カリント日記

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2006年4月1日(土) ペダルをこいで

朝から好天に恵まれお花見日和といった感じだったが、毎度のように午前中は仕事があるため、そそくさと出かけて、ちゃっちゃと片付けた。

出先から戻ってきた私は、そのまま家に入るのが惜しくなり、かばんだけ玄関においてすぐに出かけることにした。
行き先は自治会館。
いつもは会議があり、パソコンを持って出かけるので徒歩で行くことが多いのだが、今日は身軽なので自転車で行くことにした。
自転車と言っても嫁さんが乗っているいわゆる「ママチャリ」である。

自転車にまたがり、えいっ、とペダルを踏みつけて漕ぎ出した。

自治会館に行く途中の酒屋でビールを1缶だけ買った。

自治会館に着くときれいな桜が咲いていた。



ここは近所でも評判の、というか、近所だけで評判のお花見のポイントなのだ。

自転車を降りた私は一人木の下に佇(たたず)み、桜の木を見上げた。
日差しも柔らかく、渡る風もまだ少し冷たさが残る。
自転車の前かごからビールを取り出して、プシュッ。

ゴクゴクと流し込むビールの苦さが、桜の花びらの色を引き立たせた。

静かな町並み。
誰もいない自治会館。
前の道を時折、自転車が走っていく。
桜の木を見上げて、何かを思う。

残りのビールを一気に流し込んだ。

今日は始まりの日。
すべてが前に向かって動き始める日。

私は再び自転車にまたがり、えいっ、とペダルを踏みつけて漕ぎ出した。

2006年4月2日(日) 本格的に始動

何度となく通いなれた小学校だが、今日はPTA会長として打ち合わせに出席した。
しかも今までと違って私から開催をお願いした会議だ。

旧役員から新役員へのバトンタッチが行われるこの季節、いろいろな資料をもらいはするが、具体的な活動状況がつかめない。
いくらやる気になっている私とはいえ、先が見えないままに複数の役員を兼務するのはかなかな難しい。
単位子ども会や校区子ども会は大体の動きがわかったが、肝心の小学校役員はよくわからない。
そのために引継ぎのための打ち合わせをお願いしたのだ。
というのも、こちらからお願いしなければ、引継ぎそのものがなかったからだ。

単位子ども会のなかの班長会議でさえも、過去一年間の活動記録などを使って旧班長から新班長への引継ぎが行われる。
なのに、小学校の役員会では過去に引継ぎを行われたことがないのだそうだ。

というのも、班長と違って小学校の役員が全員新しいメンバーになることは少なく、通常は昨年から引きつつづき役員を引き受ける方の中に数名の新役員が加入するため、わざわざ引継ぎなどしなくても、実際の活動の中で追々わかっていけばいいので、事足りていたのだそうだ。

そうは言われても、小学校役員の経験のない私がいきなり会長を務めるのだから、多少なりとも内容を把握していないとまずい。
つくづく、こんな私を会長に推薦した、前任の会長や学校の先生方は、よっぽど人選に困っていたのだろうか、と考えてしまう。

しかし実際に集まって話をしてみると、案外、みんなわかっていないことも多かったし、隠れていた問題点や、それに対する解決のアイデアなどが次々に出てきた。
これからすぐにやらなければならないこともわかったし、秋に行う行事の段取りも決めることができた。
何より、それぞれの役員の心に、共通の意識を持つことができたと思う。

4時間という長丁場に疲れてしまったが、それでもまだ、今日の打ち合わせは終わらなかった。
夜になって校区子ども会の会長と、今後の子ども会の活動についての話し合いをした。
理想を語り合い、現実を認識しあった。
その妥協の中で実現可能な解を見つけた。

そして日記を書いているが、PTA会長として入学式の後に行われるPTAへの説明会の資料を作らなければならない。
あ、そうそう、単位子ども会の会長として、会計報告書と予算書を作成しなければ。

2006年4月3日(月) 「もう」は「まだ」なり

買えば下がって、売れば上がる。

素人が始めたネット株なのだから、最初からうまくいくわけもないのだが、それでもその現実を目の当たりにすると、落ち込んでしまう。
買って下がったものはそのまま上がるまで持っているか、あるいは適当なところで見切りをつけて、別の株に投資をしているので、それほど落ち込まない。
どちらかといえば、売った後に上がったときのほうが落ち込む。

買ったときよりも値が高くなれば、どの時点で売っても儲けになるのだが、できるだけ高いところで売りたくなるのが人情。
しかし、そんなことを言っていると今度はいつ下がるかもわからない。
「買値より高くなったし、これから先はあまり伸びずにいったん下がるんじゃないかな。下がらないうちに、売っておこうか」と考える。
これが「利益確定」と呼ばれるものだ。

ところが、得てして私の場合、売った後に株価が上がる。

40,000円と41,000円の間をうろうろしていたある株が、39,000円から38,000円の間をうろうろし始めた。
今までの値動きを見ていると、いつもこんな調子で40,000円前後をうろついているようだ。
会社の状況を調べても、そこそこ健全で今後も話題になる分野である。
よし、と覚悟を決めて、39,000円のときに買ってみた。

しばらくすると株価が下がり始め、37,000円になってしまった。
ああ、いつものことだ、上がるまでまっていよう、そう思っていると、一週間後には40,000円を超え始めた。
41,000円を越えたあたりで、またうろうろし始めたので、私は売ることにした。
まあ、たいした利益ではないが、儲けは儲け。
またしばらくして39,000円ぐらいになったら買おうかと思っていた。

ところが、その後株価は上昇し続け、いまや45,000円。
今までの値動きからは予想もできない上がり方だった。
いや、予想できないのは私が未熟だからであって、プロの人は予想していたんだろうが。
しかし、これはある意味、正しい判断だと思う。
確かに、現金化するタイミングが利益を左右するのは間違いない。
でも、その株も、現金化できずにいつまでも持っていると、ただの「含み益」のある株券だ。
ネット株を始めたほとんどの人は、お金儲けが目的なんじゃないだろうか。
株式優待を受けたいとか、価値のある株券を持っていたいとか、会社に貢献したいとか、そういう目的ならいざ知らず、お金を儲けたい人は、ただ値上がりした株券を持っていても仕方がなく、それを現金にして始めて目的を達成するのだと思う。

金額が少なくても、儲けは儲け。
100万円の含み益のある、売れない株を持っているよりましだと思う。

2006年4月4日(火) トランスジェンダーの日

「三月三日の桃の節句が女の子の節句で、五月五日の端午の節句が男の子の節句だ。だから四月四日はオカマの節句だ」などと子どものころは馬鹿なことを言っていた。
「オカマ」という言葉を用いることに違和感と抵抗を感じるが、子どものころにはそれ以外の言葉を知らなかった。

四月四日は「トランスジェンダーの日」という。

まだ二十世紀だったころ、トランスジェンダーの方々を支援する団体が、日本記念日協会に申請し、公式に認められたものである。
トランスジェンダーとは「自分の身体の(解剖学的な)性別やそれに属する社会的、文化的性別に対して強い違和感や不快感を感じている人たちの総称」であり、「性同一性障害」者も含まれる。

そういう障害を持たない人から見れば、彼らや彼女たちの振る舞いは奇異に思えるものであり、それが言われなき差別などを生んできたことは間違いない。
かく言う私も、その加害者の一人である。

私は、「男は男らしく、女は女らしく」と考えていた。
いや、基本的には今でもそうである。
ただ、昨今は芸能人の中にもそういう人たちが増え、だんだんとそれが認知されてきたのは間違いないし、私は学園ドラマでそういう人たちの存在を改めて考えるようになった。
本人たちだって、願わくばそうありたいと思っているはずだ。
自分の考え方に体がついてきてほしいと思っているに違いない。
常に、男らしく、女らしくありたいのに、体が伴っていないだけだ。

身近な知り合いにそういう人たちがいないので、いかほどの苦しみであるのかは知る由もないが、今日ぐらいは、少し勉強しようと思った。

2006年4月5日(水) 入学式

夕べ、次女が家族五人分のてるてる坊主を作った甲斐もなく、今朝は、昨夜から引き続いて雨が降っていた。
それでも、小雨になっていたのは多少の効果の表れか。
今日はその次女の小学校の入学式だった。

10時からの開会で役員は15分前に校長室へ集合するようにといわれていたが、長男を残して、家族全員9時過ぎには家を出た。
小雨の中、みなきれいに着飾っているのでゆっくりと学校へ向かったが、それでも9時20分ごろには学校に到着した。
校長室へ向かう私は、体育館へと向かう家族といったん別れた。

校長室に入ると見知らぬ年配の女性が並んでおり、どこかの婦人会のお偉いさんだろうと勝手に推察した。
結局どこの誰なのか最後まで聞くことはなかったが、私を見て「あなたが新しい会長さん? だんだんと若くなるわねぇ。ほほほ」と「いかにも」な笑いをしていた。
普段はジーンズ姿の役員のお母さん方も今日はワンピースやスーツを着ており、私にそれを指摘されると照れ笑いしていた。

やがて時間となり、校長室を出ると「会長さんを先頭に一列に並んでください」と言われ、一列に並んで校長の引率で体育館へと向かった。

体育館に入ると、子どもも父兄も全員着席していた。
父兄は子どもたちの後方に座っており、子どもたちの顔が見えない。
しかし、来賓の座席は子どもたちの斜め前なので、みんなの顔がよく見える。
次女の姿もよく見えたし、向こうも私の顔がよく見えたようだ。
相変わらず、私と目が合うと、舌を出してあっかんべーをする。
卒園式に引き続き、入学式でもか。
私も、来賓席に着きながら、あっかんべーをしてやった。

国歌斉唱の後に校長の挨拶が始まる。
校長の挨拶が終わると、進行役の先生が子どもたちにわかりやすいように私を紹介した。
「みなさんのお父さんやお母さんを代表してPTA会長さんにご挨拶していただきます」

代表してるんだかどうだか。
そんなことを考えながら、マイクスタンドに向かった。
そういえば予行演習なしのぶっつけ本番だ。
歩き方やお辞儀の仕方はこれでいいのだろうか、などと考えてマイクスタンドの前に立つと、子どもたちがみんなこっちを見ていた。

普段、子ども会で付き合っている子どもたちよりもはるかに小さく、はるかに真剣なまなざしでこちらを見ていた。
私は、原稿を持たずに、だからところどころつまりながら、それでもわかってもらえるように、子どもたちに話しかけた。
「友達を作りましょう。」

そして父兄にも挨拶をした。
「友達を作りましょう。」

見回すと私の話にうなづいている人もいて、報われた気がした。
座席に戻ると、役員のお母さんも「感動しました。わかりやすくてとてもよかったです」と言ってくれた。

ただ、次女だけは「話し聞いてたけど、お父さん声が小さい!」とダメだしされてしまった。
声は大きいほうなだけに、ホールなどで話をするときはその加減がわからず、小さくなってしまうことがあるのだ。
次女も仲良しの男の子と同じクラスになって喜んでいた。

夜、仕事を終えて帰宅してから次女に話を聞くと、もう新しい友達ができたといっていた。
次女を見習って友達を増やさなければ。

2006年4月6日(木) つくしのように

昨日の夜は久しぶりに酒を飲んで帰り、自宅に着くとすぐに、小学校の役員さんたちにお礼のメールを書いた。

 「お父さんの話ちゃんと聞いてたか?」
 と新一年生の娘に聞くと
 「聞いてたけど、声、小さいねん!もっとマイクに近づかないと!」と、
 ダメだしされてしまいました。
 ハンドマイクならカラオケで使い慣れているのですが、
 スタンドマイクはちょっと苦手です。
 人前で話をするのはどーって事無いだけに、残念です。
 それにしても、皆さんが横に座っていただいている事を
 これほど心強く思うなんて予想していませんでした。
 ありがとうございます。心強かったです。
 本当に何もわからない会長なので、ご負担をおかけすると思います。
 でも、子どもたちのために何かをしたいと言う気持ちに偽りはありません。
 これからも、笑顔で挨拶できる、学校でありますように。

いつもの私にしては少し弱気な発言のように思うが、少なからず、今回の騒動で不安な気持ちを抱いていたお母さん方には、安心できる話をしようと心がけているからこういうメールになった。
これに対してみなさんからの返事のメールは一様に「挨拶はとても良かったです。一緒に頑張りましょう」というありがたいものだった。

多くの子どもに関わる仕事を引き受けたのだから、不安が全く無いといえば嘘になる。
少しの励ましでもうれしいものだ。
経験を持っている方が私を笑顔で受け入れてくれて、いろいろとサポートしてくださる。
今の私には何より心強い。

いつものように強気で進む私は、少しの間、なりを潜めていたが、春のつくしのようにむくむくと顔を出し始めた。

2006年4月7日(金) マニュアル作り

小学校にしても中学校にしても、PTA役員会の仕事の効率が悪すぎると思う。
同じ組織なのに、会社とは大違いだ。
特に私はコンピュータ関係の仕事をしているので電子化の進んだ組織の中で作業をすることが多い。

まず、マニュアルがない。

たとえば、各種会議。
年間を通していろいろな会議がある。
「本部役員会議」「学年委員会」「実行委員会」「専門委員会」「市協議会」などなど。
会議であるからには、目的とメンバーが決まっているはずだ。
なのに、それらの会議の目的とメンバーを示した文書がない。
まあ、それでも会議だから、その時々に課題があるだろうし、その名称が示すようなメンバーが集まればなんとなく進むんだろうし、今までがそうやって進んできたんだろうから、あまり細かいことは言わない。

しかし、他にもいろいろなイベントがある。
「文化祭」「みんなの集い」「地域交流会」「ベルマークの仕分け」などなど。

「文化祭」や「みんなの集い」は見に行ったことがあるのでどういうものかは見当がつく。
でも、「地域交流会」なんて漠然としている。
誰と何を交流するんだ?
どんな話をするんだ?
「ベルマークの仕分け」なんて、知っていなけりゃ絶対にできない。
そもそも仕分けをしなきゃいけないなんてことを知らないし、仕分けてからどうすればいいのかも知らない。
「文化祭」にしても、聞いてみたら「警備」や「誘導」が主な仕事だそうだ。
あのときの自転車を誘導していたおじさんはPTAの役員だったのか!
てっきり市が雇ったガードマンだと思っていた。


次に、会議の議事録がない。
いや、あるのかもしれないが、旧役員に聞いたら「見たことがない」と返事が返ってきた。
アニュアルがないから、その時々にやるべき内容は、会議の中で伝えられる。
ほとんどが口頭で伝えられ、時折、プリントも配布されるが、そのプリントで配布された内容もその場で確かめながら、適宜修正を加えることも多い。
そういう会議で決まったことを示しておくべき議事録がない。
各自が自分の聞いたことをメモにとるのだ。
無論、修正されたプリントを再配布されることはない。

「次回検討しましょう」と保留になった項目が次回に検討されることはないし、「じゃあ誰かがやるということで」となった項目は誰もやらない。
そしてそれに対して文句を言った人の記録も残らない。
私が参加するまでの自治会が実際そうだった。

あまり急激に変えるのは周りの反感を買うだろうし、それは本意ではないので、少しずつ、意識を変えていきたいと思う。
まずはベルマーク仕分けマニュアルを作ろう。

2006年4月8日(土) 野点の日

今日は高校で役員会と野点(のだて)が行われた。
役員会が14時から開催されるがその前に茶道部の生徒が春の恒例行事であるお茶会を行うのだ。
午前中に仕事を済ませた私は嫁さんと駅で待ち合わせをして学校へ行くことにした。

長男の通う高校は地域に開かれた高校であると思う。
少なくとも私の通っていた高校にそういう催し物はなかった。

駅から徒歩10分ほどの道のりの半分は桜並木の公園を通り抜けていく。
花見をしている人や楽しそうに遊ぶ子どもたちの姿をよく見かける。



道の両側にたくさんの桜の木が立っており、隣のマンションに住んでいれば、家に居ながらにして花見ができる。
すべての桜の木が、まるでこの学校の新入生を歓迎するかのようにたくさんの花を咲かせている。



学校の門をくぐると受付があった。
受付には女子生徒が二人座っていた。
名前を記帳すると嫁さんが一人の女子生徒に気がついて名前を呼んだ。
その女子生徒は長男と同級生であり、私と中学校で同じ役員をしている人の娘さんだった。

校庭のほうへ進んでいくときれいな桜と、その桜の下で楽しげに笑っている老人ホームの人たちが目に映った。
近くの中学生たちもクラブ帰りだろうか、コーチと一緒に来ていた。
文化祭のときもそうだったが、本当に多くの人が気兼ねなく出入りできる学校だ。



卒業生の父兄で構成される後援会がとても積極的に活動しているのも、ひとつの要因だろう。
野点の後の役員会で後援会の人と話をしたが、みんなこの学校がとても好きで、誇りを持っていることがよくわかった。
私もその一人だ。

2006年4月9日(日) 思い出の場所

まさしく青春のあのころを思い出すのは、この時期の河川敷である。

結婚する前まで淀川の河川敷の近くの町で過ごし、そのボロボロの借家こそが私の青春時代の住処(すみか)だった。
河川敷の歩道を毎日30分、自転車に乗って通った高校で嫁さんと出会った。
家が近所だった私たちは、その河川敷をよく一緒に帰った。
自転車を漕ぐあの時間が楽しかった。

仲間もたくさんいた。
冗談も言わないあいつ、冗談しか言わないこいつ。
格好ばかりつけているあいつ、格好の悪いこいつ。
まっすぐ家に帰らず、別に当てもないのに、その河川敷でよく話をしていた。
ただ、ただ、何もないのに、その時間が楽しかった。

堤防の上に自転車を止め、下におりて走り回った。
黒い制服を脱ぎ、白いワイシャツで遊んだ。
空に雲雀(ひばり)が鳴き、大地に芝生が笑っていた。
西に太陽があり、東に月があった。
右に「僕」がいて、左に「私」がいた。

今日は、長女の友達4人を連れて河川敷へ遊びに来た。
3時間ほど、走り回り、笑い転げながら過ごした。
何がそんなに面白いのか、彼女たちは本当に楽しそうだった。

あれからもう、25年。

それでも、この季節の風は同じ薫りを運んでくる。
相変わらず、雲雀は空高く鳴いている。

いつの日か、彼女たちにも青春の思い出の場所ができるだろう。
願わくば、今日のこの日のように、25年後の、いや、50年後のその日も、その場所が懐かしく感じられる場所でありますように。

2006年4月10日(月) 始業式

泣く子も黙る始業式である。
いや、別に我が家に無く子はいないが、学校へ行く子供が三人に増えた。

今まで幼稚園児だった次女は、長男と長女が学校へ行ってしばらくしてから起床していた。
しかし、今日から子供たちはいっせいに起きて、いっせいに朝支度をして、いっせいに出かける。

午前7:00。
嫁さんの目覚ましが合図となっていっせいに子供たちがおき始める。
私は一人、居間で寝ており、子供たちが起きてくるより先に目がさめてはいるが、布団の中でテレビを見ている。
しばらくすると、次女が降りてきて私の布団の中に入って、ごそごそし始める。
そのうち長女が降りてきてもぞもぞし始める。
ほとんど同時に嫁さんが台所でごとごとし始める。
みんなが一段楽したころ最後に長男が降りてきてわさわさし始める。

三人とも朝食はばらばらで、それぞれにやることが異なる。
食パンを食べ、フレークを食べ、ご飯を食べる。
ランドセルを背負い、ブレザーを着て、ネクタイを締める。

「行ってきまーす」
「行ってきまーす」
「行ってきまーす」

子供たちが出かけると家の中は静かになる。
子供たちがみんな家を出た後、嫁さんと話をしながら私もゆるゆると身支度を整え、そして家を出る。

「行ってくる」
「行ってらっしゃい」

あわただしい朝の出来事の最後を見送る嫁さんは、玄関で、いつものように私に手を振っている。
私が、駅へと続く通りの角を曲がるまで。

2006年4月11日(火) 自慢の

仕事から家に戻ると、長女が腕を広げて出迎える。
「おかえりなさーい」

我が家では別に珍しいことではなく、私も両手を広げて中学生の長女を迎え入れる。
「ただいまー」と抱擁する。
半ば儀式的な挨拶。
ひどく疲れているときは少々面倒くさいと思いながらも、長女の笑顔を見ると応えてやりたくなる。

でも、いつもより少し長女の言葉が違う。
「おとーさあーん。大好き」

こういうせりふを聞いて財布の紐を用心する父親は多いだろうが、我が家の場合は、決してそんなことは無く、文字通りなのである。
いまだかつて、何かを買って欲しいなどとねだられたことが無い。
部屋着に着替えてくつろぎながらビールを飲み始めると長女がうれしそうに話をし始めた。

「友達がさー。『○○(長女の名前)はいいなあ。うらやましいわ」
うれしそうな顔をして話をしている。

「○○のおとうさんは面白いし、一緒に遊んでくれるし、サッカーもうまいし、何でもすぐ答えてくれるし、なんでも知ってるし。ええなあー』って言うねん」
と、うれしそうに、しかし、私の反応をうかがうかのように話をする。

無論、悪い気のしない私は、「ちょっと今の話を聞いたか?」と嫁さんに何度も聞く。
そのさまを見て長女も満足げだ。

彼女にとって自慢の父親ではあるが、父親が、彼女が自慢することをとてもうれしそうに聞いているというところが、彼女の喜びでもある。

別に、父と娘に駆け引きなど無く、互いに仲良しで、自慢して自慢されて、そしてまた、笑いながらいっしょに走り回る、それが我が家の父と娘の姿なんだと、再認識した。

2006年4月12日(水) 新鮮な朝を

春眠暁を覚えず。
まさに痛感する春である。

と、言ってみたものの、これの真の意味はなんだ?
普通に夜寝て、朝起きるのがつらい、あれか?
なら冬の朝のほうが起きるのはつらくないか?

などと、本気で調べる気にもならない、春である。
きっとそういうことなのだろう。

冬の寒さ、ともすれば、死んでしまうかもしれないほどの凍えから逃れることが出来て、とりあえず新しい季節を迎えることが出来た、生き物が感じる怠惰な時間。
ホルモンの関係だとか、日照時間の関係だとか、諸説色々あるらしいが、結局はその怠惰な時間を貪りたいという、生物としての欲求。
それが春眠なのだと思う。

本当に、寝ていることに快楽を感じる季節である。

でも、そろそろ気を引き締めたい。

朝は眠いものの、そういえば、窓の外の光の気配を感じているのは朝の6時前。
少なくともその時間に一度は目を覚ましている。
ただ、まだ早いからと、眠っているだけ。

そろそろ布団から這い出す時間を早めて、世間が活動し始める前の、新鮮な空気を体に取り込む習慣を取り戻さなければ。

2006年4月13日(木) ゆーめるめる

休日の昼間、電車に乗っていた。
久しぶりにガラガラの電車。
その車両には10人程度。

その中にあって、左斜め前から異彩を放つ気配が漂ってくる。
ひげもじゃのお父さんと、小太りのお母さん、そして青い目にブロンドのカールがかわいい女の子。
外国人の家族づれで、これからどこかへ出かけるのだろう。

「Demachiyanagi? ・・・ NoNo・・・ Tammbabashi? ・・・」

はあはあ。
京都へ行くのか。
そう思っていると、何かを感じた。

ひげもじゃのお父さんがこっちを見ていた。

何回目だろうか、外国の人に道を尋ねられるのは。

「・・・ This train ・・・ Dematiyanagi?」

はっきりとは聞き取れなかったが、Dematiyanagiへ行くのかどうかを尋ねているのはわかった。

「No. This is train bound for Kuzuha. Change Kuzuha station」
「kuzuwa?」
「Kuzuha」
「Kuzuha station? Change・・・track number?」
「Track numbar? Sorry,I don't know. Mey be ・・・1or2」

おお。われながら結構、言えた。

でも、今までにも何度か外国の人に道を聞かれて言えなかった言葉がある。
それを言うチャンスを私はうかがっていた。
私が電車を降りようとしたそのとき、今まで黙っていた奥さんが私に声をかけた。

「O.K. Thank You very much!」

きた!
すかさず私は応えた。

「You're welcome!」

2006年4月14日(金) PTA協議会

昼間は小学校で今年の学年委員や専門委員の引継ぎが行われた。
総勢、30名ほどのおばさんたちだ。
くじ引きで委員に選出された人たちもおり、旧委員はほっとした表情だし、新委員の中には露骨にいやそうな顔をしている人もいた。

確かにしんどいところはあるのだが、それだけに充実しているし、実際、本部役員ともなれば、半数以上が複数回役員を経験している。
今日出席していた中には委員を16年間やっていた人もいた。
頼まれたら引き受ける、という人もいるが、役員のほとんどは立候補だ。
それだけに、活気もあるし、会議をしていても楽しい。

夜になって市のPTA協議会に出席した。
市内にある全小中学校、23校のPTA会長が集まる会議だ。
第一回目ということで市長や教育委員会の面々も来賓で列席しており、実に堅苦しい雰囲気だった。

協議会副会長の司会でお決まりの挨拶から始まった。

まず、協議会長の挨拶。
この会長は23校の単位PTA会長(私もこの一人)の代表で、さらに上位会である北河内PTA協議会に出席する。
さらにその北河内協議会の代表は府協議会に出席し、その上に近畿協議会があり、最後が日本PTA協議会、となる。

来賓の挨拶のあと、「議長選出」というのが行われた。
司会が「議長の選出はどのようにいたしましょうか」という。
すると、私の前に座っていたどこかの学校の会長が「議長一任!」と声を上げる。
司会者が「意義はありませんか?」と確認すると、今度は私の後ろの席の女性の会長が、「異議なし!」と声を上げた。
それを聞いて司会が「それでは・・・」と議長を指名した。
指名された議長も「はい!」と元気よく返事をして舞台に上がった。

へー。
こんなふうになってるのか。
無論、「議長一任」と声を上げた男性も「異議なし」と発声した女性も、なにより議長に指名された男性も、前もってそういう「役目」を与えられている。
まあ、まともにやり取りしていたら、会議が進まないので、こういう「仕込み」も必要なのだろう。

選出された議長が舞台で議事進行していく。
「行事報告」「会計報告」・・・。
最後にやっぱり、「意義はありませんか」「異議なし」で終わる。

その後、写真撮影があり、そして飲み会になった。

周りにいた数名の人と話をしたが、剣道の先生、空手の師範、塾長、いずれも子どもたちの教育に携わっている人が多く、やはり周りから推薦されて会長になったらしい。
そういう意味では私も子ども会の会長として仕事をしているから推薦されたのだ。
それだけに、みな「やる」人であって、小学校の委員と違って「やらされている」わけではない。

だからこそ、子どもが生徒でいる限られた年数の間に複数回役員をするのだと思う。
自分の子どもと子どもの多くの仲間のために。

2006年4月15日(土) 伝心

一年ぶりに友人に会いに行った。
中学生からの付き合いで高校も大学も同じだった。
だから嫁さんも、よく知っている。
昔はよく遊び歩いたものだ。
あまり酒の飲めないやつなのに、呑む雰囲気が好きなのだろうか、酒を飲むという話になれば、真っ先に駆けつけていた。

つい最近、そんな友人と夢の中で将棋をした。
本当の彼は決してそんなやつではないのに、夢の中の彼は、私に負けそうになったところで、将棋盤をひっくり返しやがった。

今日はその文句も言ってやろうと思っていた。
夢の中のことだけれど、今の彼には夢の中でしか会えない。

彼の家につくと相変わらず、愛想のいいおばちゃんとおっちゃんが出迎えてくれた。
居間に案内されると、彼はそこで相変わらず、笑っていた。
「オッス」
私はあのころと同じように笑顔で挨拶をした。

「いやあ。元気?」彼の声が聞こえた。
「元気やで」と私は心の中で応えた。

「そうそう。お前、この前、将棋負けそうになったからって、ひっくり返したやろ」
続けてそう言ってやった。
「悪い悪い」と彼の笑いながら謝る声が聞こえた。

それから乾杯をした。
缶ビールをコツンとあわせることはできないけれど、うまそうにビールを飲んでいる彼の姿が浮かんできた。

相変わらず、酒には弱いらしい。
写真の彼のほほが少し赤くなったような気がした。

2006年4月16日(日) 年に二回の試験

情報処理技術者試験に親子三人で挑戦した。
私は久しぶりの受験で長男は二回目の受験、中二の長女は初めての受験である。

三人とも前日までほとんど勉強をしておらず、力試しにもなってはいないが、どの程度の勉強が必要であるかは、みんな理解できたようで、それだけでも次のステップアップのために役立ったと考えている。
勉強もせずに受験料をドブに捨てるようなものだと言う人もいるが何もせずに現状に甘んじているよりはよっぽど有意義なことだと思う。

長男は模擬試験や高校受験を体験しており、長丁場の試験にも慣れてはいるが、長女にとっては生まれてはじめての、長い長い試験だったと思う。
家に帰ってきた長女はかなりくたくただったようで、口数も少なかった。

それでも今年の秋の試験も受験するといい、合格したいという気持ちに変わりはないようだ。
そのためにはどれだけの勉強をしなければならないかもわかったはずで、そういう意味では収穫のあった一日だっただろう。

この子どもたちの前を歩くには私もそれなりの結果を出さなくては。
子どもは私の背中を見ているのだから。

2006年4月17日(月) 嫁さんをドキュメント化

今年の班長さんはPTA活動未経験の人が多い。
私の地区の子ども会の班長さんのことだ。
地区長さんや副地区長さんも未経験者だ。

去年はベテランばかりで、しかもみんな私のかおなじみだったので何かとやりやすかった。
しかし今年は違う。
顔なじみは副地区長さんだけだ。
ただ、地区長も経験した大ベテランの班長さんと、何よりうちの嫁さんが班長になっていることが心強い。

おそらく、町内の誰よりもうちの嫁さんは、小学校の活動をよく理解しているだろう。
それに、嫁さんは記号化されたものを記憶することは学生時代から苦手で、勉強には苦労したが、いつどこで誰が何をした、という空間的時間的な記憶は恐ろしいほどにいい。
PTA活動で必要なのは記号に対する記憶よりもむしろ後者の経験的な記憶だ。
この嫁さんの記憶があるから、この季節になれば、次の季節のための準備を、誰がどういう風にやればいいのか、去年の問題点は、その解決策は、そして結果は、というように次から次へとアドバイスをしてもらえる。

しかし、私はいつまでも嫁さんを当てにはしていられないので、すべてを記録に残し、ドキュメント化して保存することにした。
そしてまず始めたのが、班長さんのための「班長さんのお仕事」マニュアルである。
班長さんの仕事をよく理解していない私が作るのだから、無理があるのは承知の上だが、いつか誰かが作らないといけない資料なら、私が今作るのが一番いいに決まっている。
なんだかんだと、私はできてしまうのだ。

さ、ユーザ向けの資料でもこんなに力は入れないけれど、班長さんだし、これから何年も使う(はず)だ。
がんばるぞ。

2006年4月18日(火) 自治会長はイヤ

嫁さんは小学校PTAのバレーボール部に所属しており、先日もみんなで飲みに行ったようだ。
バレーボールは決してうまくないのだが、みんなといるのがとても楽しいようで、いつもうれしそうな顔をして出かける。

このママさんバレーのチームは決して強くない。
どちらかというと楽しくやりましょう、という雰囲気が強い。
そもそも、メンバーからしてそうだ。

PTAの本部役員の半分はバレーボール部だし、子ども会の会長や班長なども多数参加している。
そういう、普段から子どもの世話をするために集まって話をしていた人たちが、作ったチームなのだ。
バレーは弱いが、行動力と影響力は強い。
一人で校長に文句を言いにいく嫁さんが、まだおとなしい部類になるほどの、強烈なメンバーが参加しており、「影のPTA本部」といっても過言ではない。
彼女たちを敵に回すとこの町で平和な日常を送ることが困難になることは断言できる。

先日、嫁さんがそのメンバーと話をしていたときのことを私に話した。
「(PTA)副会長の○○ちゃんが『お父さん、会長の仕事、大変でしんどい、って言うてない?』って心配してたけど、『大丈夫大丈夫。余裕余裕。なんやったらもうひとつぐらい引き受けられるんちゃうか、っていう勢いやから』って言うといたから」という。

な、何を勝手な!
もうひとつ、って。
そんなこといった覚えはないぞ!

などと思いながら、内心うれしかった。
さすがは嫁さん、私の気持ちをわかってくれている。

あまり大風呂敷を広げているように受け取られるのもいやだし、下手に敵を作るのも本位ではないので、口外しないが、人前で挨拶することにしろ、長時間の会議にしろ、仕事でやっていることに比べれば、どうってことない。

この気持ちがいつまで続くか、それが問題だが。

2006年4月19日(水) 結婚宣言

「結婚します」と宣言したのは、行きつけの飲み屋で以前、働いていた女の子。
今は遊園地で仕事をしている。
今日は友達も連れてきたので4人で飲んだ。

結婚宣言をした彼女ではあるが、その彼氏と出会ったときは、どちらかというと敬遠していた。
その人からのメールを私に見せて「どう思います?このメール。何か勘違いしると思いません?迷惑で困るんですよー」などと、取り付く島もないほどにこき下ろしていたのに、本当に女心はわからないものだ。
男の押しが利いたのか。
彼女の友達の話によると、今ではかなり仲のいいらしく、いろいろな目撃情報があるようだ。

おそらく、その周りのほとんどが最初のころの彼女の気持ちなど知る由もなく、その話を知っている私は少し得した気分だ。
こういう話は結婚式での絶好のスピーチねたではあるが、万一、結婚式に招かれたとしても、こんな話を知っている私にスピーチの依頼をするわけがない。

でも、結婚が決まっているわけではないようだ。
「どうなれば『結婚が決まった』っていうんですか?」
彼女にそう聞かれた。

私の場合はどうだったろうか。
嫁さんと私はお互いに出会ったころから結婚するつもりだったし、お互いに仕事を始めるといつでも結婚できると思っていたから、「結婚が決まった」というのは、「そろそろ結婚しないといつまでたっても結婚できないから」と「半ば強引に挙式の日を決めたとき」だと思う。
実際には、家を買うために、結婚式の2ヶ月前に入籍したのだが。

「彼氏が両親に挨拶をしにきたとき」や「婚約指輪を買いに行ったとき」とか人によって結婚が決まるタイミングは違うと思うが、「結婚しよう」という言葉が必ずどこかにある。
彼が言い出さないのなら、自分から言ってしまえ。
どちらが言ってもかまわないのだ。

結婚はゴールじゃないぞ。
結婚してからの人生のほうがはるかに長いのだから。

2006年4月20日(木) 久しぶりの

久しぶりにラーメンを食べた。
何日ぶりだろうか。

去年の夏になる前にダイエットをはじめて、そのときからまったく食べていなかった。
ダイエット中は食べないようにしていたが、冬になってからは別段そういう気持ちがあったわけでもなく、たまたまおいしいラーメンを食べる機会がなかっただけだ。

そして今日は久しぶりにおいしそうなラーメンに出会ったので食べてみたくなったのだ。
「高山ラーメン」というらしい。
高山とは朝市と赤かぶで有名な飛騨高山のことである。
しょうゆベースのあっさり味に、白ねぎがたっぷり乗せてある。

それを見てすぐに店内に入った。
しかしメニューを見ているとだんだん味噌ラーメンが食べたくなってきた。
子どものころはあまり好きではなかったが、大人になってからはよく食べるようになった。
特に、七味を入れて辛くした味噌ラーメンが好きだ。
四川風というのだろうか。

注文してしばらく待つ。

・・・。
・・・。

待ち時間が長い。
ラーメンって待ち時間はこんなに長かっただろうか。
それともはやる気持ちがそう思わせているだけなのだろうか。

・・・。
・・・。

「お待たせしました」
ようやく運ばれてきた味噌ラーメンは実にうまそうな色と香りを漂わせていた。
一口スープを飲むと、「これこれ」と自然にうなづいていた。
七味をかけてラーメンを口に運び込むと、後はもう、ひたすら食べた。
スープも最後の一滴まで飲み干した。

ふうー。
大きく息を吐き出し、額に浮かぶ汗をハンカチでぬぐった。

やっぱ、うまいわ、ラーメン。

2006年4月21日(金) 班長さんのお仕事

「班長さんのお仕事」という資料を作ってみた。
子ども会の班長さん向けの説明資料だ。

去年までは顔みしりのベテランぞろいの子ども会の班長だったが、今年は初めて経験する方が多く、班長の仕事はおろか、そもそも子ども会って何?といところから説明しなければならないような状態だったので、それなら説明資料を作ろうと考えた。
多少手間はかかるものの、説明用の資料を一回作れば、今後も活用できるからだ。

おそらく、子ども会始まって以来のことだろう。
PowerPointによる班長さんへの説明資料を作成したというのは。
パソコンを人一倍使いこなす嫁さんでも「このPowerPointって何をするソフト?」と質問していたが、今回の資料で「なるほど!」と納得してようだ。

班長会議で配ると第一声が「きれい」、そして「かわいい」である。
いや、もうちょっと中身を見てくれ、そう思いながら、次の言葉を待った。
「あはは。『これであなたも立派な班長さん』やて」
よし、まあ、つかみはOKか。
少なからず、配布した資料に興味を示してくれている。

いろいろな会議に出ているが、特にこういう会議に慣れていない人にとって、手元に配られる資料は、会議のお飾りであって、街角で配られている宣伝ビラと同じ程度の扱いしか受けない。
ちらっと見はするものの、中身に興味を持っているわけではなく、自分に関係ないと思えばすぐにゴミ箱いきだ。
それを防ぐためには、とにかく興味を持たせて、どういうことが書いてあるのか気になるように仕向けること。

こういうノウハウは、顧客相手に仕事をする中で身に着けたもので、そういうことを経験していない、子ども会やPTA役員には作れない資料だとおもう。

内容についても十分に理解していただけたように思うし、その資料を自宅に持って帰ることによって、ご主人やお子さんの目に触れることがあれば、やはりその内容を知っていただき、協力もしていただける。
事実、ご主人が実情を知らず、非協力的であるために役員活動ができないという人もいるのだ。

もっともっとこういう資料を作ることによって活動を円滑に勧められる余地はたくさんありそうだ。

2006年4月22日(土) 復元できたけど

先日、パソコンの外付けハードディスクが壊れてしまった。
USBで接続するあれだ。
壊れるのはこれで2台目だ。

最初に壊れてしまったものは、最初に購入した40GBのもので、5年以上使っていた。
ある日、突然ファイルもディレクトリも何もかも見えなくなってしまった。
ドライブは認識しているが、ファイルがまったくない。
プロパティで空き容量を確認しようとすると、かなり長い時間待たされた挙句、なんだったかもう忘れてしまったが、とにかくエラーになった。
「とにかくエラー」というと素人のような発言だが、少なくともその時点で「フォーマットができればまだまし」と判断したのは間違いない。

案の定、フォーマットさえできなかった。
ディスク本体をよく見ると、今まで青い色に光っていたはずのLEDが真っ赤になっており、時々点滅していた。
もう「こわれました。だめです」ということを意思表示しているように思えた。

しばらく電源を切って放置しておいたが結局事態は進展せず、中のデータもろとも廃棄することにした。

そしてつい先日、新しい250GBのディスクが壊れた。
250GBである。
ドライブにアクセスすると「フォーマットされていません」といいやがる。
そんなわけはない。
映画や音楽などのデータがびっしり入っている。

バックアップはとっていない。
もう、「コンピュータ関係の仕事をしています」とはいえない。

何とか復旧を試みることにしたが、これはもう、専用ソフトの力を借りるしかないと思い、思い切ってオンラインで購入してみた。
早速、壊れたディスクをフォーマットし、ソフトで検索してみるといくつかのファイルが確認できたので、そのうちのひとつを復元してみた。
さすが、有償のソフトである。
ものの見事に復元してくれた。

それから30時間ほどかけて、ディスクの全セクタを確認して復旧対象ファイルを検索し、さらに40時間ほどかけて復旧できるファイルを復旧した。

しかしそこから問題が。

映画や音楽のファイルを復元できたものの、ファイル名が「Recovery001」などと単純な連番になっており、まったく内容がわからない。
これでは一本ずつ内容を確認してファイル名を記述しなければ。
本数はざっと300以上。
ちょっと気が遠くなった。

2006年4月23日(日) 着物姿に変身

土曜日に家の近所にある呉服屋さん主催の着物着付け教室の発表会が市民ホールで行われた。
着付け教室の発表会というとイメージしにくいかもしれないが、生け花の発表会と同じで、教室に通う生徒さんたちが自分たちの作品を発表するのである。
着物の柄と帯と結び方の組み合わせで自分の作品を作って発表する場である。
そのイベントに長女が参加した。

長女が着付けや帯結びを習っているわけではない。
そのイベントのモデルとして参加したのだ。

長女が着物を着るのは数年前の正月以来のことであり、普段は制服以外にスカートを穿くこともなく、いつも男らしい格好をしている。
その長女に着物を着るモデルをしてステージに立ってほしいというのだから、呉服屋さんも奇特な方だと思った。

当日は朝早くから「面倒だなあ」という長女を連れて嫁さんは文化ホールへ向かった。
スカートでも嫌がるのに、女性らしい着物など、長女にとっては本当に面倒なことなのであろう。
長女が出演するのは14時以降だというので、現地でお弁当を用意していただいた長女を残し、昼前に嫁さんが戻ってきた。
嫁さんも着物姿を見ることなく戻ってきたようで、長女の着物姿をとても楽しみにしていた。

ところが、14時前になって一足先に行った嫁さんから「もう終わったらしい」と、現地へ向う途中の私に連絡が入った。
嫁さんの声もたいそう残念がっていたが、私も残念だった。
ただ、長女にしてみれば、自分がステージに立っている姿など、私や嫁さんには見られたくないというのが本音であり、内心ほっとしていたようだ。

それでも私が現地についたとき、長女はまだ着物姿だった。
係りの人に呼んでもらうとホール脇の休憩所から長女が出てきた。
「十三参り」のモデルだそうだが、髪をアップにし、桃色の和服を身にまとった長女は、とても大人びて、まるで別人のように見えた。
嫁さんは「もう二度とないから」と写真を撮りまくっていた。
次女はきれいなおねえちゃんに憧れて、早く私も着物が着たいと言っていた。

普段、女の子らしくない長女がそういう格好をすると我が家は大騒ぎなのだ。

2006年4月24日(月) 次女の庭

姉妹であれば妹がなんでも姉と同じようにしたがるので、おませになるのはわかるが、我が家の小学校一年生の次女も例外ではない。

一年生の間は集団登下校といえど、それに慣れるまでの間は親が交代で一緒に登校し、帰りは途中まで先生が送って、集合場所まで親が迎えに行くというシステムになっている。
まだ給食が始まっていないので昼前に授業が終わり先生に連れられて次女が帰ってくる。
当然、朝の集合場所のところで嫁さんが待っていると、先生に連れられた数名の一年生に混じって次女が帰ってくる。
嫁さんの姿を見つけた次女は喜ぶどころか少し不満げだ。
「だーかーらー。言ったでしょ、迎えに来なくていいって」
「そんなこと言ったって、みんな、お母さんが迎えにきてるでしょ」
「・・・。心配だったら、私に見つからないように、影から見ていて」

そう言われて陰から見ているような嫁さんではないし、影から見ていなければ心配になるような所を通ってくるわけでもない。
いつものご近所さんの前を通ってくるだけだ。
だから今日は嫁さんは迎えに行かなかった。

そして次女が帰ってくるころ。
ピンポーンとインターホンがなった。
「ハーイ」と返事をして玄関に嫁さんが出ると次女が立っていた。
両手を腰の横に当てて、これまた不満げな顔である。

「ちょーーっと、遅いんと思うんですけど」
「はあ?何が?」
「何をしてはったんでしょうか?」

迎えに来なかった嫁さんに文句を言っているのである。
敬語で言うあたりが生意気だ。

また、最近はウィンドウショッピングがお気に入りであり、かわいい服を見ては「はあ・・。あんなのほしいなあ」などという。
「ピンク色のかわいいの買ってあげたでしょ」と嫁さんが言う。
「水色がいいの。どうして水色がないの?」
「ピンク色がいい、って言ったからピンク色にしたんでしょ!」
「じゃあ、今度から水色にしてよね」

服のコーディネートは我が家で一番うるさいし、ヘアスタイルにしてもそうだ。
「今日は二箇所でくくって、後ろはこんな感じに上にあげて。・・・。違う、そうじゃなくてこう!」
鏡の前にいる時間もダントツで長いし、どうやればかわいく見えるかポージングの練習も怠らない。

最近はご近所の呉服屋さんで着物を眺めるのも好きになったようで、今日は家に上がりこんでいろいろと話を聞いてきたようだ。
無論、嫁さんが連れて行ったわけではない。
自分で店に入って行き、ちゃっかりメロンをご馳走になって帰ってきた。

おませなだけでなくこの行動力だから親としては少々怖いものがある。
しかし、当の彼女にとってこの近所は、すべて自分の庭のようなものなのだろう。
それはそれで私の目指している近所づきあいではあるのだが。

2006年4月25日(火) 久しぶりの人たち

続くというのか、重なるというのか、久しぶりの人からの連絡や久しぶりの人との再会がこの10日ほどの間に起こった。

12日、最初に掲示板の常連さんから久しぶりにメールが来た。
普段ならどうってことのない内容のメールだったが、今にして思えばこれがきっかけだったのかもしれない。
「電車の中で偶然、久しぶりの人に会いました」。
私にとってはそのメールこそが、久しぶりだった。

13日、仕事帰りに携帯電話が鳴った。
携帯電話に表示されたその名前があまりに久しぶりだったので、すぐにその相手とは気がつかずに、「はて?だれだっけ?」とさえ思ってしまった。
電話の主は単身赴任中の友人だった。
「久しぶり。今、ええかな? パソコンの調子が悪くて」
少し話をしたが、自宅に帰ってからゆっくり話したほうがいいだろうと思っていったん電話を切った。

同じ日、電車を待つホームで次の出会いがあった。
私の横から誰かが声をかけた。
これまた私の友人だった。
「久しぶり。どう。ちょっとだけ、飲んで帰る?」
私がその言葉を聴くのをまっていたかのように、彼が言った。
ショットバーで飲みながら、話をした。

それが次の再会の話だった。
「そろそろ、あいつの命日やな」
久しぶりに友人の家にいく約束をした。
その約束の日が15日。

そして15日、その彼の家に行く途中にも、久しぶりの人から電話があった。
「おお。久しぶり」
電話の主は私のかつての上司で、会社を辞めてからは話をしていないので3年ぶりぐらいだろうか。
その人の口からは出たのは久しぶりのかつての同僚の名前だった。
しかし知らせは悲しく、その同僚の親父さんがなくなったという訃報だった。

翌日の16日、その親父さんの通夜に参列し、久しぶりの同僚やかつて勤めていた会社の、久しぶりの面々に再会した。

19日には久しぶりに再会した子が結婚宣言をした。
心から応援してあげたい。

つい先日には、久しぶりに母から電話があった。
応対したのは嫁さんだったが、どうやらまた入院したらしい。
よく入院するので、私もちょっとやそっとじゃ驚かない。
昨日、見舞いに行ったが、案の定、元気に笑い転げていた。

久しぶりの人に私はどう映っただろうか。
「相変わらず」でもありたいし、「ちょっと変わった」でもありたいと、思った。

2006年4月26日(水) ちょっと空回り

小学校のPTA決算予算総会に出席した。
前年度の決算報告と、今年度の予算案の審議だ。

市のPTA協議会や中学校のPTA総会のときと同じように、司会が議長を選出し、拍手で承認というお決まりの儀式だ。
ただ、小学校では毎回出席する人も決まっていてとても和やかに会議が進む。
私も仕事の途中でなければスーツではなく普段着で参加するつもりだった。

その後に役員会があった。
役員会と言ってもそんなに堅苦しいものではなく、班長会議となんら代わりはない。
お茶を飲みながら、校長先生の差し入れのお菓子にキャーキャー騒ぐ女性とともに話をするだけだ。
今度、父兄に配布する資料の確認や、会議の議題などを決めている。
とはいっても去年の実績を踏まえて話を進めるだけなので、たいした議論もない。
井戸端会議に毛の生えたようなものだ。

だから、記録だっていい加減なもので、すべてがプリントで渡される。
それの繰り返しでやってきたのだから、そりゃ前任の会長に「去年一年の活動をまとめた資料や、会議の記録などを見せてほしい」といっても「???」と思われるだけで、資料が出てくるはずもない。
私が言わなければ引継ぎもなかったんだから。

作業をするにあたっては段取りが90%以上とも言われる仕事を普段からやっている私にとって、そんな予備知識もないままに、会長をやれといわれても困る。
まあ、それでも人並み以上にできるのだが、準備がなければ私の希望するレベルに達することができない。
私はもっとうまくやれるはずなのに、と自分に腹が立ってしまうのだ。

かといって自分が何もしなければこのまま一年が過ぎるのは目に見えているので、後任のために私は記録を残しているのだが、「会長がパソコンを操作していると、会議が進行しづらい」と役員に小言を言われた。
本来なら、書記である学校の先生にお願いしたいところだが、きっとまたプリントで渡される。

なので、昨日は少し強気に話をした。
「少なくとも私が関係した時期から父兄や役員に提出した資料はずべて私に電子データで見せてください」
当たり前の要望なのに「どうして会長が?資料をまとめるのは学校の仕事です」といわんばかりの雰囲気が、先生や役員の方々から滲み出している。

その資料の右上に私の名前があるのに、私がその資料を持っていないことをおかしいとは思わんのか?
って、歴代の会長はそれを疑問に感じたこともないのだろう。

なんだかやる気満々の私があほらしく思えてきた。

2006年4月27日(木) 次女の習い事

次女は幼稚園のころから長女と一緒のスイミングスクールに通っているが、最近になってそろばんも習い始めた。
本人はスイミングスクールもそろばんも喜んで通っているようだ。

スイミングスクールでは進級テストがたびたびあり、合格するたびに「さて今何級でしょうか!」と私に問題を出す。
わざと、間違えて下の級を応えてやると得意げに正解を告げる。
でも、この前の進級テストには失敗したそうだ。
試験科目は「背泳ぎ」と「ドルフィンキック」。
背泳ぎは次女が最も得意とする泳ぎ方なのだが、前日まで体調を崩しており、腹筋に力が入らなかったのが、原因のようだ。
それを見抜いたコーチはさすがだと思った。

また、ドルフィンキックも次女の好きな泳ぎ方である。
「人魚泳ぎ」と自分で名前をつけて、習う前から一人で練習していただけに、他の子どもよりもうまい。
ただ、これまた腹筋に力が入らず、きれいにできていなかったらしい。

そろばんも「○」がたくさんつけられたノートを私に見せて満面の笑みを浮かべている。
この前は嫁さんと二人でそろばん教室へ行くまでの地図を描いたらしい。
描いた地図はそろばんのかばんの中にしまっていた。
そろばんのある日、次女はかばんからその地図を取り出し、「お母さんは後ろからついてきて」といいながら、その地図を頼りにそろばん教室まで歩いていったらしい。
曲がり角のところでは地図をくるくる回して、「えーと・・・。あ。こっちか」などとさながら、小旅行の気分だったのではないだろうか。

我が家で一番活動的なのは間違いなくこの次女だ。
毎日が楽しくて楽しくてしかたがないようだ。
ゴールデンウィークは仕事でゆっくりしていられないが、少しでも時間ができたら次女と一緒に遊んで、元気を分けてもらおうと思う。

2006年4月28日(金) 体調に変化?

そういえば最近はビールばかり飲んでいるような気がする。

以前はウィスキーや焼酎などを自宅に常備し、最初にビールを飲むものの、その後はウィスキーや焼酎を飲んでいた。
これは何も家に限ったことではない。
外に飲みに行っても同じだ。
以前なら、最初の乾杯と二杯目ぐらいまではビールでも、その後は焼酎というのが定番だった。
なのに最近は、三杯目どころか四杯目もまだビールだ。
結局、ビールだけで終わることもある。

いったいどうしたのだろうか。

ウィスキーや焼酎を飲むのは寝る前の日記を書いている時など、ゆっくりとした時間帯であるのに対し、ビールを飲むのは食事の前後だ。
仕事を終えて一段楽したときにビールを飲み、食事をしながらビールを飲む。
ほろ酔い気分で家族と話をし、娘と一緒に風呂に入って、子どもたちが寝た後に、日記を書きながらウィスキーを飲む。
今まではこういうパターンが多かった。

しかし最近は、食事を一緒にすることが少なくなり、風呂だって私一人が遅れて入る。
気がつけば日付も変わっており、ビールを飲みながら日記を書く。
でも、日記で終わりではない。
あっちこっちの役員からメールが来ているのでそのすべてに目を通して返事を書く。
ゆっくりと酔っているわけにもいかない。
そういう生活をしていると、ウィスキーや焼酎を飲むと翌日に残ってしまうようになったのだ。

単純に酒に弱くなっただけなのかもしれないが、嗜好が変わったのだろうか。
自分の体調に何か問題があるのかもしれない。
そういえばそろそろ人間ドッグの季節だ。
今年も何もないことを願っている。

2006年4月29日(土) 育成者研修

今日は育成者研修会というやつに参加してきた。
対象者は単位子供会の指導者、つまり、会長やら地区長やらである。

よく「子ども会」と言っているが本来、子ども会は「子どもが運営する会」であって、そこの会長は大人ではなく、小学生が務めるものだ。
われわれ大人がやっている子ども会は、正確には「子ども会育成部」という。
自治会の規約にもそう書いてある。

私が子ども会の会長を引き受けたときに「どうしてお母さん方がこんなに忙しいのだろうか」と疑問に思ったものだが、その理由がここにあった。
本来は子どもが自主的に行うべきことをすべてお母さん方がやっているためだ。

つまり、われわれ大人が運営する育成部は、あくまで子ども会のリーダーを育成するための部であり、直接子どもたちを引率してどこかに連れて行ったりするのはそのリーダーであるはずなのに、そのリーダーがいないから、育成部であるはずのわれわれの仕事が多いのだ。
でも、実際のところ、同じ市内の数十の子ども会でも同じ理由で大人たちが忙しい。

ジュニアリーダーと呼ばれる人材がその子ども会のリーダーに当たるのだが、今日はどのようにしてそのリーダーを育てるのかという話を聞いてきた。
同じ大阪府のある市ではその育成に成功しており、小学校5年生から社会人にいたるまで、各段階ごとにリーダーと呼ばれる人材がおり、後輩の育成に力を入れている。

たとえば、キャンプの企画や運営などもリーダーが中心となってやっているため、各地区の子ども会は子どもを現地まで連れて行けば、あとはリーダーたちがすべて面倒を見てくれる。
そして、そこで体験した楽しさから次のリーダー候補が生まれる。
活動の写真を見せてもらったが、本当にみんな笑顔で楽しそうだった。
まさにすべてがいいほうへ回転している。

しかし、われわれの市はそれを育成するための基盤に問題があるようだ。
まず、この私が、ジュニアリーダーの存在を知らなかった。
要するに、宣伝があまりにも下手だし、校区の子ども会ですら積極的に活動していない。

でも、私が知った以上、これからは何かをしなければ、何も代わらない。

2006年4月30日(日) イチゴ狩りの下見

校区の子ども会でイチゴ狩りへ行くので、そのための下見に、長女と次女を連れて行ってきた。

嫁さんは下見するほどでもないといっていたが、私は多くの子どもを引率するものとしての責任があるし、私がもし子どもを預ける立場であるならば、下見ぐらいしてくれないと安心して任せられない、そう思ったから下見に行くことにした。

今回、イチゴ狩りをするのは交野市の私市だ。
私市といえば昔からイチゴ狩りで有名だった。
しかし、つい最近になってイチゴ狩りの組会が解散し、イチゴ狩りはあまり公にはやっていない。
実際、校区の会長が「いろいろ調べたけれど私市でのイチゴ狩りは無理」と言っていた。

でも、私の嫁さんはどこでどう知り合ったのか、私市でイチゴ農園を営む、個人農家を知っており、組合がとっくに解散してしまった二年前にも友達同士でイチゴ狩りに出かけた。
すでに組合もなく、これから増えるとは思えないイチゴ狩り農家で、しかも大阪の中心から最も近いともいえる場所なだけに、本心を言えば内緒にしておきたいのだが、子どもたちの喜びには代えられず、子ども会で行く場所として提案した。

自宅から各駅停車を乗り継いで40分ほどのところにあるのが私市。
駅をおり、トイレの場所とコンビニの場所、車の通行量を確認しながら、嫁さんに聞いたとおりの道をしばらく歩く。
すると突然、住宅の合間に田園が広がっていた。
そういえば車窓の風景も住宅と田園が交互に映し出されていた。

そこが目指すイチゴ畑だった。



ここでイチゴ狩りをすると一時間ほどで子どもは飽きてくるだろうから、近くの自然公園へ行くことにしている。
その場所には川も流れており、水遊びもできるという。
それだけに、安全確認が必要だ。

歩くこと15分。
低学年と運動不足の大人には多少きついかと思うようなアップダウンを超えてたどり着いた場所は、「いわふね自然の森」。
お弁当を食べる場所と、水遊びのできる場所を探す。
程なく両方とも見つけたが、水はお世辞にもきれいとは言えず、泳ぐのは遠慮したい。
ただ、深さは子どもの膝丈ほどであり、川幅も狭いので、大人を適切に配置すれば安心して遊ばせることができる。
それよりも、広い自然公園なので、目の届かないところへ行かないように配慮することが大切だと感じた。



いずれにせよ、大人はへろへろになるんじゃないだろうか。
なにしろ、下見帰りの電車の中で、睡魔と闘うのが大変だったのだから。

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