏の終わりを感じました。

長い夏が終わったと感じた。

2011年8月21日(日) ミュージカル鑑賞?

市民ミュージカルを見に出かけた。

チケットを買っていたので、たぶん「見に出かけた」はずだ。

嫁さんが「少し手伝いをする」というので一緒に早めに家を出た。

ホールについて「手伝います」とよく知っているスタッフに声をかける。

すると「じゃあ、このTシャツを買って」といわれる。
手伝うのに、買わされる。

それでもまあいいかと、お手伝いを始めると、「じゃあ、終わるまでこんな感じで」といわれる。

え?
座席に座って見るつもりでチケットを買っているのに?

そういうと「じゃあ、適当にドアのところにでも立って」といわれる。

納得できないなとは思ったが、今日のところは何も言わない。

ミュージカルそのものは毎度のことながらすばらしいものだった。

せめて写真をと思ったがもちろん撮影禁止。

というわけで、そのときに買ったTシャツ。



2011年8月22日(月) 記録なし

毎度のことだが、終わってから思う。
「また写真を撮れなかった」。

子ども会では一年で一番大きなイベントの花火大会が開催されたというのに、また今年も一枚の写真さえも撮ることができなかった。

朝9時から集合して午前中いっぱいかけて、物資の搬入とテントの設営などを行い、夕方から集合して最後の準備に取り掛かる。

花火大会といっても打ち上げ花火を実施する時間はわずかに15分程度で、焼きそばの販売などその他いろいろな出し物があるため、その準備に多くの時間を費やす。

そのところどころにブログに記録しておきたい光景がある。

もちろん、花火大会の最中だってたくさん記録を残したい。

けれど毎度のことながら、忙しくて携帯電話を取り出して撮影する暇さえない。
というか、そこまで頭が回らない。

残っているのはヘロヘロになった体と、今は何も考えたくない頭だけ。

2011年8月23日(火) 猫と一日

昨日は花火大会の疲れがあって、午前中はまったく動かず、昼を過ぎて布団を片付けはしたものの、部屋着のまま一歩も外に出ることはなく過ごした。

今日もその惰性で過ごす。

テレビを見て、少しビールを飲む。
少しテレビを見て、たくさんビールを飲む。

その合間に猫と遊ぶ。



別に猫の写真を撮る趣味はない。

ただそれほどすることもなく、ダラダラ過ごしたという証拠。



尻尾が写っていないのは、犬のように尻尾を振っていたから。

ま、こんな休日もたまにはよし。

2011年8月24日(水) 水族館

大阪の海遊館へ出かけた。

次女が生まれてから一度も行っていないというのでつい先日、急に行くことが決まった。

次女の友達も一緒に乗せて、昼過ぎに車で出発。

高速道路を使わないと一時間以上かかるが、車内には嫁さんと長女もいて、女子が4人。
退屈するはずもなく、目的地に着く。

早速中に入るとみんな手にケータイやデジカメをもって写真撮影大会。

ネオンテトラ。


甚平鮫(ジンベイザメ)。


鰯の群れ。


きれいな海老たち。


クラゲ。


ツートンカラー。


亀の子のどアップ。


ま、内容は手抜きの日記。

2011年8月25日(木) これからも精進

今は個人事業主として仕事をしているものの、仕事の内容は会社員の時代と変わらない。
コンピュータの技術支援に対する対価を、会社員の時代には契約先のお客さんから毎月の定額支払いを会社経由で「給与」としていただいていたが、個人事業主となってからは、「売り上げ」として直接いただくようになった。

もちろん会社を経由しないので、受け取る金額はかなり多くなったけれども、それは「売り上げ金額」であって、その中にはいろいろな経費や保険代が含まれている。
だから、実際の利益を考えたら、会社員の時代より少し増えた程度。

車を買ったけれども、嫁さんは相変わらず仕事をしなければならない状態。

リスクを考えたら、結果的には会社員のほうがいいかもしれない。

そしてそのリスクがとうとうやってきたようだ。

「このまま定額での契約を続けることが難しい」。

契約先からそう言い渡された。

具体的な金額はまだ決まっていないが、かなりの痛手。

嫁さんは陽気に「じゃあ、今の私の仕事を増やしてもらわないとね」などと明るく振舞ってくれてはいるが。

安月給のサラリーマン時代にはまだ、「出世すれば儲かる」という望みがあったが、サラリーマンであることを捨てた今はそういうわけにも行かない。
年齢を重ねれば解決する問題ではないのだ。

しかし、前向きな気持ちまでも捨ててしまったわけではない。
これからも精進して、自分の技術力を高めるのみ。

2011年8月26日(金) 全国大会一日目

今日から日本PTA全国大会へ。
今年の場所は広島県。

今回の参加者は17名、男性が4名で残りは女性という、圧倒的不利な状況。

朝8時前に新大阪に集合して、まずは新幹線で広島駅へ向かうが、車中の座席はなぜだか私だけ、3人がけのシートを反転させて女性同士向かい合って座っている5人のところへ座らされた。

にぎやかなことこの上なく、かなり疲れて広島駅を降りた。
ここからバスに乗車する。



バスで移動した先は第二分科会の会場となる府中町のとある会館(名前は忘れた)。



そして肝心の講師はプロレスラーの藤波辰彌氏。
お世辞にもうまいとはいえないおしゃべりは、なんとなく「落ち着きのあるウド鈴木」という感じ。
写真はあるけれど、たいしたものでもないので、割愛。

それでも会場内には常設の椅子以外にもパイプ椅子が運び込まれるほどの盛況ぶり。



昼ごはんの後の第二部はパネルディスカッション。

その前に地元中学生たちによる、書道のパフォーマンスが披露された。



15時を回ったころに大会一日目が終了し、宿泊先の宮島へ移動。
宮島には船で渡る。

小さく見えるのが厳島神社の鳥居。



島内には野生の鹿がいる。



で、本日のお宿。



ちょっぴり控えめな感じの料理、と思ったらこの後次々と運ばれてきて結局食べ切れなかった。



そして二次会のカラオケ。

場所はホテルの中央にある、吹き抜けのレストラン。

なんと2階と3階の廊下から丸見え。



最初は「恥ずかしい」という人もいたが、私の歌を皮切りに大いに盛り上がり、最後も私の十八番では、別の市のPTAの団体さんも参加して、大団円という感じで幕を閉じた。

ま、その後は部屋に戻って3時ごろまで馬鹿な話をしていたことは言うまでもない。

2011年8月27日(土) 全国大会二日目

大会二日目。

二日酔いと寝不足で昨夜とはまるっきり別人に成り果てながらも、朝食のバイキングはしっかり食べ、宿を後にした。

最初に乗るのはフェリー。



そして再びバスに乗って、向かったのは本日の全体会会場。

なんだか関取の頭のように見える。



本日の講演は「五体不満足」の著者、乙武さん。
小学校の教師をしていたときの体験をもとに「みんな違ってみんないい」という内容のお話をされていた。

場内は残念ながら撮影禁止。

お昼を少し回ったところで講演も終了し、会場を出た。

次に向かったのは錦帯橋。



写真ではよく見るが、実際にわたったのは初めてのこと。



「ああ、階段になっているのか」と改めて思う。

錦帯橋を渡ったところには休憩所やお土産の店が立ち並ぶ。

少し奥に進むと白蛇が祭られているのだそうだが、歩くのさえつらい炎天下なので、少し道をそれて、公園内にある水場へ。







帰りの新幹線、相変わらず元気な女性陣を少しうらやましくも思いながら、ゆっくりと過ごす。

新大阪で知り合いの自動車に相乗りさせてもらい、帰宅した。

最初のころの意気込みとは少し違うけれども、やはり全国大会に行くたびに何かを学び、そしていつのころからか、ほかの人に何かを与えているような気もするのは思い上がりだろうか。

それでも私との付き合いを楽しみにしてくれている人がいることは確かだ。

2011年8月28日(日) キックベース大会

全国大会帰りの疲れた体に鞭打って、朝の8時から市内にある高校跡地の会場でテント設営とコートの作成を行う。

今日は市内の各校区子ども会対抗のキックベースボール大会が開催されるのだ。

コートは全部で4面。
私が担当するコートでは、午前午後あわせて6試合、トーナメント方式で開催される。

3試合ほど累進を勤めると、主審の声がかかった。

正直、やりたくはない。

というのも、どのチームも保護者たちは熱心に応援しており、少しでも自分の判定と主審の判定が食い違うと、暴言を吐くからだ。

とはいえ、数年前から、開会式でのルール説明のときに審判部長が「私たち審判も一所懸命にやっています。でも、人間ですから、間違うこともあります。悪気があるわけではありませんし、正しくジャッジしようと務めていますので、どうかその点をご理解ください。また、抗議は監督さんだけにしてください。それ以外の人が抗議をした場合、最悪、没収試合とすることもあります。われわれもそんなことはしたくありませんが、やむを得ない場合はそのような措置を取ることもあります。審判の権限は絶対ですので、その点、理解してください」
というような話をしてからというもの、暴言を吐くことも少なくなった。

けれど審判の人数が足りないのだし、私だけがやらないと言うわけにもいかないので、引き受けることにした。

腹をくくって試合を開始させると、「らしく」振舞うのはお手の物。

判断をするときは大きな声で。

「ファール!!」

「アウトーーッ!!」

「テイクワンベース!!」

とアクションも大きく。

そうすると微妙なプレーについても誰も「今のはおかしい」とは言わない。

アウトカウントや得点を間違えそうになると、記録係のほうへ歩み寄って確認する。

そうやって何とか主審の役目を終えた。

一枚も写真を撮っていなかったことをもいだし、選手集合前の写真をとる。



試合は無事に終わり、子どもたちも事故もなく元気に帰っていった。

そして後片付けを終えて、これから活動センターに資材を運ぶ。



帰宅したのはこれから二時間後のことだった。

2011年8月29日(月) 危うく救急車

特に事故もなく終えたキックベースボール大会だったが、実は危うく、私は救急車のお世話になるところであった。

主審を終えて昼食のためにテントに戻り、休憩しようとしたときのこと。

ブルーシートの上にしゃがもうとしてひざを曲げたとたん、左足のふくらはぎ辺りに激痛が走った。

足がつったのと同じような痛みだが、かかとを折り曲げてふくらはぎを伸ばそうとしてもただ痛いだけ。
そのままでも痛いのでとりあえずアイシングのスプレーをかけてみたが、効いているのかどうかまったくわからず、症状は一向に治まらない。

そうこうしているうちに今度は右足までつってきた。

右足はふくらはぎだけでなく、すねや太ももにも痛みが走り、立っていることもできず、かといって横になっても痛みがひどくなるだけで、どういう体勢をとってもひたすら痛い。

「大丈夫か?」と周りが声をかけてくれてそれに対して「大丈夫」と返事はするものの、実際のところ、ちっとも大丈夫じゃなく、もし誰かが「救急車を呼ぶか?」と聞いていたら「お願いします」と返事をするところだった。

アイシングの効果があったのか、しばらくすると痛みも収まり、なんとか歩けるようにはなったので、とりあえず、日陰で体を冷やしながら、弁当を食べた。

その後、うそのように痛みも消えたので、再び審判を務めた。

後になってわかったが、熱中症の初期症状だったらしく、本当ならそのまま日陰で安静にしていなければならなかったようだ。
熱中症でミネラル分が不足すると足などがつって痙攣を起こすらしい。

大会が終わって、テントなどの荷物を倉庫に直し終え、最後に会長から「今日は無事に終わって何よりです」と挨拶があったとき、一人の常任委員が「もう少しで救急車の世話になりかけた人がいましたけど」とニヤニヤ笑いながら私のほうを見ながらみんなの笑いをとっていた。

私も頭を書きながらぺこりとお辞儀した。
けれど本当に笑い事で済んでよかった。

2011年8月30日(火) 手足口病

「手足口病」は別に難しい読み方をせず、そのまま「てあしくちびょう」と読み、英語でも「Hand,foot,and mouth disease」と言われるようだ。

幼児期に発祥することの多い病気だが、成人でも発生するらしい。

先日からのどが痛いと言っていた長女はどうやらこの「手足口病」に罹患していたようだ。

口の中に口内炎のようなものができて、食事をするとそれが相当に痛く、また、飲み物を飲むのも苦労していたようだ。

それでも努めて明るく振舞っていたのは、われわれに心配をかけないようにするためか。

今はかなり落ち着いており、食事もようやく、刺激のないものであれば、普通にできるようになった。

しかし、病名からして、なんとなく「子どものかかる病気」というイメージが強いこの病気に、次女を差し置いて、長女が罹患するとは、いかにも我が家の長女らしい。

2011年8月31日(水) 欲せられるスキル

「セミナーでも開催したらどうですか?」

仕事が減った分、別の仕事を探そうと考えていたら、仕事仲間が私にそう言った。

「○○(私)さん、お話しするのうまいじゃないですか。それにIT関連の国家試験や、ベンダーの認定試験にもいくつか合格してはるでしょ」

セミナー開催なんて考えたこともなかったが、ちょっとWebで調べてみた。

セミナーの講師について面白いたとえをしているサイトがあった。

三角形がある。
頂点にいるのがF1ドライバー、底辺にいるのが自動車の運転免許を持たない人たち、そういう三角形だ。

このとき、真ん中にいる人はなんだろうか。

一般のドライバーがほとんどだが、その中に、この底辺の人たちを相手に仕事をしている人たちがいる。

それが自動車教習所の教官だ。

そのサイトにはそう書いてあった。

中には私のほうが教官よりも運転がうまい、と言う人もいるだろう。
たぶんそれは事実だろうが、教官は運転のうまい人を育てる仕事ではなく、免許を持たない人に免許を取得できるだけの技術を教えるのが仕事だ。

生徒はF1ドライバーに運転を教えてもらう必要はないし、また、教官は生徒をF1ドライバーに育てる必要もない。

つまり、ほかの人とよりも少しスキルを持っているものがあれば、そのスキルのない人に対して、何かを提供することができ、また、スキルを持っていない人は少しでもスキルを得たいと言う欲求があり、そこに仕事が生まれると言うことではないだろうか。

学校の英語の先生だってみんなが英検合格者でもないし、塾の先生も全員が国立大学卒業でもない。
けれどもそこにはやはりニーズがある。

はたして、私の持っているスキルの中で、人がお金を払ってまでも欲するものとはなんだろうか。

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