カリント日記

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2005年3月1日(火) 復活の兆し

壁にぶつかっていたが、それは別に壁ではなく、自分で勝手に壁だと思い込んでいたことであって、見方を変えれば意図も簡単に乗り越えられた。

本当は避けているのかもしれない。
少し後ずさりしたのかもしれない。
でも、私は信じる。
それが壁であったならば、それを乗り越えるために十分な助走距離を取ろうとして少し後へさがっただけだ。

大きな前進とはいえないまでも今日は何か前に向かって回転し始めたような気がする。

夕方になっても活力は衰えることなく仕事をこなした。
(以前ほどではないにしても)
二杯目のビールも美味しかった。
家に電話するときの声も元気だった。
背筋を伸ばして駅へ向かって歩いた。
途中の駅から乗ってきた妊婦さんに席を譲ると、にっこり笑って座ってくれた。
家に帰ると長女が迎えに出てくれた。
部屋に入ると長男が笑っていた。
次女は雛人形の前で踊っていた。
嫁さんは私の話に耳を傾けてくれた。

特別なことではなくいつもの、当たり前の風景なのに、何故か今日は嬉しく思えた。

旅立ちの3月を迎えて、このまま上り調子で突っ走りたい。

2005年3月2日(水) 合格発表

サクラガサイタ。

長男が志望高校への合格を果たした。

合格発表は昼過ぎで、長男が高校まで見に行くことになっていた。
結果はすぐに嫁さんに電話で知らせ、嫁さんからは私にメールが届くことになっていた。でも、合格発表があってから30分が経過したのに、嫁さんからのメールが来ない。
悪いことがあったのか、いやそんなはずはない、と心の中で呟きながら連絡を待ったが、午前中に仕事の連絡があったっきり、今日に限って誰からもメールが届かなかった。
遂に我慢しきれず、自宅へ電話をした。

呼び出し音の聞こえる間が妙に長かった。
嫁さんが電話に出る。

「もしもし」。
ナンバーディスプレイで、電話をかけきたのが私だとわかっていたことを差し引いてもその声は十分に明るい声だった。

「あ、おれ」
「あれ?今メール送ったよ」
「その声は!?」
「ごーかくー!」
「そうか。今日は早く帰る」

直後にメールが届いた。

「サクラサク〜」

合格おめでとう。

2005年3月3日(木) 灯りをつけましょ、雪洞に♪

今日はひな祭りである。

我が家には娘が二人いて一応雛飾りがある。
とはいってもお内裏様とお雛様だけが飾られた台座に乗ってガラスケースに収まっているだけのものである。

私が子どもの頃、家にあった雛人形はこれまた質素なもので、子どもの目から見れば到底雛人形には見えないものだった。
お内裏様とお雛様の二人が飾られた台座に座るどころか、起立しているのである。
金屏風があるものの雪洞(ぼんぼり)も菱餅もない。

友達の家にはそれは大層立派な雛飾りがあった。
三人官女や五人囃はもちろん、右大臣と左大臣、それからよくわからない三人組(仕丁(じちょう)というらしい)の人形に、雪洞や菱餅、牛車や漆塗りの重箱のようなものまで絢爛豪華な八段飾りである。

やはりうらやましく思い、大人になったら買おう、自分の子どもにはああいうのを買ってやろう、と思っていた。

ところが、いざ家を買うとだんだんと気持ちが変わってしまった。
最初は5人家族なら十分な広さだと思って生活を始めたが、子どもたちのもので家の中はすぐに一杯になってしまい、片付けれど片付けれどあとからあとから物がわいてくるように家の中はすぐに散らかってしまった。
すぐに物を捨てようとする私に対して家族はみな物持ちがよく、少しも物が減らない。
遂に私も「いいか。この『家』というのはだな、いわば『空間』を手に入れたようなものであって、家の価格はこの空間の価格でもあるのだから、この『モノ』がこの家の中でどれだけの価格分の空間を占有しているのか一度計算してやろうか」と家族に言ってやった。(「わかったから」と一蹴されてしまったが・・)

そんな私だから、この部屋に大層な雛壇を飾ろうものならお雛様に向かって「あんたの座っているその空間はだな・・」と怒り出しかねない。
やはりお雛様にはその小さいガラスケースの中に収まっていてもらうしかない。

2005年3月4日(金) テレビゲーム

長男が合格した夜に、酔った勢いでテレビゲームを買った。

テレビゲームにもいろいろな種類があり、この日購入したのはシューティングゲームといわれる最もオーソドックスなゲームのひとつ。
昔とても流行った「インベーダーゲーム」は日本におけるシューティングゲームの元祖だろうか。
とにかく迫り来る敵を打ち落とすという、いたって簡単なルール。

私はどんなテレビゲームもそつなくこなす。
同年代と勝負をしたら、どんなテレビゲームもほとんど負けない。

そういう話を長男としていたら、じゃあ勝負しようということになり、つい買ってしまったのである。
まあ、半分は長男の作戦にまんまとハマったわけだが、私自身、テレビゲームは好きなので子供と一緒に遊んでいて楽しいのなら、たまにはテレビゲームに夢中になるのもいいかと思った。

息子とやって負ける気はしていなかったのに、いざやってみると、難しいの何の。
昔よりもリアルな映像だけに、余計なものが目立ってしまい、敵の攻撃が判別しにくいのだ。
それに、なんと言ってもスピード感が違う。
初期のテレビゲームがCPUの能力も低かったために、画面のスクロール速度や弾の飛び交う速度に限りがあったが、今はもう、手加減無しの速度に、指がついていかない。
案の定、長男に負けてしまった。

で、今日も1時間ほど勝負した。
まあ、長男に負けはしたが、私もこの前より上達した。
40歳を目前にして、久しぶりにテレビゲームで熱くなった。

2005年3月8日(火) 確定申告前夜

やっと書き上げた確定申告。

青色申告をしているので決算書やら損益計算書・貸借対照表を提出しなければならない。
最近は国税庁のサイトで書類を作成できるので以前に比べればかなり楽になったとはいえ、やはり一苦労する。
特に貸借対照表は聴きなれない言葉が多くなかなか数字が合わない。
とりあえず書き上げたが、訂正を求められても仕方がないかも、という不安がある。

また今回から減価償却対象も発生した。
原価償却の計算は大したことないのだが、これもきっちり資産として計上しなければならず、貸借対照表の数字が合わなくなる原因でもあった。

配偶者特別控除と配偶者控除の両方を受けられる制度が廃止となってしまったので、青色専従者控除を申請して、嫁さんにも働いてもらって給与控除しないと。
ただし、今年申請しても適用を受けられるのは来年からだとか。

明日の確定申告へは嫁さんが行くことに。
提出書類は全部で10枚。
それ以外にも各種台帳もちゃんと揃えた。
まあ、なんとかなるんじゃなかろうか。

2005年3月9日(水) 確定申告当日

確定申告も無事終了した。

昨日深夜までかかって作成した各種書類を持って嫁さんが、この時期は臨時の確定申告会場となっている近所の商工会議所へでもって行った。
書類をみた窓口の係員は「あ。コンピュータで作成したんですね。じゃあ、そちらへ並んで提出してください」と。
並んでいると自分の番になり、受け取り担当の係員に書類を見せると、「医療控除を受けるにはこれこれという書類に添付する必要があるんですが、これだけキチンとまとめられていれば、大丈夫でしょう」とすんなり受理された。
ここまでおよそ1分。

確かに去年もそうだった。
あの会場は申告書を提出すると言うよりはむしろ、申告書を一緒になって作成する人のための会場であって、担当者と向かい合って長々と話しこんでいる人のほとんどはそのときになって書類を作成しており、私のように事前に作成して持ってきた人は少し確認しただけで受理される。
しかも、最初の申告のときは手書きであったためある程度、検算のようなものをされたが、その後は国税庁のサイトにある申告書作成のページを利用して作成しており、それだと計算もしっかりしてくれるし、見た目にも美しく、あからさまにおかしな数字があれば別だろうが、全くといっていいほど中身をチェックしない。

まあ、問題があれば後日連絡があるかもしれないが、だいたいの要領は心得た。
今度は楽勝だ。

2005年3月10日(木) 父兄代表

来週は長女(小学校六年生)の卒業式である。

この前の参観日(私は仕事で参観できず)で、子どもから両親への感謝の手紙が渡された。
子どもがその手紙を読み上げて、自分の親に渡すというもので、最初は子どもも恥ずかしそうにしながら渡していた。
しかし、だんだんと進むうちに妙な雰囲気になり、ついには、手紙を読んでいる途中で感極まって泣き始める子どもが現れた。
そうなるともう、抑えが利かない。
本人の親はもちろん、周りの親や子どもまでもらい泣きが始まる始末。
涙なみだの参観日となった。

そして今度の卒業式は、そのお返しをする番。
親が子どもに手紙を読むのである。

とはいえ、卒業式で全ての親が手紙を読んでいるわけには行かない。
当然、代表者が読むことになる。
今の六年生は2クラスで、代表の父兄はそれぞれのクラスから一人、選出されることになっていた。
自薦他薦を問わず、と言うことだったが、普通はそういうことに、進んで手を挙げる人はいない。

私を除いて。

結局、手を挙げたのは私一人で、もう1クラスの代表は、父兄の学級委員がやることになった。
しかし、その学級委員が泣きついた。

「わざわざ手を挙げて『読みたい』って、しかも『400字じゃ足りないからせめて800字にしてくれ』なんていう人と、一緒に代表として読むなんてこと、私には出来ません・・・」と。
無論、800字以上にしてくれ、と言ったのは私である。

ということで、今度の卒業式で、私は全父兄を代表して、子どもへの手紙を読むことになった。
なんと光栄な。

しかしまあ、世の中の親、自分の体裁ばかりで、子どもの思い出作りなんて、二の次なのか。

2005年3月11日(金) 凄いのはどっち

うちの嫁さんは、あほだ。
何も知らない。
と、思っていたのは、私と長男だけだったようだ。
いや、当の本人も「私は何も知らないおばかさん」と思っていた。

普段の生活で、私や長男と自分を比べてしまう嫁さんは、「ああ、この二人に比べると私は何も知らないわ」と感じることが多く、「世間の皆さんに比べても、自分は何も知らない」と思っていたようだ。

でも、よくよく周りを見渡すと、「あれ?もしかして私は普通のおばさんより、頭がいいんじゃないの?」と思うことが最近、多くなってきたらしい。

嫁さんが、近所の同年代のおばさんたちとカラオケに行った時の事。
最近のカラオケのリモコンは、50音キーとディスプレイが付いていて、曲の一部や、歌手の名前からでも歌いたい曲が検索できる。
部屋に案内されて、はじめてそのリモコンを見たとき、その部屋にいる誰もが「うげげ。何これ。どうするのこんなの」と思っていたのに、嫁さんはそれに飛びつき、「面白そう」と使い始めたらしい。
それを見ていた周りの友人は、「やっぱ、パソコンが使える人は違うわ」といったそうだ。驚くのも無理はない。周りのおばさんたちは旧来のリモコンでさえ、使えない人がほとんだというのだ。

また、嫁さんが先日友達の家に遊びに行ったところ、台所で異様なものを見つけた。
それは無残に引き裂かれた蓋が、かぶせてあるフライパンであった。
よく見るとその蓋はフライパンにきっちり、はまり込んでおり、十文字に切り目を入れられて、その切り目から花びらのようにめくられていた。

「料理しているときに蓋をして、気が付けばきっちり、はまり込んでしまい、取れなくなった。仕方がないので、ペンチとハサミで何とかこじ開けた」と友人が哀しげに語ったという。
それを聞いた嫁さん。
「うん?料理してるときに蓋をして、放って置いたら取れなくなったって? それなら多分、こうすれば取れると思う」そういってそのままフライパンをまた火にかけた。
加熱すること数分。
「コロンッ」と簡単に蓋は取れた。
それを見た友人が「すっごーーい。すごい。え?なんでなんで?すごいなー」とまるで手品を見ているかのように、驚いたらしい。

嫁さんはそのとき、『いや、わたしより、その鉄の蓋をゆりの花のように開いたあなたの方が、凄い』と思ったらしい。
私もそう思う。
嫁さんのやったことは出来て当たり前だ、と思っている私でも、鉄の芸術家みたいな真似事は出来ない。

2005年3月12日(土) 特設コーナーにて 

0:40(正確には13日)

今日は朝から、ひとつ仕事を片付けて、その帰りに百貨店に寄ってきた。
ホワイトデーの贈り物を買うためだ。

百貨店の入口近くにホワイトデーの特設コーナーが用意されるのは、この時期なら何処の百貨店でも恒例の風景だろう。

アクセサリーやハンカチ・スカーフなどが喜ばれるのだろう、とは思うものの、そこはそれ、もらったチョコレートの内容にあわせる必要があるだろうし、相手だって、そのつもりもないのに、そんなお礼をもらうと余計に困るだろう、と思って結局、食べ物にした。

クッキーやチョコレート以外にも、ケーキやハーブティーなど、かわいらしく彩られた、いろいろなものが並んでいる。
特設コーナーを二周し、試食もして商品を決めた。

商品を持ってレジにいくと、女性客が二人並んでいる。
おや?ホワイトデーなのに?自分用に買うのかな?
そう思って何気なく覗くと、やはり、それぞれにいくつもの商品を手に持っている。
どうやら自分の分ではないようだ。

よくよく回りを見渡せば、男性客は私ともう一人で、あとはみな、女性客だった。

うちの嫁さんのように、「主人の義理チョコのお返し」を買い求めるような年齢ならわからないでもないが、そうは見えない年代の人が多い。

嫁さんに聞いてみると、最近は女性同士で交換することも多いらしい。
確かに、その特設コーナーに並べられている商品の中には、有名店の限定商品などもあり、こういう機会でもなければ、手に入らないことも確かだ。
となればスウィーツ好きの女性のこと、互いに交換するのもうなづける。

でも、やっぱりおじさんとしては、その送り先をこちらに向けて欲しいものだ。

2005年3月13日(日) 目前

23:44

久しぶりにコンテンツの更新をした。
30代最後の仕事だ。

明日14日は、40歳の誕生日。(厳密には今日で40歳だが)

10代、20代もいろいろあったが、30代も人生を左右する大きなイベントがいくつもあった。

30歳になったのは、阪神淡路大震災の年。
子どもの頃は、物凄い未来を想像していた、西暦2000年は35歳で迎えた。
おっと、その前に3人目の子どもの誕生もあった。
「庭付き」とまでは行かないまでも、新築一戸建てを購入したのは、36歳になって2週間後。
37歳のときに会社を辞めて、独立開業。
38歳の時には、個室での入院生活も経験し、念願の新車も購入。
そして39歳のときに、長男の高校進学が決定。
あ、そうそう、このサイトを作ったのもついこの前のこと。

いいことばかりではない。
祖父、義父、友人を立て続けに失った年もあった。

山あり谷ありの30代だった。
40代はどうなるのか。
「不惑」というけれど、相変わらず戸惑いはある。
それでも、とりあえず、明日からまた一歩前へ進むのみ。

2005年3月14日(月) パッとしない

22:25

40歳の記念日なのに、なんだかパッとしない。

次女のおたふく風邪が治ったと思ったら、今度は長女。
その症状のピークを過ぎて、ようやく落ち着くだろうと思っていたのに、嘔吐を繰り返し、とうとう、点滴のお世話になる始末。
嫁さんもずっと、鼻をグズグズ言わせている。
私も熱っぽくて、喉が痛い。
バレンタインのお返しも家に忘れていくし、仕事は、はかどらないし。

誕生日プレゼントのウィスキーでも飲んで、早く寝よっと。

2005年3月15日(火) DVD交換

16日 0:30

今月の始ごろ、パソコンのDVDが調子悪くなり、記録が出来なくなってしまった。

最初は媒体が傷んでいるんじゃないかと思い、新しい媒体を買ってきたが、やはり記録できなかった。
そこで、サポートセンターに連絡すると「媒体の記録速度が適合していない」といわれた。
我が家のパソコンのDVDは「DVD+RW」で2倍速対応だ。
確かに、新しく購入した媒体は、「4倍速対応」のものだったし、以前、購入した媒体は「2倍速対応」だったような気がしないでもない。
でも、すでに4倍速対応の媒体しか販売されていない。
主流のDVD-RWの媒体は、2倍速のものも販売しているがその媒体には記録出来ない。

「あ、そういえば、これを試していなかった」と思い出して、CD-RWへの記録が出来るかどうか試した。
ところが、CD-RWを挿入しても認識すらされず、ずっとアクセスランプが点滅している。

あらま。
ドライブが壊れているじゃないか。

早速、サポートセンターに連絡すると、「引き取り修理か自分でドライブを交換するか」と聞かれたが、引取りだと時間がかかるし、仕事に影響するので、自分で交換することにした。
とは言うものの、ハードの交換なんてやったことがないので不安もあったが、まあ、なんとかなるだろうと思っていた。

待つこと2〜3日。
宅配便で部品が送られてきた。

気合を入れて作業に取り掛かる。
コンセントとケーブルと抜いて、コンピュータ本体のカバーを開く。
「さーどんな状態になっているのか?」とドキドキしながらあけてみた。
ケーブルがどっひゃー、よくわからない部品がごっそー。
と、そんな光景を覚悟したが、期待は裏切られた。
DVDのドライブは「ほら、ここにいますよ」みたいな顔して、本体のカバーにくっついていた。
内側のソケットを引っこ抜き、ドライブ装置の金具をつまんで引っ張ると、「ポコン」と簡単に取れた。
そして、新しいものを「スコン」と差し込むと、もう、交換は終了だった。
ソケットを差し込んでカバーを閉め、ケーブルとコンセントを差し込んで起動する。

ここでも「起動しなかったりして」という心配は数秒で払拭されてしまった。

起動して早速DVDのテストをしてみると、あっさり記録できた。
4倍速のメディアも問題ない。

あとは、交換した不良部品を送り返すだけだ。

2005年3月16日(水) 合併だらけ

長女が日曜日に、激しい嘔吐を繰り返したので、月曜日に近所の内科へ。

合併症を心配していたが、「うーん。どうも違うような感じがする」と医者の判断。
とりあえずは、点滴をうってその日は帰る。
しかし、夜になって、やはり嘔吐を繰り返し、腹痛を訴える。
火曜日には、少し大きめの救急病院へ。
「うーん。お腹が痛いというのはどうしてかなあ。でも、確かに、合併症の疑いがあるので、今日の点滴で効果が無ければ、専門小児科のある○○病院へ行ったほうがいい」といわれ、やっぱり点滴をうって帰宅。
で、案の定、夜中は腹痛と嘔吐。
結局、今日は朝から、このまちの市民なら誰もが知っていて、かつ、その名前だけで安心すると言う、大きな病院へ連れて行った。

血液検査の結果、やっぱり髄膜炎。
でも、それだけじゃなく、おたふく風邪の菌が肝臓にも回っていて、体を弱らしていると言う。稀に起こる症状らしい。
さらに、髄膜炎は嘔吐を伴うものの、腹痛は起きないらしいので、レントゲンで確認したところ、小腸にガスが溜まっていると言う。これまた、体が弱っているために、体に吸収されるものが十分に吸収されないまま、ガスとして蓄積され、腹痛を起こしていたらしい。

仕事に区切りをつけて、小児病棟の個室へ見舞いに行くと、家にいた時よりずっとご機嫌な様子で、ちょっと拍子抜けした。
冗談を言うと笑いながら蹴飛ばしてくる気丈さも。

一週間の入院で元気になる見込み。
卒業式に出られないことよりも、その後みんなで行くはずのUSJへ、行く事が出来なくなったことを残念がっていた。
退院したら、春休みの間に5回ぐらいつれっていってやるさ。

2005年3月18日(金) まるでドラマのように

10分前に着いたのは、やはり少し遅かった。
せっかく、ビデオカメラを持ってきたのに、前から4列目を確保するのがやっとだった。

体育館での卒業式、卒業生の花道となる中央を境にして、左右に一列あたり4脚×2組、8脚のパイプ椅子が並べられている。

私が体育館に到着した時は、既に前のほうは人が座っているか、荷物が置いてあり、4列目以降に空席を見つけるのがやっとだった。
私が確保できたのは、花道の左側の前から4列目だった。
4脚並んだパイプ椅子には、すでに一組の夫婦が座っており、その横に遠慮がちに陣取った。
私が腰かけ、後から来る嫁さんの席には、カメラのバッグを置いた。
「4列目か・・。」
娘が欠席する卒業式とはいえ、この雰囲気をビデオに収め、後で娘に見せるためには、もう少し前のほうが良かったか。
しかも、カメラと舞台を結ぶ間には、かなり座高の高い男性が腰掛けており、どう頑張っても、その男性がビデオの画面の4分の1を占めることになる。
「ま、雰囲気だけ伝わればいいか」
そう自分に言い聞かせ、式が始まるのを待った。

開会の挨拶、国歌斉唱、校歌斉唱が終わり、そして、卒業証書授与が始まってすぐに、遅れて嫁さんが到着した。
嫁さんは私を見つける前に、真っ先に先生のところへ行った。
そういえば、娘から預かった手紙を先生に届ける、と言っていたのを思い出した。
入院している娘に、クラスの一人一人が手紙を書いてくれたので、その返事を今朝、病院までとりに行き、そしてそれを先生に渡したのだった。

手紙を渡した後、私を探してキョロキョロする嫁さん。
私を見つけて席に近づいてきた時、予期せぬところから声が聞こえた。
私の隣に座っていた夫婦の奥さんだった。
「いやー。今日はほんと残念やねー。そうそう、二人の席、取ってあるねん。え?ご主人やったん?すみません、気が付かなくて。あちら、良かったらどうぞ」とその婦人が前を指さす。
目で追うとそこは、なんと最前列、しかも花道のすぐ左側。
まさしく、中央の特等席。
その席二人分に、荷物だけが置いてある。
道理で一番いい席に誰も座らず、荷物だけが置いてあるわけだ。
「あ。あっち側やったら○○さんが取ってくれてるけど」。そういわれて花道の反対側を見ると、こちら側と同じように、二人分の特等席に荷物だけがおいてある。
・・・。
いつも偉そうな態度の私は何もしてやれなかったのに、娘と嫁さんのために、娘と嫁さんの友達は、ちゃんと支えてくれている、そう思うと感謝の気持ちで一杯になった。

最前列に移動して、ビデオ撮影を始める。
卒業証書授与は続く。
壇上の中央ではなく、左側に校長先生が立っている。
証書の授与では先生が名前を呼ぶのではなく、順番に壇上の右側に上がった生徒が、自分の名前を名乗るのだ。そうすると、壇上中央のスクリーンに、自分が小学一年生だったときの写真が映し出され、そして生徒は、舞台を右から左へ横切って進み、校長から証書を授与されるのだ。

アイウエオ順で娘の名前が近づく。
どうなるのかと見守っていると、娘の小学校一年生のときの写真が、スクリーンに映し出された。
そのとき、クラス全員が、娘の名前を呼んだ。
そして、親友が代わりに、証書を受け取り、そして壇を降りて、私たち夫婦のところへ証書を持ってきてくれた。

少し涙が出そうになった。

式は進む。途中、10分の休憩があったが、入れ替わり立ち替わり、先生や父兄の方々が私たち夫婦のところへ激励に来てくださるので、トイレに行くことも出来なかった。

式の最後である、卒業生の合唱が終わった後、先生が卒業生に向かって言った。
「みんなが書いたお父さん、お母さんへの手紙。今日は、みんなのお父さん、お母さんがその返事を書いてきてくれました。それを代表して、○○(長女)のお父さんに読んでいただきます」。
ハンドマイクを手渡された私は、起立して卒業生に向かって手紙を読んだ。
(手紙の内容は「メールとか 『交差点の向こうに消えるまで』」参照)
気持ちを込めて読んだ。
心地よい緊張の中、娘に聞かせるように手紙を読んだ。
「卒業、おめでとう」と締めくくり、頭を下げたとき、拍手が聞こえた。

その後も、生徒から先生へ、内緒で計画していた贈る言葉や手紙、父兄による、感謝の歌や花束贈呈、そして先生から生徒への歌など、式次第にはないものがゾロゾロ披露され、なみだ涙の卒業式となった。
式の後もしばらくは、いろいろなご父兄からねぎらいの言葉をいただき、なかなか帰宅できなかった。
恥ずかしながら、手紙に対するお褒めの言葉も沢山いただいた。


そして、1時間後。
娘の病室で、先生たちによる授与式が行われた。
担任の先生が、証書を手渡した。

「あなたは小学校の全過程を修了されましたので、ここに証書を授与します。これで私のクラスの生徒、全員の卒業式が終了しました」

卒業、おめでとう。

2005年3月19日(土) そっちは仕事用だから

長女の面会時間を過ぎて、病院を出た嫁さんを迎えに行き、夕食も終えて、お気に入りのテレビドラマを見ながら、ゆっくり過ごすひと時。
仕事用の携帯電話が鳴った。

この時間に仕事用の携帯電話が鳴るのは、ほとんどの場合、何らかの障害が発生したことを意味している。反射的に、今後の行動パターンや対応策など、いくつもノシナリオが頭に浮かび上がる。
私が携帯電話を開くと同時に、嫁さんがテレビの音量を下げる。

私は電話の主を確認すべく、携帯電話の画面に見入った。
しかし、そこに映し出される電話番号は、メモリ登録されているものではなく、また、私の記憶している、どのお客の電話番号とも異なっていた。

とはいえ、この携帯の番号を知っているものは限られており、全てが仕事に関連しているメンバーであることに違いは無い。そして、この時間に電話をしてくるということは、それが急を要するものであることを示している。
いくつか描いたシナリオの、いずれとも一致しない、予期せぬトラブルかも知れぬ。

私は電話に出て名乗った。
そして相手も名乗る。
「○○です」

「は?もしもし?」
「○○です」

私が聞き返した最大の理由は、名前が聞き取れなかったからではない。
相手が女性だったからだ。
仕事がらみの話で、私の携帯電話に女性から電話をもらうことはない。

完全に仕事関係の電話であり、その電話の主が男性であるだろう、と予測していた頭の中では、正確に聞き取れた名前も、仕事に関連する女性のいずれとも一致しなかったため、思わず聞き返したのだ。
そして聞き返した直後に、今、名乗られた名前が誰のものであるのか、ようやく理解できた。
「なんや○○かー。仕事の電話かと驚いたぞ。どうした?」
「あのー。パソコンが壊れたんです」

確かにトラブルには違いなかった。しかも、最も予期せぬものだった。
それからおよそ30分。始終笑いながら和やかに、トラブル対応(結局修理に出すことに)をすることになった。

2005年3月20日(日) 新しいコンテンツ

以前からというか、このサイトを作った時から、の目的であった、勉強用のコンテンツを、ようやくアップした。

きっかけは情報処理技術者試験であった。
ここ二度ばかり、「システム監査技術者」というやつを受験しているが、連敗している。
未経験な分野でもあって、なかなか実感の無いのが敗因の一つといえる。
実経験がないため、勉強したことが自分の知識として蓄積されているのかどうか、またその知識を正しく活用できるのかどうか、を確認するすべが無かった。

そのため、より多くの事例や情報を収集したいところなのであるが、ネットで探してみても意外と情報は無く、まして試験対策となると数えるほどしかない。
その数少ないサイトを見てみると、「自分が勉強をするきっかけとしてサイトを作った」という意見が多いことに気が付いた。

そこで私もサイトを作ることにした。
行き詰った感のある、私の学習方法の打開策となることを期待してのことだ。

今回は、何回学習してもしっかり出来ていなかった、「損益計算」から取り組んだ。
個人事業者としても、おさえておくべき内容であるので、きっかけとしては最適と考えた。しかしこれが、実際にコンテンツとして作成するとなると、思いのほか手間が掛かる。

なかなか先に進まない、カリントの各コンテンツの中にあって、もっとも進捗の芳しくないコンテンツになることは間違いないであろう。

2005年3月21日(月) 退院

21日 23:05

長女が退院した。
本当はもう1日〜2日入院するはずだった。

明日、卒業行事としてクラス全員でUSJに遊びに行くらしい。
もちろん長女も参加予定だった。
ところが今回の入院で、それも難しくなった。
クラスのみんなにも、「今回は参加できない」と伝えていた。

入院中も嫁さんは、何度と無く看護婦さんに話をする。
「23日はみんなでUSJ行く予定にしているので、退院させてやりたいんですが、見通しはどうですか?」
「そうですねぇ。先生に話はしておきますので・・。○○(長女)ちゃん。早く退院できるといいね」
そういう会話が続くものの、結局、先生の口から答えは聞き出せなかった。
また、長女もあきらめていたのか、看護婦さんにそう話し掛けられても、下を見て力なくうなづくだけだった。

そして今朝、半ば退院をあきらめかけていた私のところに、電話があった。
相手は担当医だった。
「あ、お父さんですか。○○ちゃんからね、『私、どうしてもみんなと一緒にUSJに行きたいから退院させてほしい』って言われまして。ええ。で、本当はもう1日〜2日ほど入院してもらいたいんですが、かなり強く退院を希望されるようなんですよ。それで、お父さんに相談なんですが、このまま入院を継続させるか、あるいは今日、退院して明日の朝、もう一度外来診察を受診するか、どちらにしましょうか?」
「今日、退院させてやってください」

私は先生の言葉を最後まで聞き終わらないうちに、退院お願いした。

いつもは、自分の意見をほとんど言うことが出来ず、後になってふくれっつらをするだけの長女が、今回は、積極的に先生に懇願したことを思うと、仮に、これで再入院になったとしても、長女も私も決して後悔はしない、と考えたからだ。
午前中に受診できれば、昼からの数時間でもみんなと一緒に過ごせる。

私の返事の後に先生が付け加えた。
「わかりました。私は、明日の外来担当ですので、朝一番に診察してあげますから、9時に連れてきてあげてください。診察は10分ほどで終わりますよ」。

2005年3月24日(木) 禁酒開始

22日、娘はUSJに行き、最後の六年生を謳歌してきたようだ。
私は夜、お客さんの送別会に行き、そしてご機嫌で帰ってきた(はず)。

昨日は頭痛という余韻に浸りながらも、朝から仕事をこなし、夜は早めに自宅に戻った。ところが、気がつけば夢の中。

というわけで、3日ぶりの日記だ。

前日の痛飲では、嫁さんに偉く迷惑をかけてしまった。
そこで反省の意味を込めて、禁酒することにした。
とはいえ、誕生日にもらったばかりのウィスキーもあるし、焼酎もまだ一度しか飲んでいない。
だから、一週間に一度ぐらいは飲んでもいいことにした。
毎日飲んでいたのだから、これが実践できるだけでも大したものだ。

とりあえず、明日はサッカーの試合があるので、飲む。
大事な代表戦を、酒を飲まずに見るなんて事は出来ない。

来週は、月曜日に飲みに行く。
そして、・・・あ。
30日も代表戦だった。

うーん。
一週間に二度は飲んでもいいことにする。

4月末に人間ドックがあるが、それまでこの「節酒」は続くか。

2005年3月25日(金) 対イラン

今日は代表戦があって、昨日、禁酒を誓ったばかりなのに、早速飲むことになっている。
しかも試合の間中、休む間もなく飲み続ける。
かつて、W杯初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」のときは、決勝ゴールのその瞬間までに、飲みも飲んだり350ml×20本。実に7リットル。
でも、まったく記憶はなくならず、次の日も元気だった。

さて、明日は気分よく迎えられるか。
間もなくのキックオフに、心は踊り、もはや日記など書いていられない。

2005年3月26日(土) 機種変更

ケータイの機種変更をしようかと思って、サイトを巡っていると、「コイツはいい!」と思った機種に出合った。
2メガピクセルカメラ(我が家のデジカメと同じだ)にテレビの受信。
おお。すごいぞ。
これで私のモバイル生活も充実し、仕事の幅も広がるかもしれない。

が、やっぱり高い。
思いっきり躊躇してしまう価格だ。

嫁さんに相談すると「車のテレビはどうするの?」と言う。
そうだった。
車にリアモニタをつけて後部座席でDVDやテレビを見られるようにしようと思い、これまた今朝、サイトで検索して、ようやく「これ!」というものに出合ったばかりだった。

そうでなくても何かと物入りのこの季節。
長男長女ともに高校と中学校に進学するし、入院費も払ったし、あ、私の人間ドックもだった。

充実のモバイル生活と仕事の幅を広げることはあきらめ、ケータイのランクを落とした。そして、なんとか嫁さんの同意も得たので、注文書を取り寄せるメールを送った。

直後、大事なことを忘れていたことに気がついた。
私の車には生意気にも、電話を使って通信するナビシステムがあり、ハンズフリー通話も出来る。
なので、このナビへ接続できることが、ケータイ機種選定の大事な条件なのだ。

慌ててカーナビのサイトで調べてみる。
ガーーン。
いま、注文書を要求したケータイ電話に対するコメントがあり、なんと、「従来方式と異なり、ハンズフリーの信号が出力されておりませんので、ご利用になれません」と書いてあるじゃないか。

それでは、と、今度はカーナビに対応している機種を見る。
ガーーン。
最初に見つけた高い機種がそこにあった。

結局、ケータイの機種変更はしばらくお預けとなった。

2005年3月27日(日) 子どもの名前

私の子どもの名前は珍しい名前である。率直に言えば珍名である。
子どもが三人いて、長男は同じ漢字で同じ読みをする人は他にも大勢いるが、長女と次女は、同じ漢字の人がいても、同じ読みをする人はまず、いないだろう。
Webサイトなので、名前を公開するのは差し控えるが、サイト検索してもヒットしたことは無い。
三人揃って同じ名前の兄弟は世界中探しても絶対にいない。

この、子どもの名前のことで前から良く聞かれることだが、今日も聞かれた。

「え?この漢字でそう読めるの?」

そんな、あなたの能力のことを私に聞かれても、私は知らない。
あなたの読解力など、私は存じていない。
あなたの能力は別として、この漢字はそう読むのだ。
そう、私が決めたのだ。

こういうと、「漢字の読みを勝手に決めて」などと言う人がいるかもしれない。
これまたおかしな事を言う人だ、と私は思う。

「そう読むのを人名辞典に載せてくれ」などとは思ってもいない。
でも、そう読む、と決めるのは自由なことだ。
それが何時しか一般化したときに、人名辞典にのることもあるかもしれないが。
(むしろそうならないことを願っている)

名前に使う漢字とその読みは親が決めるものだ。
誰かに許可をもらうものではない。
それが一般的であると受け入れられ、特殊であると奇異に思われる。

例えば「大」と書いて「ひろし」や「まさる」と読む。
「ひろし」はまだわかる。大きな場所は広いのだから、そのとおりだと思う。
「まさる」はどうだ?
「大きいことは小さいことよりまさっている」という時代につけられたから、「まさる」と読むセンスが受け入れられただけで、「大」の字が最初から「まさる」という読みを持っていたわけではない。
「まさる」という読みは「重厚長大」至上の時代に登場したから受け入れられたであろうが、今の時代に始めて登場した名前であれば、「軽薄短小」のいずれかの文字が「まさる」となっていたかもしれない。

自分の感覚で、「そう読めないからその漢字には無理がある」というのは、「私にはその漢字をそのように読むセンスがありません」と告白しているようなものだ。

2005年3月29日(火) 何で笑うんですかぁ

子どもの頃はいつの間にか、友達が出来た。
どちらからとも無く、話しかけたり、他人が遊んでいるところへ、なんとなく混じっていったり。
別にきっかけなんて無かったと思う。

しかし、大人になると、そうもいかない。
仕事上の付き合いでもなければ、きっかけなしで新しい付き合いは始まらない。

「何で笑うんですかぁ?」
今回のきっかけは、これだった。

仕事で電話をかけると、独特の明るい話し方で対応する女性がいた。
その話し方があまりに無防備で、飾り気のないものだったので、何度と無く電話するうちにこちらも心が和み、気がつけばいつの間にか、その声を聞いて私は、クスクス笑ってしまったようだ。

「何で笑うんですかぁ?」と電話の向こうで、そう尋ねる彼女の声もまた笑っていた。
それからは、電話をして彼女が出るたびに、何かを言って笑わせるのも、仕事の合間のささやかな楽しみとなった。
互いに顔も知らないのに、笑いながら会話をしているのは、少し変な感じだった。

もし、あの時、彼女がそう言わなければ私は、それ以降、電話で話をしても笑うことは無かったと思う。
楽しくお酒を飲む友達が出来た。

これからもよろしく。

2005年3月30日(水) 擬似米

夕方に見るニュースと夜に見るニュースは内容が違う。

視聴者に合わせてのことだろうが、夜のニュースより、夕方のニュースの方が、くだけた感じがある。
社会ネタより生活ネタが多く、全国ネットよりローカル放送が多いので地方色豊というか、ローカルな話題が多い。

奈良県の遺跡から見つかった「擬似米」は長い間、貴重な米の変わりに祭事に使用された人工物だと考えられていた。
ところが、精密な分析を行った結果、それはなんと「コガネムシの幼虫のうんこ」だったらしい。

でも、「長い間この擬似米は・・・」と画面に映し出された瞬間、「うんこやん」と、精密な分析結果を聞くまでも無く、私は見抜いた。
しかしこれは、それほど大層な話しでもない。

昆虫博士(子どもの頃ならそう呼ばれた人は少なくないはず)の異名を取った私にしてみれば、「常識」であり、それを見て「祭事に用いられた人工物」と判断するほうが難しい。

まあ、当時も糞だとわかっていて、祭事に用いたかもしれないが、糞を「擬似米」というのはもう、「みそくそ」だ。

2005年3月31日(木) 次は6月

最初は何だったろうか。
青春ドラマの最終回で見たまるでマンガのようなバナナシュートか。
戦争映画のクライマックスで見た曲芸のようなバイシクルシュートか。
あるいはカナリア軍団の黄金のカルテットが繰り出す華麗なパスワークか。
もしかしてその全てかもしれない。
何時の頃からか私はサッカーが好きになっていた。

日本にプロリーグが発足するずっと以前、世界に比べて日本は弱かった。
たまに見るテレビの試合でも、パスは下手だし、スピードは遅い。
だから、ヨーロッパチャンピオンと南米チャンピオンが激突するカップ戦は見ても、日本一を決めるカップ戦は見なかった。
第一、テレビ中継そのものがほとんど無かった。

ところが、プロリーグ発足が決まってから、日本は強くなってきた。
そして国民にも受け入れられてきた。
お陰でテレビ中継も増えた。
「ドーハの悲劇」も「マイアミの奇跡」も「ジョホールバルの歓喜」もすべて生中継で見る事が出来た。

そしてその度にテレビの前で応援しているはずの、多くの人たちと心を一緒にして、その瞬間瞬間を感じていた。
バーレーン戦の平均視聴率40%。
5000万人の人があの試合を一緒に応援し、そして同じように喜び合ったことになる。

私が一生に出逢うことのできる人は数限られていて、ほとんどの人のことを知らないままに生涯を終える。
電車の窓から見渡した、そこに広がる街の人のことを、私は知らない。
でも、その街に住む半分近くの人と、心を一緒に出来る瞬間があるのかと思うと、サッカーが好きで本当に良かったと思う。

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